暁に咲く花  ――― 22 ―――

             翠 はるか



 「…蘭」
 閉ざされた扉の向こうに、友雅は何度目かの呼びかけをした。
 「蘭、そろそろ出ておいで」
 彼女の気が済むまで泣かせた後、友雅はより近い自宅に蘭を連れて帰ることにした。
 蘭は穏やかな様子で友雅についてきたが、邸に着くなり、塗籠に引きこもってしまった。
 「…いや」
 ようやくかすれた声で返事がくる。
 「…泣きすぎて、ひどい顔をしているの。見られたくない」
 友雅は苦笑する。その物言いは可愛いが、そろそろそういう隔ては外して欲しかった。
 「では、見ないから、手をこちらに差し出してくれないか? そこにいるのが空蝉ではなく、確かに君だと確かめたいのだよ」
 「……」
 短い沈黙の後、塗籠の扉が薄く開いて、白い指先が出てくる。
 友雅はそっとその手に、己の手を重ねた。
 触れた指先から体温が伝わる。
 それだけで、今まで重ねた逢瀬よりも、ずっと深く繋がれた気がした。
 「―――お待ちを!」
 突如、穏やかな雰囲気を引き裂くように、廊下を踏み鳴らす音と、女房の慌てた声が響く。
 「…っ」
 蘭の手が驚いたように引っ込んでしまう。
 何事かと友雅が振り向くと、泰明がこちらに向かって歩いてくるところだった。
 「泰明殿」
 「―――黒龍の神子は落ち着いたようだな」
 友雅の所まで来ると、泰明は塗籠の扉に視線を向ける。そのまま躊躇なく扉に手をかけた。
 「待ちたまえ」
 止めようとした時には、泰明は扉を開け放っていた。
 「きゃっ」
 蘭は小さく叫び、咄嗟に几帳の裏側に隠れる。
 友雅はやれやれとため息をつく。
 「相変わらずだねえ。少しは状況を見てくれたまえ」
 「状況は心得ている。黒龍の神子の気は落ち着いている」
 友雅は肩をすくめて、彼のために座を用意させた。土御門には知らせを送ったが、それにしても早い。式神で蘭の気配を追ったのだろう。
 「まあ掛けなさい。そう詰め寄っては、また興奮させてしまうよ」
 友雅の言葉に、泰明は素直に従った。本当に悪気はなかったのだろう、ある意味厄介な性質だ。
 「さて、泰明殿。わざわざここまで来たんだ、様子を見に来ただけではないのだろう?」
 話を向けると、泰明が頷く。
 「ここに来る前に、火之御子社に行ってきた」
 蘭がはっとして泰明を見る。そういえば、あの時、後でまた火之御子社を調査すると言っていた。
 「何か分かったのかい?」
 「ああ。陰陽寮の役人たちが聞き込みをしたところ、不思議な事が分かった」
 「不思議な事?」
 「例の壊れた灯籠だが、私が先ほど行った時には消えていた」
 「え?」
 思いがけない言葉に、蘭は目を瞬かせる。
 「神官たちが言うには、元々、あの場所に灯籠は置いていなかったというのだ」
 蘭はますます戸惑う。
 「どういうこと?」
 「灯籠は今朝現れたのだという。何故、誰も疑問に思わなかったのか…。あの灯籠自体、実在の物ではなく、何らかの呪で出来た物だったのかもしれない」
 「石灯籠の形をした呪詛だったという事か?」
 友雅が尋ねると、泰明はしばらく考えこんだ後、頷いた。
