暁に咲く花  ――― 23 ―――

             翠 はるか



 神の再臨の儀は決まった。
 そうなったからには、必ず成功させるよう準備をしなくてはいけない。彼らは、ひとまず土御門邸に戻っていった。
 鷹通だけは内裏に向かった。神泉苑への立入りを禁じる権限は、彼にはない。友雅か、もしくは永泉を通して帝に願い出なければならない。
 邸に戻ると、泰明や蘭は、藤姫の部屋で忙しく打ち合わせを始めたが、天真は今の所手伝える事もなかったので、部屋に戻る事にした。
 いつものように庭を通り抜けて部屋へ向かっていると、簀子縁に人が走り出てくる。
 「天真くん」
 「あかね」
 あかねが天真に向かって手を振っている。天真がそっちに歩いていくと、あかねはしゃがんで彼と目線を合わせた。
 「どうだった?」
 心配そうな表情が浮かんでいる。それが聞きたくて、天真が戻ってくるのを待っていたのだろう。
 「うん、ちゃんと黒龍と話ができたみたいだ」
 「そっか」
 あかねはほっとする。事態が進んだという事だろう。
 「黒龍を召喚する事になった」
 「え……」
 あかねの笑みが消える。
 「召喚って、天真くん」
 「今回の件は、三年前に黒龍の具現化が不完全だったから、って事らしい。まあ、俺は理屈はよく分かってないんだけど、召喚の儀が必要らしい」
 「でも、召喚の儀式は……」
 あかねも三年前に白龍を召喚した。身の内から神を呼び起こした感覚は忘れていない。
 「そうだな、取り込まれる可能性もある」
 天真がさらりと言う。あかねは反論しかけたが、天真がやけに落ち着いていて、不思議に思う。
 「天真くん、反対しないんだね」
 彼なら、蘭にそんな危険な事はさせたくないと思うはずなのに。
 「…ん、そうだな」
 天真は頷く。そして、長い事黙っていた。
 「……蘭はさ、分かってるけど、それでもやるんだってさ」
 ようやく口を開いた時、天真の肩は震えていた。
 「言ったんだ。―――私は黒龍の神子だからって」
 「天真くん……」
 天真は両手を伸ばし、高欄越しにあかねの両手を握った。
 「あいつ、やっと…、本当に立ち直ったんだな」
 そのまま顔を伏せる。見えないが、涙を浮かべているのかもしれない。
 あかねの目にも透明な粒が浮かんでくる。
 「うん、そうだね。その言葉が言えたなら、大丈夫だよね」
 天真の手を握り返す。
 彼らがどれだけ悩んで苦しんできたか、ずっと見てきた。直接的に力になる事はほとんど出来なかったけど、ずっと祈っていたのだ。
 「良かったね、天真くん」
 あかねが小さくしゃくり上げる。その言葉に天真は苦笑して顔を上げた。涙はなかったが、その瞳はかすかに赤かった。
 「まだ早いだろ、その言葉はさ」
 「…そうだね、まだ終わってないもんね」
 あかねも微笑みを返す。
 「無事に儀式を終わらせて、皆で帰ろうね。帰ったら、蘭ちゃんと買い物とか行きたいな。思いっきり華やかな服とか着せちゃう」
 「ん……」
 天真が、急に妙な顔になる。
 「…どうしたの?」
 「いや、帰るって言うのが、どうなんだろうって」
 あかねが首を傾げる。何が言いたいのか分からなかった。天真も言葉に困っている風だ。
 「だから、さ。全部終わったら、蘭は帰るんだよな」
 「え、そりゃあ……」
 言いかけて、あかねは思い当たる。
 「友雅さんのこと?」
 「……おう」
 天真が言い辛そうに口をへの字に曲げる。
 「そうだよね」
 ここに来た時は、再会できて良かったと能天気に喜んでいたけれど、その再会は別れとセットなのだ。
 友雅と蘭だけではない。今回は、友雅と遥雅もだ。
 「蘭ちゃんが何か言ってたの?」
 「いや、何も。多分、まだそこまで考えてないと思うんだけど。この間、友雅と話してさ」
 「うん」
 「…結構、本気なんだって思ったから」
 あかねはまじまじと天真を凝視した。
 どちらかというと、天真は蘭に残って欲しいと思っているように聞こえる。
 「もし、蘭ちゃんがこっちに残るって言ったら、天真くんは許すの?」
 尋ねると、天真は小さく唸って、何度も頭を振った。
 「分かんねえよ。許せない気もするし、親父たちの事もあるし」
 「うん…、そうだね」
 あかねは、天真の両親の憔悴した姿を思い出す。
 蘭が戻ってこなければ、とても嘆くだろう。戻ってきたと思っていた娘が、また消える心痛はどれだけのものなのか。
 考え込んでいると、天真が不意に顔を上げて、あかねに笑いかけた。
 「まあ、俺は、どっちでもいいんだ。蘭の思うようにしてくれたら。つーか、本人がまだ何も言わないのに、俺があれこれ悩んでも仕方ないしな」
 あかねも微笑を返す。彼は妬けるくらい蘭を大事にしている。考えすぎては空回りしたりしている。そういう不器用なところが、とても好きだ。
 「そうだね、私も蘭ちゃんが戻るなら、これからも友達でいるし。残るなら…、祝福する」
 あかねはそう言って、ふと悪戯っぽく笑う。
 「それと、もし将来、私が娘になったら、いっぱい天真くんの両親に親孝行するよ」
 「はっ?」
 天真が素っ頓狂な声を上げる。そして、にやにやしているあかねを見て、顔を真っ赤にする。
 「ばっか。何言い出すんだよ、お前」
 あかねが吹き出す。天真はしばらく怒ったような顔で睨んでいたが、背伸びをして、簀子にいるあかねの額を、自分の額で小突く。
 「…そういうの、お前から言うんじゃねえよ」
 「……ん」
 二人で密やかに笑い合う。初夏の柔らかな風が、彼らの髪を揺らしていった。




