暁に咲く花  ――― 24 ―――

             翠 はるか



 久しぶりに訪れる神泉苑は、相変わらず強い龍脈の力に満ちていた。
 頼んでいたとおり人払いをしてくれたらしく、辺りに人影はない。
 こちらは、天真、詩紋、頼久、泰明、鷹通、それに友雅も来ている。
 霊的には今の彼らに出来る事はほとんどない。立ち会うだけだ。それでも、ただ邸で待っている事は出来ないし、何か起こった時は人手がいるかもしれないとやって来た。
 蘭にとっても、これだけの人が今度は味方なのだと思うと、心強く思えた。
 「―――行ってくる」
 蘭は、池の前に立って、静かな水面を見つめた。
 三年前にあかねたちと鬼が決戦したところ。蘭の呪縛が解かれ、苦しみが始まった場所。
 だが、この場にいても、蘭の心はその水面のように穏やかだった。恐れと焦燥が消えた今、自分を客観視できる。
 目を閉じて、己の内の力に集中する。
 すべての条件は揃っている。すぐに何かが自分の身の内から溢れ出るのを感じる。
 昏くて、静かな力。今はその力が荒々しいだけのものではないと分かる。
 ―――私はただ黒龍の力を利用することしか考えていなかった。最初の時からそう。自分の孤独を紛らわせてくれる者を求めた。その後もただ穢すためだけに。
 だから、黒龍の神子でありながら、黒龍と意を通じることができなかった。黒龍は破壊を司るけれど、決して邪神ではない。それを瘴気の塊にしてしまったのは私の責だ。
 「ごめんなさい、黒龍……」
 破壊があって再生がある。黒龍の神子が選ばれ、白龍の神子が選ばれる。本来、どちらが欠けても、創造は成り立たない。私はその意味を分かっていなかった。
 私は白龍の神子になる必要なんてない。黒龍の神子であることを恥じる必要なんてないんだ。
 蘭の身体から神気があふれ出す。
 龍神様、私に力を。まだ私をあなたの神子と認めてくれるなら、どうか力を貸してください。
 黒龍の圧倒的な神気が、蘭の身を通して現世に溢れてくる。
 「…これは!」
 誰かの声が聞こえてくる。
 力が溢れると共に、蘭の身体が浮き上がり、黒い龍が彼女を取り巻くようにその姿を現す。
 天つ空に、黒龍が具現化した。
 だが、これまでの降臨とはまったく違っていた。
 蘭は現れた黒龍を感嘆の思いで見つめる。
 絹のような光沢を放つ漆黒の龍が、京の空を泳いでいる。
 神々しい。なんて美しい。これが黒龍本来の姿。
 艶やかな龍は、京を一足で走り、その護りの力を京に巡らせていく。
 力が巡るたび、龍脈にこびりついていた怨念の残滓が破壊される。破壊された瘴気は、光の粒子となって消えてゆく。 消える瞬間、それはとても暖かな気へと変じていた。今度こそ、天に還ったのだ。
 …ああ、なんて。なんて、美しい……。
 京中をめぐった龍は、やがて空に溶け込むようにその身を薄れさせた。
 (ありがとう、神子―――)


 地上では、皆が黒龍の出現を固唾を呑んで見守っていた。
 三年前と同じく圧倒的な力。だが、そのまとう力はまったく違う物に感じる。
 京の歪みを押し流す浄化の力。これだけ強い神気なら、身に迫るように感じた。
 その強い力が京を巡り、龍脈の輝きを取り戻していく。
 一応、何か地上に影響が出ないかと警戒していたが、気の揺らぎが強風となって現れたくらいで、大きい被害は出ていないようだ。
 「―――龍脈の陰りが消えた」
 黒龍が現れてしばらくして、泰明が静かに告げる。
 京の異変は終息した。
 「待て、蘭はどうなったんだ!」
 天真が叫ぶ。黒龍の姿で、蘭の姿は覆われ見えなかった。
 「落ち着きなさい、天真。彼女なら、ほら、ちゃんといる」
 友雅が空の一点を指差す。
 よく見ると、黒龍の肢体が取り巻く中心に人がいる。
 遠すぎて輪郭しか見えなかったが、黒龍の気配が徐々に弱まるにつれて、ゆっくりと降下してくる。
 穏やかな笑みを浮かべた蘭が、地上へ降りてくる。
 友雅は、その様子を満足げな笑みを浮かべて見つめていた。
 ―――綺麗、だ。
 なんて美しい女性に成長したんだろうね、君は。
 「蘭!」
 出て行こうとした天真の肩に、友雅が手を置く。
 「友雅?」
 「すまないが、ここは私に譲ってくれ」
 その言葉に、天真が足を止める。何か言いたげな目で友雅を見てくるのに、微笑だけを返して、彼の前を歩き過ぎていった。
 すぐ頭上まで降りてきた蘭に、両腕を伸ばす。地上に足がつく寸前で、彼女を支えていた黒龍の力が消え、蘭の身体が友雅の腕に倒れこんできた。
 「…おかえり」
 耳元で囁くと、蘭は顔を上げて、満ち足りた笑みを浮かべる。
 「あなたにも見えた? 黒龍の降臨が。あんなにも美しい存在だったのね」
 「ああ、見えたよ」
 ―――黒龍の神子の、この上なく美しい降臨が。
 空から神の姿が消え、京に穏やかな景色が戻ってきた。