 「そう言ってもよいな。消えてしまったので確認は出来ぬ。だが、灯籠は神仏に清浄な灯りを献じるもの。気付かずに今夜にでも火を灯していたら、何か良くない事が起こったかもしれない」
 「それじゃあ……」
 だから、あれを壊させたというのか。あんな無残に。
 実在の物ではないと言われても、実際に消えたところを見ていない蘭には実感が湧かない。
 「だったら、他にもそういう物が出現し始めているのかしら。黒龍は、それも壊させるつもりなの? …黒龍には壊す事しか、できないの? 白龍のように、浄化は出来ないの?」
 陰りの深い場所は、まだある。それらすべてに、あのような破壊を行なわなければならないのだろうか。
 蘭の気分が沈んでいく。その気配を感じ取ったのか、泰明は怪訝そうな眼差しで蘭を見つめた。
 「お前は、まるで黒龍が劣っているような事を言うのだな」
 「えっ?」
 「黒龍の何を恐れている」
 蘭は戸惑う。
 「だって、破壊を恐れるのは、不思議な感情ではないでしょう? 劣っているのも…、その通りでしょう? 黒龍は破壊の神で、黒龍も私も、龍神とその神子のなりそこないでしかない」
 己の言葉が胸を刺す。何故、彼はそんな事を聞くのだろう。陰陽師なら知っているだろうに。
 だが、泰明はますます怪訝そうに眉を寄せた。
 「誰がそのような事を言った」
 「誰って……」
 「何故、黒龍の事をなりそこないなどと言うのだ」
 「それは…」
 ―――アクラムの言葉、だ。
 彼は龍神の力を望んで私を召喚し、望むものではないと私を捨てた。なりそこないだから、と。
 そして、ただ破壊を繰り返す人形にした。
 その答えを聞いた泰明は瞑目する。
 「人を誑かし、惑わす鬼の呪は、今なお生きていたという事か」
 「…泰明殿、先日の話を、蘭にも話してあげてくれまいか」
 友雅が言うと、泰明は頷いて蘭を見やった。
 「黒龍は、白龍と共に京の理を司る存在。本来、並び立つものだ」
 「え?」
 蘭はまじまじと泰明を見る。
 「分かたれた存在のように伝承されているが、元はひとつのもの。優劣など存在するはずもない」
 「…元はひとつ…」
 「そうだ。その力も恐れているようだが、力というものは使いようだ。そもそも、あの鬼は、白龍の力も利用しようとしていた」
 「そう…、そうね。そうだったわ」
 「その強大な力のため、力を制御する事は難しいが、黒龍を信じることだ。心を強く持てば、取りこまれはせぬ」
 「心を…」
 泰明の言葉を何度も反芻する。黒龍は白龍と並び立つ存在。ひとつの神のふたつの側面。
 「そういうことだよ、蘭」
 友雅が泰明の話を継ぎ、蘭に向かって語りかける。
 「今、この京が必要としているのは、他でもない、黒龍の神子である君なんだ」
 「私を……」
 黒龍が、この京が、私を必要としている。
 蘭は、最初に黒龍を呼んだ時の事を思い出した。孤独に耐えかねて助けを求め、だが、その強大さに怯えて拒絶した。
 その後も、黒龍の力を振るいながら、彼の神を信じた事など一度もなかった。
 「黒龍の神子、力を貸してほしい。これは、お前にしか出来ぬ事だ」
 泰明が改まった口調で言う。蘭はこみ上げる感情に震えながら、こくりと頷いた。