 涼風が静寂に包まれた庭を吹きすぎていく。
 さらさらと草を揺らしていた風が、階から吹き上がって蔀戸を鳴らす。
 そのかすかな音に、蘭はふと目を覚ました。
 室内は暗がりに沈んでいた。だが、かすかに差し込む月光で、まだ月が高い事が分かる。どうやら、そんなに長くは眠っていないようだ。
 蘭は瞼を閉じる。もう一度、眠りに落ちようとしたが、一向に眠気は訪れなかった。嫌な夢で目覚めた訳ではないから、これから起こる事に、気持ちが高揚しているのかもしれない。
 蘭は小さく吐息を漏らし、隣で寝ている遥雅を起こさないように、そっと身体を起こした。
 起き上がると、身体から熱が逃げていくのが心地よい。
 しばらく目を閉じてそうしていたが、やはり眠りが訪れる気配はない。蘭は諦めて起き出す事にした。
 袿を羽織って、静かに部屋を出る。庭でも見ようと広庇まで出て、蘭は感嘆の声を漏らす。
 美しい月夜だった。六月には珍しく空気が澄んでいて、冴え冴えとした月光が土御門邸を照らしている。
 そのまま簀子縁まで出て、しばらく夜空を見上げる。見つめている内に、眠るのが惜しくなってきた。
 蘭は庭に降りて、月下を歩き始める。池に映る月が見たいと思いつき、奥のほうへ向かうと、ゆるやかな風に乗って花と花の香りが漂い、蘭の髪や着物に落ちかかる。
 手を広げて風に向けると、散った花がちょうど掌に収まる。黄白色の小さな花だ。
 「青桐……」
 風上を見ると、見事な青桐が植えられている。池に流れ込む鑓り水のひとつが、その根元辺りに繋がっていた。
 鑓り水に沿って歩いていくと、蘭の身に降りかかる青桐の花も増えていく。花のいくつかは遣り水の流れに落ち、月光を照り返してほのかに輝いていた。
 この青桐の木には見覚えがあった。三年前によく眺めていた木だと思う。
 あの時の押し潰されそうな自分を、庭の木々は慰めてくれていた。
 青桐の下に立つと、ほのかに良い香りがする。大きく茂った葉が月光を遮り、木漏れ日のようにかすかな光が差し込む。
 しばらく、そこから池を眺めていると、不意に近くで草を踏む音がした。
 「―――花散りし庭の木の葉も茂りあひて天照る月の影ぞまれなる」
 「…っ」
 蘭は驚いて、声のほうを振り返る。声で誰かは分かったけれど、こんなタイミングで現れるなんて、出来すぎだ。
 振り返った先には、月夜に馴染む縹の直衣をまとった友雅が立っていた。
 「…あなたは図ったように現れるのね」
 蘭は呆れ気味に言った。友雅は小さく笑って、蘭の方へ歩いてくる。
 「気配を消して近づくなんて、趣味が悪いわ。本当に驚いたんだから」
 「それは失礼。でもね、やっと私を縛るうつつ事から抜け出して逢いに来たのだから、すげない事は言わずにいてくれまいか」
 友雅は悪びれずに言って、青桐の木を見上げる。
 「君こそ、図ったようにこの場所にいる」
 「え?」
 何の事かと思っていると、友雅は蘭の隣に立って、扇を広げた。そのまま腕を前に差し出すと、青桐の花が扇の上に舞い落ちてくる。
 絵に描いたような光景に、蘭はそれ以上怒るのはやめて、その様子を見つめていた。
 「今も花は嫌いかい?」
 扇に積もった花を遣り水に落としながら、友雅が不意に尋ねる。
 蘭は一瞬戸惑ったが、すぐに何の事か思い当たった。
 「嫌な事を覚えているのね」
 恥ずかしさで顔が赤らむ。夜だから見えないと思ったが、友雅に気付かれないように横を向く。
 忘れてほしいと頼んだ気がするが、その時の蘭の行動までしっかりと覚えられている。
 ……嫌な人、本当に。
 「忘れる事も出来たけれど、君と初めて話した時の事だからね」
 「そう…だったかしら」
 彼とはその前にも多少は会話していた気がする。鬼の元にいた時も、遭遇した時に言葉を交わした事はあった。ほとんど一方的なものだったけれど。
 ただの社交辞令的な会話ではないという意味なら、そうかもしれない。
 蘭は友雅に視線を戻した。
 見上げた顔の輪郭が、少しやせたような気がする。本当に忙しいのだろう。
 「……黒龍を呼ぶの」
 ぽつりと呟く。耳に届いたはずだが、友雅は特に答えなかった。