 「ほら、もう悪戯ばっかりして、駄目よ」
 駆け回る遥雅を引き寄せ、蘭は怒った表情を作る。
 今朝から、蘭が荷物をまとめる、その端から遥雅が散らかしてしまう。この繰り返しで、片づけがなかなか進まなかった。
 叱ってみるものの、そのくらいでは言う事をきかない。
 「困った子ね。もう明日には帰るのよ」
 大きくため息をつく。
 こうして遥雅をなだめていると、召喚の儀が遠い日に感じる。ほんの昨日の事なのに。 蘭は、自分の両手に視線を落とす。
 昨日まで身に溢れていた力を、もうほとんど感じない。もう神子としての役目は終わったのだ。後は、帰るための次元の穴を開けば、完全に消えてなくなるだろう。
 蘭は両手を膝に下ろし、もう一度ため息をついた。
 「蘭、どうだ?」
 驚いて顔を上げると、天真が部屋に入ってくるところだった。天真は散らかった室内を見て、やっぱりという表情で笑う。
 「進んでないな。遥雅が邪魔してるんだろ」
 笑いながら、走り回っている遥雅を見る。遥雅は遊び相手が来たと思ったのか、嬉しそうに天真のほうに駆け寄っていった。
 「よーし、よし。ちょっと遊ぶか」
 蘭がほっとして天真を見る。
 「お兄ちゃん、もう終わったの?」
 「ああ。遥雅の相手しとくから、その間に片付けちまえよ」
 「ほんと? 助かるわ」
 天真は遥雅を膝に乗せて、一緒に手近な玩具で遊び始める。
 遥雅も、ちゃんと側についてくれる人が来て満足したのか、散らかし回るのはやめて大人しく渡された玩具で遊んでいる。蘭はそれを見届けて、荷物の整理に取り掛かった。
 「お前、荷物が多いな」
 「そうね。遥雅の玩具が増えてしまったから」
 藤姫がいろいろ用意してくれた玩具が、それなりの量になっている。全部くれると言われたが、それは申し訳ないので雛遊びの道具だけ貰って帰る事にした。それでも、雛遊びの道具は精巧で細かい分、梱包が難しくかさばる。
 「こんな玩具を持って帰ったら、お母さんたち驚きそう」
 雛を包みながら、蘭はくすくすと笑う。向こうでは普通のおもちゃ屋には売っていないし、売っていても高価だろう。
 「だろうな」
 天真も笑ってそう答えた後、不意に表情を改めた。
 「俺さ、家に戻ったら、これまでのこと全部親父たちに話そうと思うんだ」
 「え?」
 蘭が梱包の手を止めて、天真を見る。
 「京の事も、全部。最初はまあ信じないだろうけど、最後にはきっと信じてくれると思う」
 「お兄ちゃん……」
 蘭は驚く。天真は、これまで両親には最低限の事しか話していなかった。こんな突拍子もない話は当事者しか信じないし、嘘としか思われないというのが天真の言だったし、蘭も話すのは辛いので、天真に任せていた。
 「急にどうしたの?」
 「なんか、いろいろ自分で殻作って空回りしてた気がしてさ。そういうの、少し直そうと思って」
 また思いがけない言葉だった。何か、この京に来て、思う事があったのだろうか。
 「……お前もさ、したいようにしていいんだぜ」
 「え?」
 「こうしないといけないから、じゃなくて、したいと思う事をしてほしい」
 どきりと鼓動が跳ねる。
 天真の言葉は、先日の友雅の言葉と似ていた。
 「…お兄ちゃん、何か聞いたの?」
 「何かって?」
 「友雅さんから、…何か」
 天真は小さく笑う。
 「ああ、やっぱりあいつ何か言ってきたのか」
 「……」
 蘭はうつむく。天真があの夜の話を聞いたのかもしれないと思ったが、そういう訳ではないらしい。だったら、余計な事を言ってしまった。
 「それなら尚更さ、お前が本音でいられる場所にいろよ」
 「お兄ちゃん?」
 蘭は困惑して天真を見返した。天真の言葉は、ここに残ってもいいと言っているように聞こえた。もし相談したら、きっと反対すると思っていたのに。
 「でも、私は……」
 「あいつといたいんだろ?」
 蘭の言葉を遮るように言って、天真はどこか寂しげに笑う。
 「お前がここにいる事を望むなら、親父たちには俺が話す。俺はもうお前の力になれないからな。…今までも、力になれてたか分からないけど」
 「何言ってるの、お兄ちゃん。そんなこと―――」
 蘭は否定しようとしたが、天真の微笑を見て口を閉ざす。
 彼は、蘭が心を閉ざしていた事に気付いたのだろう。
 蘭の目じりに涙が浮かぶ。
 「…そんな事、ない。お兄ちゃんは、ずっと諦めないでいてくれた。私自身でさえ、諦めてたのに」
 捕らわれていた日々。捕らわれている事すら分からなくなるくらいに、己を捨てる事で己を守った。その間も、ずっと天真だけが自分を探し続けてくれた。
 「私がこれまで頑張ってこられたのは、お兄ちゃんがいつだって私の味方だったからだもん」
 京にいた時も、家に戻ってからも、心に隔てを置いていても、無償で手を差し出してくれる天真の存在は蘭の支えだった。
 涙が溢れ出す。これまでずっと泣く事はなかったのに、この間友雅の前で泣いて以来、涙腺が壊れたように、すぐに涙が出てしまう。
 「ほら、子どもみたいに泣くんじゃねえよ。遥雅がびっくりしてるだろ」
 そう言いつつも、天真は嬉しげだった。優しい眼差しで蘭を見つめ、彼女の頭を何度も撫でる。
 ―――やっと泣いてくれた、俺の前で。
 「ほら、あんま泣くとブスになるぞ」
 「……お兄ちゃんは、ほんとにロマンがない」
 蘭が涙を拭いながら、拗ねた顔で天真を睨む。天真は笑って、蘭の髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。
 これでいい、と心から思えた。
 「…ありがとう、お兄ちゃん」
 そう言って微笑む蘭の表情に、暗い影はどこにもなかった。



<続>


 

 

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