暁に咲く花  ――― 21 ―――

             翠 はるか



 あかねと詩紋は、一刻ほどして戻ってきた。
 寝つけないまま寝室に押し込められていた蘭は、その知らせを聞いて、すぐに藤姫の部屋に向かった。
 「みんな、どうだった―――」
 彼女にしては珍しく、部屋の主に挨拶する事なく、中に入っていく。
 だが、振り返った面々の一人を見て、蘭は足を止めた。
 「泰明さん」
 いつ来たのか、泰明もそこにいた。
 驚く蘭に、あかねが説明する。
 「火之御子社で一緒になったんだ。泰明さんも異変を感じて、様子を見に来たんだって」
 「そうなの」
 確かに、彼の霊力の高さなら見逃さないだろう。この場にいても不思議ではない。
 蘭は緊張で身体が強張るのを感じる。
 彼には、自分の力が戻っている事も分かるかもしれない。
 「蘭ちゃん、どうしたの?」
 「…ううん、なんでもないわ」
 蘭は微笑んで、部屋に入っていった。
 どうせ、いずれは知れる事なのだ。それに、彼が現場を見てくれたのなら、何か手がかりが得られたかもしれない。
 蘭は座ると、自分から彼に話しかけた。
 「泰明さん、貴方の見立てはどうでしょうか」
 泰明はかすかに眼差しを強くし、蘭を見た。
 「あの異変は黒龍の御印だそうだな」
 「…ええ、そうです」
 「では、始まったのだろう」
 泰明の答えは簡潔だった。
 簡潔すぎて、他の面子には分からなかったようで、特に天真などは思い切り首をひねっている。
 「泰明、どういう意味だよ」
 「水面下で動いていた事態が表面化した。龍神自らが干渉してきたという事は、それだけの大事だという事だ。これから、加速していくだろう」
 蘭は息を呑む。その見立ては、蘭のものと同じだった。だが、彼に言われると重みが違う。
 「…何故、石灯籠を壊す必要があったのかしら」
 「あの石片には、穢れの気配がまだ残っていた」
 だから、壊した? 穢れの気配があるのは、あの社だけではない。他の場所も、ああして、壊していくつもりなのか。
 「だが、人が集まりすぎていて、きちんとした調査が出来なかった。陰陽寮に頼んで、社への出入りを止めるよう手配してもらっている。また後で、調査しに行くが、その間に、お前と話したかった」
 蘭ははっと泰明を見つめた。彼も蘭を見つめている。
 「また力が増しているな」
 蘭の息が詰まる。やはり、彼は分かっている。
 「黒龍と意を通じる必要がある」
 「……黒龍と…」
 「今回の件は、黒龍が深く関わっている。彼の神については、私も詳しくない。彼の神が従う理について知りたい」
 「…………」
 その時が来たのだ、と蘭は思った。
 この地に再訪したときから、京の探索を始めたときから、分かっている。その覚悟を決めていたのだ。
 黒龍の呼びかけを待つのではなく、こちらから呼びかける。そのための力は戻っているのだから。
 だが、喉が干上がったように、答える言葉が出なかった。
 ―――壊したくない。
 硬直する蘭に、あかねが笑みを向け、彼女の手を握ってくる。
 「すぐにじゃなくていいと思う。でもね、これだけ聞いてくれるかな。龍神はそんなに怖いものじゃない。心を強く持っていれば大丈夫」
 蘭はあかねを見る。それは彼女の経験から来ているのだろう。神子にしか分からない『神と通じる』という力。
 「蘭ちゃんなら出来るよ」
 真摯な眼差しは、彼女の心を伝えてくる。
 その瞬間、自分でも驚くほどの暗い感情が湧き上がってきた。
 「そんな事、どうして言えるの。私は…!」
 押し込めていた感情が、源泉のようにほとばしる。
 それに呼応するように、激しい家鳴りがした。
 「な、なんだ、地震か!?」
 天真が慌てて立ち上がる。
 部屋が揺れ、軽い調度品が倒れて、耳障りな音を立てる。
 蘭は狼狽して揺れる室内を見回す。
 違う、地震じゃない。これは、私の。
 意識していないのに、身体から勝手に力が流れ出していた。止めようとしても、止まらない。
 いけない。このままでは、また…!
 必死に力を抑えようとするが、焦るばかりでうまくいかない。力が身体の中で渦巻き、その強さに翻弄される。
 「黒龍の神子、気を静めよ!」
 いち早く事態を飲み込んだ泰明が、蘭に叱咤を飛ばす。蘭はその言葉に頷くが、裏腹に溢れる力は強くなっていく。
 「急急如律令…」
 泰明が胸の宝珠を蘭に向け、呪言を唱える。意識の中に何かが入り込むような感覚がして、蘭は反射的にそれを拒んだ。
 「いや! 私を操らないで!」
 術を弾くと同時に、泰明の宝珠がひとつ弾け飛ぶ。泰明は更に別の宝珠を構えようとしたが、激しくなった揺れに足をとられ、よろめく。
 強くなった揺れのせいで、几帳や棚などの調度品も倒れ出す。藤姫やあかねが小さな悲鳴を上げた。
 だめ、皆を壊してしまう。どこか、どこか違うところへ。
 念じた途端、背後から引き寄せる力を感じた。
 振り返らずとも分かる、時空の穴。以前、転移に使っていたもの。
 蘭はその穴に身を滑り込ませた。
 「待て、黒龍の神子!」
 泰明が叫ぶ。
 だが、その言葉が届くことなく、蘭は空間の歪みに取り込まれて消えた。それと同時に、部屋の揺れはぴたりとやむ。不気味なほどの静寂だけが、その場に残る。
 「蘭!」
 天真は慌てて時空の穴があった場所に手を伸ばす。だが、そこにはもう何もない。
 「くそっ、どこに行ったんだ」
 動揺する心のままに部屋を飛び出していこうとして、泰明に止められる。
 「待て、天真」
 「待てるか。あんな蘭を一人にしておけるかよ」
 「私が式神を飛ばして行方を捜す。あれほどの気を持つ娘だ、すぐに見つかるだろう」
 天真がはっとして泰明を見る。泰明は既に懐から札を取り出して、何事か呟いていた。
 「そうだな、頼む、泰明」
 冷静さを取り戻し、天真は室内に戻る。そして、藤姫に視線をやった。
 「藤姫、友雅に使いをやってくれないか」
 藤姫はまだ動揺していたが、天真の言葉に気丈に頷く。
 「は、はい。承知しましたわ」
 天真はぐしゃぐしゃと髪をかき回し、ため息をついた。
 嫌な事態になっていた。