*
*
*
*

 日を改め、蘭たちは上賀茂神社を訪れた。
 ここも陰りが強い場所のひとつ、言い換えれば龍脈の影響も強い。黒龍と意を通じるには良い場所だった。
 更に、少しでも交神しやすいようにと、蘭は禊をして身を清めてきた。
 「この辺り、かしら」
 蘭は細殿を通り過ぎた先にある、小川の前で立ち止まる。
 ここに気が集まっている。
 蘭が振り返って同行者たちの顔を見る。泰明は黙って頷く。天真は良し悪しは判別できなかったが、とりあえず頷いた。
 蘭は更に鷹通や頼久の顔を見た。上賀茂神社に行く事を知って、今日は彼らも同行を申し出てきた。その面持ちは、いつもより緊張しているようだった。
 この地は、間もなく帝が行幸するところ。何か起これば問題が大きくなると心配しているのだろう。だが、だからこそ、早目に問題の芽を摘まなければならず、彼らも頷きを返した。
 「―――始めます」
 蘭は目を閉じて、意識を集中した。
 いつもより容易く心が気に馴染んでいく。
 泰明の話を聞き、自分の心情も吐露した事で、気持ちはずっと軽かった。
 気付くと、見慣れた黒の空間に漂っていた。
 (……黒龍。黒龍、そこにいるの?)
 空間に向かって呼びかける。深い闇の中には何も見えない。でも、気配は感じられた。
 ―――リィン……。
 闇に鈴の音が響く。
 (―――我が神子)
 蘭の脳裏に言葉が響く。ずっと蘭と共にあった、声ならぬ声。
 だが、いつもと違い、何故か嬉しそうな響きを感じる。
 (神子……。やっと通じた)
 「黒龍……」
 蘭の胸がちくりと痛む。
 ずっとこうして私が呼びかけるのを待っていたのだろうか。
 「黒龍、あなたの真意を私に教えて」
 呼びかけると、更に黒龍の気配が強くなった。それと同時に強い力が蘭にせまる。本能的に恐怖を感じたが、今日はそれを受け止める事ができた。
 (―――見よ)
 身体が高く浮き上がる感覚がある。黒龍とともに、音のない空間を昇っていく。
 どれだけの時間が経ったのか分からないが、上昇が止まったと感じたとき、蘭は龍脈を遥か眼下に見下ろしていた。
 「……やっぱり、ひどい陰りがあるわ」
 場所によっては、龍脈の光より強い場所もある。それは、もう怨霊と呼んでもいいようなものだった。
 欠片のようだった歪みが、形をなしている。そして、その形には見覚えがある。
 思い出した瞬間、蘭の背を震えが走る。牛鬼に狐狸に…、昔、蘭たちが操っていた怨霊たちだ。
 (あれは鬼の残した穢れの残滓。眠っていたが、ヒトの負の気により徐々に活性化している)
 「あれが……。でも、白龍が祓ったはずではなかったの?」
 ひどい動揺に襲われる。昔の己の行為を突きつけられたようだった。もうすべて祓われたと思っていたのに。
 (我の力が足りず、完全に消し去る事が叶わなかった。あれらは手負いのけだもの。このまま復活すれば、さらに凶悪な穢れとなろう)
 「どうすれば…いいの?」
 震える声で尋ねる。怨霊の復活、それだけは阻止しなくてはならない。
 黒龍の答えは明快だった。
 (我を呼べ)
 「え?」
 (今ひとたび現世へ具現化する。―――召喚の儀を)
 「召喚の、儀……」
 蘭の声がますます震える。それは、怨霊の復活と同等に、いや、それ以上に衝撃的な言葉だった。
 黒龍の召喚を、蘭は六年前と三年前にも行なった。その結果は恐ろしいものだった。
 「私…、私には出来ない、そんな」
 咄嗟にその場から逃れようと、蘭は身をよじる。だが、それを包むように黒龍の気配が蘭を覆う。
 (神子、我を呼べ。そうでなくば、我は白龍ともひとつになれぬ)
 「…っ」
 蘭ははっとする。
 『黒龍は、白龍と共に京の理を司る存在。本来、並び立つものだ』
 泰明の言葉を思い出す。
 そう…、そうだった。黒龍と白龍は同じもの。恐れる事はないはずなのだ。
 そして、蘭は気付く。今の黒龍は、白龍と分かたれている。それが何故なのか。
 「私の呪が、あなたと白龍を隔てたのね」
 考えてみれば、単純な事のように思う。
 不完全な形で具現化した黒龍。それは白龍の力だけではどうにもならない。ならば、それを正常な姿に戻す方法はひとつだ。
 「あなたを完全な形で具現化すれば、あなたは、また白龍とひとつの神になれるのね。それで、この京は救われるの?」
 (ああ。世界は均衡を取り戻す)
 「―――分かったわ」
 蘭は頷いた。
 その瞬間、ふっと黒龍の気配が遠ざかる。黒の世界も遠ざかっていく。
 「黒龍……」
 蘭の意識も遠ざかる。意識を手放す直前、黒龍の声が聞こえた気がした。
 (神子、我は人の願いにより生まれたもの。人が望むなら、必ずそれを叶えよう)


