暁に咲く花 ――― 20 ―――
翠 はるか
『事態は加速する』
泰明の言葉通り、京の陰りは日一日と強くなっているようだった。
蘭は物憂げに、簀子縁から空を見上げる。
それは分かるのに、陰りの原因や解決の目途はまだ立たない。今日も稲荷神社を回ってみたが、新しい情報は得られなかった。他の箇所も行きたかったが、泰明が午後は用があるという事でそこで お開きとなった。
いや、もしかしたら、稲荷神社でも、もう少し深く陰りと意を通じて探れば、手がかりが得られたかもしれない。だが、東寺での失敗以来、力を使ったせいか、黒龍の気配をより強く自分のうちに感じる。この力をまた吸われたら、もっと大事になる。
蘭はため息をついて、階に腰を下ろした。
そうは言っても、あまり時間はないのだ。陰りが強い場所には、行幸先の上賀茂神社がある。気に聡い者なら、そろそろ気付き始めるだろう。事態が表沙汰になる前に解決するのが望ましい。
「…大丈夫、できるはずよ。そのための力だもの」
自分に言い聞かせるように声に出し、蘭は懐から龍笛を取り出した。笛を吹くと落ち着く。遥雅を迎えに行かないといけないが、その前に少しだけここで吹いていこう。
ゆっくりと息を吹き込む。あれから暇を見つけては練習して、簡単な曲なら吹けるようになっていた。
気に入りの旋律を繰り返し吹く。少しだけのつもりだったが、吹いている内に楽しくなってくる。ざわめく気分も穏やかになっていく。
しばらく気の済むまで吹き鳴らし、蘭はようやく笛を下ろした。ほっと心地の良い息を吐く。
それと同時に、それまで気付かなかった視線を感じた。
振り返ると、あかねと詩紋が少し離れた場所から蘭を見ている。
「あ、終わっちゃった?」
「あかねちゃん、詩紋君、いつから?」
「少し前だよ。笛の音がしたから、誰だろうって」
あかねは悪戯が見つかった子供のように舌を出し、詩紋と一緒に蘭の側にやってくる。
「声をかけてくれたら良かったのに」
「もっと聞きたかったんだもん」
あかねは笑いながら言い、簀子に座る。
「邪魔してごめんね。今日もお疲れさま」
その言葉に、蘭は微笑を浮かべる。
様子を気にして、訪ねてくれたのだろう。
あかねは、ここ数日は京の探索に出ていない。危険があってはいけないと、誰かに止められたらしい。
「ありがとう。収穫はないんだけどね」
そう答えると、あかねは小さく眉を寄せて、空を見上げる。
「あかねちゃんは、何か感じる?」
「ううん、かすかに気配を感じるだけ。…感じるのに何も出来ないのって、もどかしいね」
「…そうね」
蘭の声音が沈んだのに気付いたのか、あかねは笑顔に戻って、蘭の笛に目を向けた。
「蘭ちゃんが笛の演奏も出来るなんて知らなかったな。それも藤姫が用意してくれたの?」
「ああ、この笛? これは友雅さんにもらったのよ」
「そうなんだっ」
途端にあかねの顔が輝く。蘭は失言だったと思ったが、あかねは期待を込めた目で蘭を見ている。
あかねも年頃の女性らしく、恋話が好きだ。蘭も人の話を聞くのは嫌いじゃないが、自分の話をするのは苦手だ。
「綺麗な笛だよね。友雅さんは趣味いいもんね」
「そ、そうね」
生返事を返していると、蘭が困った気配を感じたのか、あかねは心配したほど深くは聞いてこなかった。
「でも、まあ、変な事になっちゃったけど、もう一度友雅さんに会えて良かったね」
代わりに、そんな真っ直ぐな言葉を口にする。こういう物言いは、兄にそっくりだ。
「そう…、ね。ただ、昔の自分を思い出して恥ずかしくもあるのよ」
彼には、もう会えない人と思って見せた甘えもあった。……でも。
先日の、彼が遥雅を抱いていた光景が思い出される。
「…うん、良かったわ」
蘭がふっと微笑む。自然と浮かんだ微笑は、慈愛のような優しさに満ち、女のあかねでもどきりとするほど綺麗だった。
「蘭ちゃんは、ほんと綺麗だね。うらやましい」
思ったままを口にすると、蘭が驚いた顔であかねを見る。
「…何のこと? あかねちゃんが私を羨ましいなんて」
「そう思ったんだもん。私も蘭ちゃんみたいに綺麗になりたい」
ね、と隣の詩紋に同意を求める。詩紋も邪気のない顔で頷きを返した。
蘭は複雑な表情を浮かべて、二人を見た。
「そんな事……」
―――リィン。
「……っ!」
不意に、電流が走ったような痺れが背中を襲い、蘭は声にならない吐息を漏らした。
―――リィン…。
この、音は……。
蘭はふらりと立ち上がり、階を降りて、庭に出て行く。
「ど、どうしたの、蘭ちゃん」
あかねが驚いて蘭の背に声をかけるが、蘭の耳には届かなかった。
―――神子、力を…。
「こく…龍……」
―――我が力を受け入れてくれ。お前の力を…。
意識が浮遊する。操られたように腕を空に伸ばす。
「私は…ここに……」
浮遊した意識が警鐘を鳴らす。
(やめて)
―――力を具現化する。
「ここに…いるわ…」
(やめて!)