 一瞬のような、永遠のような時間を通り抜け、蘭は気付いたらどこかの丘にいた。
 傾きかけた太陽が、木々を赤く照らす。幸い、人の気配はない。だが、ほっとしたのも束の間で、蘭が歩き出した途端に辺りの山花が散り出す。
 「だめ、散らないで。散らないで、お願い」
 蘭は木々を見上げながら、必死に散華を止めようとする。だが、必死になればなるほど、花の敷物が地に広がっていく。
 …また、私は壊してしまう。
 蘭はふらふらと歩き出す。ひとつ所に留まっていると、そこの木を枯らしてしまいそうだった。
 「…大丈夫…なんて」
 嘆声が喉をつく。
 「どうして、簡単に言えるの。私なら大丈夫なんて」
 八つ当たりだと分かっていても、そう言わずにいられなかった。
 「…どうして、言えるの」
 私みたいになりたい、なんて。私が渇望のあまり口にすら出来なかった言葉を。
 私こそ、ずっと、ずっと…、白龍の神子になりたかった。
 蘭がよろめいて、近くの木に手をつく。葉が雪のように降ってきて、蘭の背を滑り落ちていく。
 ずっと考えていた。
 私をここへ呼んだのは、もしかしたら私自身の願いでもあったのかもしれない。
 私はきっともう一度ここへ来なくてはいけなかった。三年前はすべてをこちらに置いて帰ってきてしまった。あの時は、それ以外の選択肢なんて思いもよらなかった。
 だけど、起こった事はなくならない。行為は消せない。
 だから、己が残した結果をきちんと見なくてはいけないと頑張ってきたつもりだ。
 けれど…、結局はあの頃から少しも進んでいない自分を思い知っただけだ。
 いざ、この地を前にしてみると、罪悪感と嫌悪感で押しつぶされそうな自分をとどめるだけで精一杯で。その上、とうに消せたと思っていた白龍に対する拘りさえ、こんなにも深く心に根付いていたなんて。
 「私、もう……」
 蘭は再び歩き出す。今は、せめてこれ以上、山花を散らせないように、その場を去ることしか出来ない。
 さまよう内に、空気が冷たくなってくる。夜が近いのだろう。危険を感じるが、このまま闇が覆いつくしてくれるなら、それもいい気がした。
 「……蘭!」
 蘭はぎくりと立ち止まった。嘶きと、聞き知った声が背後から聞こえる。
 振り返ると、衣冠のまま騎乗した友雅が丘の道に立っていた。
 「来ないで!」
 蘭は駆け出す。自分を、誰にも見られたくなかった。
 友雅はそんな蘭の反応は予期していたので、素早く下馬すると、馬を手近な木につなぎ、彼女を追いかける。脚力なら当然友雅のほうが上で、すぐに追いついた。
 蘭の腕を掴んで引き寄せようとすると、蘭は身をよじって抵抗する。
 「離して。もう少しでいいから、私を一人にして」
 友雅は眉をひそめる。予想してはいたが、ここまできて頑なな態度を崩さない彼女のつれなさには、いい加減恨み節になる。
 「まだ一人で頑張るつもりなのかい?」
 「……っ」
 蘭は渾身の力で友雅の手を振り払い、彼の手の届かない所まで後ずさりした。
 「ひどい人ね。依りかかられたらきっと突き放すくせに、そんな事を言うの?」
 蘭が友雅をきつい眼差しで見る。友雅も彼女を見返した。二人とも衣服が草木にまみれ乱れたひどい格好だったが、それを気にする余裕もなかった。
 「やはりそれを言うのか? 私を冷たい男だと、君も?」