 もう知っていたのだろう。蘭は知らせていないが、彼に連絡が行かないはずはない。
 もしかしたら、それで来てくれたのかもしれない。
 蘭は、青桐の下から出て、遮るものがなくなった月を見上げた。
 来てくれて良かった。これから先、昔の月と眺める事になるけれど、今は一緒に見ていられる。
 「ここに来て、良かったのね。きっと」
 今ならそう思えた。もちろん、まだ何も解決していない。解決策は見つけたけれど、危険を伴うものだ。でも、少なくとも自分で選択できた。
 友雅は小さく笑い声を立てる。
 「ずい分と人の良い事だ。君とは関わりない国で、身を献じろと求められているのに」
 「…そうね。でも、もう関わりのない国とは思えないわ」
 無理矢理連れてこられた世界だけど、一時は住処とし、ここに住む人々と関わった。何より、ここは彼が暮らしている世界だ。
 蘭は友雅を振り返る。
 「壊れてもいいとは思えない。…それに、消えたいとも、思ってないわ」
 「……そう」
 友雅が扇を閉じる。静かに蘭の前まで歩いてきて、そっと髪を撫でる。
 「君の笛を聴き損ねてしまったね」
 「…あ」
 そういえば、笛をもらった時に手ほどきしてもらって以来だ。上達してからと思っている内に、今日まで来てしまった。
 持って来ていれば良かったが、すぐに戻るつもりだったから仕方ない。
 「それくらいの時間は、どこかで取れると思うわ」
 儀式までは無理だろうが、それが終わってからなら機会を作れるだろう。
 蘭の表情がかすかに沈む。終わるという言葉が心に重く響いた。
 友雅は蘭の髪から手を離し、庭に視線を向けた。
 「こんな月夜には、私もよく庭に出て笛を奏でていた」
 「そうなの」
 その情景が目に浮かぶようだ。
 「私の邸の庭も、青桐が盛りだ。ここよりは小ぶりな庭だが、遣り水の涼やかさと橘花の美しさは劣らないよ。この間、君が来た時には見せる間もなかったね」
 「そうだったの…、残念だわ」
 あの時は、周りを見る余裕などなかった。気持ちが落ち着いてからも、すぐにここに帰ってきたから、彼の邸の様子などよく覚えていない。
 この人が整えた庭なら、さぞ見ごたえがあっただろう。
 「すべてが終わったら、私の邸においで。姫君と一緒に」
 「え?」
 蘭は軽く目を見開く。
 今のは、遊びにおいで、というニュアンスではなかった。
 思わず友雅を凝視すると、友雅も蘭を見つめて微笑む。
 「消えないでいてくれるのだろう?」
 「友雅、さん……」
 どくんと鼓動が高鳴る。
 思いがけない言葉だった。始めから期限付きのはずで、三年前も心を残す言葉も交わさなかった。今回も、そうなると思っていた。
 留めてくれるなんて、思わなかった。
 だが、高揚する心と裏腹に、冷静な思考が囁く。
 向こうには、待っている人がいる。きっと憔悴するほどに蘭を心配してくれる人が。
 「私―――」
 口を開いた瞬間、何かが口唇に押し当てられる。
 「君が何を言うつもりかは分かっているよ。でもね、聞いているのは、そんな言葉じゃない」
 友雅が蘭の口唇から扇を外す。
 「月の姫君、今宵の月影の美しさに免じて、今ばかりは現のしがらみは忘れてくれ。君の心が感じた事だけを聞きたい」
 蘭はしばらく黙って友雅を見つめていた。
 躊躇いが何度も心に湧き上がる。でも、それ以上に、強い想いも湧き上がる。彼が、その隔てを先に外してくれた。
 「…… 一緒に、いたいわ。私も、あなたと」
 言葉にすると、堰を切ったように、想いがあふれてくる。
 「月も、春も、花も、―――あなたと見ていたい」
 友雅がそっと蘭を抱きしめる。その背を抱き返しながら、蘭は目を閉じた。
 今はいい、何も考えないでいよう。ただ心が望む事だけ、想っていよう。
 この場だけは、きっと月の光が許してくれるから。


<続>


「花散りし庭の木の葉も茂りあひて天照る月の影ぞまれなる」
(訳:花が散った後の庭の木々は葉が大きく茂って、月の光もたまにしかもれてきません)

 

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