次の瞬間、蘭の意識は遥か上空に浮上していた。
先日も見た、黒の世界。黒い大地に白の輪郭。龍脈だけが強い光を放っている。
「ああ、また…。陰りが強く……」
あの時の陰りが更に強くなっている。龍脈のくすみも増している。
その中でも特に暗い、あそこはどこだろう。
蘭は目をこらす。内裏のもっと北、あそこは確か火之御子社。
次か、その次には訪れようと思っていた場所だ。清浄であるべき社がぞっとするほど暗い。
この気配。このまま行けば、間違いなく怨霊になる。
――― 理を、神子。
声が響く。意識は相変わらず警鐘を鳴らしていたが、その声の導きのままに、蘭は陰りのほうへ降りてゆく。
降りていくにつれ、白黒の大地に次第に色がつき、その地の様子がはっきりしてくる。
社の一角に、石灯籠と高い樹木が見える。黒の残滓が色濃くまとわりつき、そこが陰りの中心だった。
「きけん……」
蘭は両手を灯籠に向けた。
「壊さなければ」
身体から力が溢れ出す。いや、黒龍の力が、蘭の身体を通して、現世に具現化する。
(待って!)
遠くからもうひとつの自分の声がする。だが、蘭から溢れ出る力は止まらず、灯籠に向かって放たれる。
激しい破壊音が鳴り響く。灯籠は粉々になって、陰りも霧散した。
「……!」
蘭ははっと意識を取り戻した。
「今……」
冷たい感覚が身体を滑り落ちていく。
「蘭ちゃん!」
強い力で腕を掴まれて、蘭はそちらに目を向ける。あかねが心配そうに蘭の顔を覗き込んでいた。
「あかねちゃん、私、どうして……」
あかねがほっと息をつく。
「良かったあ。急に何も反応しなくなったから、びっくりしたよ」
「私……」
蘭は辺りを見回す。藤姫の邸の庭だ。更に見回そうと身体を動かすと足の裏に痛みが走った。見下ろすと、蘭は裸足のままだった。
急速に記憶が戻ってくる。
「あ、ああ、私……」
蘭が震えだす。
黒龍が来たのだ。そして、私を操って…。
「蘭さん、どうしたの? 何があったの?」
詩紋が蘭の顔を覗き込んでくる。蘭は問われるまま、震える声で今見たものを告げた。
「火之御子社まで行っていたの」
「え?」
あかねと詩紋は顔を見合わせる。蘭は少しの間ぼんやりしただけで、ずっとここにいた。だが、嘘をついているようには見えない。
「…黒龍?」
「そう、あの黒い龍が私を連れて…。火之御子社には強い陰りがあった。私は、…それを壊した」
あかねと詩紋が、再び顔を見合わせる。
「僕、火之御子社まで行ってくる」
詩紋が駆け出す。あかねも行きたかったが、蘭を置いていけずそのまま残る。
「蘭ちゃん、しっかりして。もう大丈夫だから」
「あかねちゃん……」
蘭はまだ夢うつつの状態だったが、やがてはっとしたように目を見開いた。
「私も行くわ」
門に向かって覚束ない足取りで歩き出す。
「待って。今、詩紋くんが行ったから。私たちは待っていよう?」
「いいえ、行くわ。確かめないと」
蘭は引き止めるあかねの手を振り払う。あかねが再度手を伸ばすが、更に強い力で振り払う。
「…分かったよ。天真くんも呼んで、皆で行こう。詩紋くんもまだ出発してないだろうから」
あかねが諦めて、蘭の背をなだめるように叩く。止めたら、ひとりで飛び出して行きそうだった。
蘭が頷く。あかねに促されて、ひとまず簀子縁に戻る。階に足をかけた時、裸足なのを改めて思い出した。よく見ると、あかねも裸足だった。
「ごめんね、あかねちゃん」
「謝ることなんてないよ。さ、行こう」
頷いて、足早に詩紋の後を追う。火之御子社に行かなければという強い思いが蘭を動かす。