 「ええ、そうよ。あなたは冷たい人よ。違うなんて言っても駄目。あなたはどれほど近しい人でも、決して深入りしない。だから…、だから私は……」
 あなたの手を取ったのだもの。
 蘭は口元を手で覆って、顔を伏せた。堪えようとしても堪えきれない感情が涙となって両眼から溢れ出した。
 ―――この人といる時は、いつだって安心できた。私が何を抱えていても、何も言わずに受け入れてくれたから。それが優しさではなく、単に興味がなかったためだとしても、ただ側にいてくれる事がどれだけ救いとなったことか。
 三年前に彼の手を取ったのは愛したからじゃない、自分の心を保つのに必要だっただけだ。逢った後は必ず後悔とみじめさが身体を満たしたけれど、逢っている時に得られる少しの安らぎのために逢わずにいられなかった。
 ……それだけで良かったのに。
 別れた後、あんなにも胸が痛くなるはずじゃなかった。
 こんなにも頼ってしまうはずじゃなかった。それなのに。
 何度も言いそうになった。苦しいのだと。記憶の中で今も色褪せぬ怨嗟の声が胸に詰まって、息さえできなくなりそうなのだと。
 何度も聞いてしまいそうになった。どうすれば償えるのかと。そもそも自分に許される資格があるのかと。
 あるはずがない。自分が死なせてしまった人たちは、決して自分を許さないだろう。
 …でも、苦しい。
 許してほしい。叶うならば、自分が傷つけた人すべての前で、手をついて許しを乞いたい。
 でも、彼らの怨念もすべて白龍が祓ってしまった。私を責めるべき人はもういない。
 いっそ責めてほしかった。けれど、そんな事はとても口には出せない。償うために、そして許されるために責められたいなんて傲慢もいいところだ。
 「私を呼んだのは誤りだったのよ」
 白龍の神子を呼ぶべきだった。
 「京も、龍神も間違えたの」
 そう、私はずっと白龍の神子になりたかった。
 あの優しくてまぶしい存在になりたいと、ずっと思っていた。
 「……君は、あかね殿になりたいのかい?」
 「!」
 言葉が心に突き刺さる。同時に友雅が駆け寄ってきて、蘭の腕を掴んだ。
 「離して!」
 「だめだ」
 そのまま友雅は蘭を抱きしめる。
 「手を離したら、君はそのまま消えてしまいそうだ」
 友雅の腕に力がこもる。蘭を留める強い力だ。
 蘭の身体から力が抜けた。
 「……消えて、いたかもしれないわ、遥雅がいなかったら」
 あの子は、私が唯一生かした命、そして。
 「…あなたに似た、あの子がいなかったら」
 蘭は友雅の胸に頬を寄せ、胸に詰まった涙を吐き出した。
 「どうしたらいいか分からないの。私のこの身は今でも鬼のものだわ。私…、このまま消えてしまいたい」
 友雅は黙って蘭の頬に口づけて涙を吸い取った。それでも涙の止まらない蘭を宥めるように目じりに口づけ、赤くなった瞳を見つめる。
 「それは…困る」
 蘭がはっと友雅を見る。間近で見る彼は、初めて見る切羽詰まった表情をしていた。
 「君が消えてしまったら、私がとても困るんだよ、蘭」
 「友雅…さん……」
 彼の言葉が胸に沁みていく。
 「他の誰かになんて、ならなくていい」
 「友雅さん……」
 蘭はまた友雅にしがみつく。そのまま彼に縋って、三年分の涙を流した。



<続>


 

 

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