 天真は落ち着かない気持ちで、蘭を見つめていた。
 視線の先で、蘭は微動だにせずその場に立ち尽くしている。始めると言って目を閉じたきり、ずっとこうだ。
 どれだけ時間が経ったのか、待っている天真にはとても長く感じる。
 それに、その気配。
 何かの気配が蘭を包んでいる。霊力の低い天真にも分かる、圧倒的な力。
 恐らく黒龍なのだろう。その気配に包まれた蘭は、どこか人ではなくなったように透明な感じがして、消えてしまいそうで怖い。
 それでも待っている事しか出来なくて、天真が歯噛みしていると、隣で泰明が唐突に呟いた。
 「―――戻ってきた」
 「え?」
 泰明を振り返り、すぐにはっとして蘭に視線を戻す。
 蘭を包んでいた気配がいつの間にか薄らいでいた。
 「蘭!」
 急いで駆け寄る。隣に着いた時には、気配は消え去っていて、蘭の目がゆっくりと開かれた。
 「蘭、大丈夫か」
 「…お兄ちゃん」
 蘭が天真を見上げてくる。その瞳にはしっかり意志が宿っていて、天真はほっとする。
 「大丈夫よ、お兄ちゃん」
 微笑みを浮かべる蘭の、その眼差しはどこか力強い。
 蘭は次いで泰明に視線を向けた。
 「黒龍と会ってきたわ」
 その言葉に、場がざわめく。
 「黒龍と意を通じたか」
 「ええ、すべては黒龍の具現化が不完全だったためよ」
 蘭は異空間で起こった出来事を語った。特に怨霊の復活は彼らにとって衝撃らしく、鷹通などは何度も眼鏡の位置を直している。
 蘭の話は、三年前についたはずの決着を覆すとも言える言葉だった。信じられないというより信じたくないが、先ほどの蘭の尋常でない様子を見た後では、信じざるを得ない。
 「それでは、我らはどうすればいいのでしょう?」
 鷹通が尋ねる。多少の霊力は残っていても、今はほとんど無力だ。だが、蘭がこうして解き明かしてくれたものを、放っておく事など出来ない。
 蘭は少し考え込み、すぐに鷹通を見た。
 「念のために、立ち会ってください。…それと、そうね、他の人が近づかないように出来るかしら」
 「立ち会う?」
 「召喚の儀を行なうわ。―――神泉苑で」
 「え――…っ」
 再度、ざわめきが起こる。
 「待て、蘭。召喚って、お前…!」
 天真が慌てふためいた表情で蘭の肩をつかむ。その手を、泰明が押さえた。
 「黒龍の神子」
 彼の顔は静かだった。蘭を真摯に見つめている。
 「召喚とは神に身を捧げる事だ。意を通じるだけでなく召喚となれば、よほど強い心を持たねば、お前はお前を失う。これは言うは易いがとても難しい事だ」
 蘭は小さく笑った。
 公平な人だ。彼は京を守る立場にある人なのだから、蘭がどうなろうと、黙って召喚させたほうが都合がいいはずなのに。
 「ええ、そうなんでしょうね。でも、それでもそうしたいと、今は思っている」
 蘭に視線が集まる。驚き、狼狽、期待さまざまなものが入り混じった視線。
 それらを受け止めて、蘭は笑う。
 「私は、黒龍の神子だから」



<続>


 

 

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