だが、何を確かめるのかという思いも同時に湧き上がる。今のが幻ではない事は分かっていた。
蘭は両手を強く握り締める。その手に五行の力が集まってくる。
力が完全に戻っていた。今ならあの頃と同じくらい力が使えるだろう。
火之御子社には人だかりが出来ていた。
祭りのときは賑やかなこの地も、普段これほど人がいる事はない。何かが起こったという事だろう。
蘭たちは、人の流れに沿って、境内の奥へ歩いていく。野次馬のおかげで、問題の場所はすぐに分かった。
「ここだわ」
人の山のせいで肝心の場所は見えないが、そこから覗く樹木が裂けているのが見える。
「これじゃよく分からねえな。おい、ちょっと通してもらうぜ。前に行かせてくれ」
天真が先に立って、人垣を掻き分けていく。押しのけた人々に文句を言われながらも、蘭たちもその後から騒ぎの中心に進んで行った。
「これは……」
蘭は現場を見て立ちすくんだ。無残に砕けた石片が散らばっている、それも大量に。さきほど異空間から見たのは石灯籠ひとつだけだったが、実際は数十メートルに渡って、数基の灯籠が壊れている。
これを、あの一瞬で行なったのか。
蘭は眩暈を感じる。大した力は加えなかった、それなのに。
「蘭さん、どうしたの?」
詩紋が蘭の顔色に気付き、声をかけてくる。その声も、もう遠くに感じた。
「…蘭っ、おい!」
蘭の身体から力が抜け、その場に膝をつく。天真が慌てた声を上げて、彼女の腕に手をかける。
「気分が悪いのか? 立てるか?」
「う、うん。大丈夫よ……」
少しも大丈夫な声ではなかったが、蘭は何とか立ち上がった。だが、後ろから人垣が押してきて、また倒れそうになる。
「ちょっと、お前ら押すなっ。…とにかく、ここを離れよう。潰されちまう」
天真の言葉に、あかねも詩紋も頷き、皆で蘭を支えるようにその場を離れる。少し離れると、すぐに人はまばらになり、閑散とした場所に出た。
長椅子があったので、そこで休んでいると、気分も落ち着いてくる。
「…ごめんなさい、驚かせて」
まだ心配げな三人に謝ると、一様にほっとした笑みを浮かべる。
「謝る事ねえよ。とにかく、ひとまず邸に戻ろう。横になったほうがいい」
「待って…、大丈夫よ。まだ何も調べてないもの」
蘭は慌てて答える。これで帰っては、来た意味がない。
「大丈夫って顔じゃないぞ。いいから、一度帰ろう」
「でも」
蘭は食い下がるが、あかねも詩紋も天真の言葉に頷いている。
「調べるのは、私たちがやるよ。無理しないで」
「そうだよ、身体のほうが大事だよ」
三人に畳み込まれると、蘭もそれ以上何も言えなくなってしまう。
蘭が頷いたのを確認して、あかねは天真に向き直る。
「天真くん、蘭ちゃんを送ってあげて。私と詩紋くんが残るから」
「あかねも残るのか?」
天真は一瞬心配そうな顔になったが、詩紋と蘭を交互に見て、頷いた。
「分かった。お前らも無理するなよ。詩紋、あかねを頼むぞ」
「うん、任せて」
「そんじゃ、後でな。蘭、行こう」
口を挟む間もないままに、蘭は天真に腕を引かれる。
心の内では、もっと強く抵抗したかったが出来なかった。
蘭は、さきほどの交神で戻った、神子の力を思う。
今回の事件を終結させるための力。でも、自分自身で力を制御しようとしても、鈴の音を聞いただけで、黒龍の意志に飲み込まれる。
そんな状態で大丈夫だとは言えない。
蘭は天真に聞こえないよう、ひそかにため息をついた。
<続>
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