暁に咲く花  ――― 19 ―――

             翠 はるか



 まだ日暮れには遠い時分、京の通りは、行き交う人で賑わっていた。
 その中を、天真と遥雅も楽しげに歩く。
 公園はないが、見知らぬ通りを歩く事は彼女を満足させたらしい。ずっとご機嫌だ。
 そんな彼女に付き合って、もう結構長く歩いている。そろそろ戻ったほうがいいと思うが、楽しげな遥雅を見ていると、もう少しいいだろうという気持ちになる。
 こちらの着物を着てはしゃぐその様子は、違う世界の子供には見えない。
 「遥雅、車が来るぞ。飛び出すなよ」
 牛車が後ろから近づいてきたのに気付き、天真は遥雅の手を引いて、少し脇に寄る。ぶつかるほどの距離ではないが、子どもは急に飛び出す危険がある。
 そのまま牛車が通り過ぎるのを待っていたら、その車は天真たちの横に来たところで止まった。
 不思議に思って牛車を見ると、物見の窓が開いて、見知った人物が顔を覗かせる。
 「やあ、天真」
 「友雅じゃねえか」
 天真も立ち止まる。よく見ると、その牛車にも従者にも見覚えがあった。
 「二人でお出かけかい?」
 友雅が天真の横を歩く遥雅に目を止める。
 「ちょっと散歩、もう邸に戻るところだ」
 「そう。では、送ろうか?」
 「一緒にか? いや……」
 牛車に三人も乗れば、狭苦しい。大した距離ではないし、断ろうと思ったが、彼が泰明の所へ行っていたのを思い出す。
 「じゃあ、頼む」
 天真が答えると、従者が心得たように榻(しじ)を用意してくれる。
 遥雅と一緒に乗り込むと、思ったほどではないが、やはり狭い。だが、大事な話をするには、これくらいがちょうどいい。
 車が動き出すやいなや、天真は話を切り出した。
 「泰明のところに行ってたんだろ? 藤姫に聞いた」
 「ああ、その事かい。黒龍について聞きたくてね」
 「何か分かったか?」
 急いた口調で尋ねるが、あまりはかばかしい返事は返ってこなかった。
 「いくつか話は聞いたが、黒龍の神子には、星の一族のような者がいないからね。伝承が少なく、さしたことは分からなかったが…」
 「それで?」
 「話の途中で、泰明殿が呼び出されてしまった。何か問題が起こったらしくてね」
 天真が眉をひそめる。
 「その問題って……」
 「今回の件に関わりがあるかは分からないよ」
 友雅はそこで言葉を切り、扇を軽く打ち鳴らした。
 「蘭自身が黒龍と通じることができれば一番なのだが、今のままでは無理だろうね。あの怯えようでは」
 天真の眉間の皺が更に深くなる。
 「それは仕方ないさ。黒龍はずっと蘭を操ってきたんだ」
 そして、今でも残る傷を残した。
 「…そうはならないのではないか、と私なりに予想はしているんだが、本人が納得しないことにはね」
 友雅が再度、扇を鳴らす。
 「いずれにせよ、事態は動き出した。どういう決着がつくにせよ、ここからは加速するだろう、というのが泰明殿の見解だ」
 「ふん。まあ、いいさ。早く決着をつけるに越した事はない」
 天真は意気込んで、拳をもう片方の手のひらに打ち付けた。その様子に、友雅は微笑む。
 「拙速は慎むべしと言うが、今回ばかりは、そう願いたいね」
 長引けば、事の次第を宮中に報告し、行幸を延期しなくてはならない。そうなれば、京の気運がまた下がるのは明白。
 どことなく重い雰囲気が漂う。それを感じたのか、遥雅が不機嫌そうな顔になって、天真の胸を叩いた。
 「ん、なんだ遥雅」
 天真がはっとして遥雅を見下ろす。遥雅がむくれて天真を見ている。
 「ああ、悪い。放ってたから怒ったのか」
 慌ててなだめていると、その様子を見て、友雅が微笑む。
 「雰囲気を感じ取られたかな。聡い姫君のようだ」
 「まあ、知恵はついてきたな」
 言いながら、天真はふと友雅を見る。
 友雅は楽しげな表情で遥雅を見ている。その表情は愛しく思ってるようにも、単に物珍しそうにも見える。
 俺があまり口出しするべきじゃない。
 そうするべきではない、そう思ったが、やっぱり天真は黙っていられなかった。
 「友雅…。遥雅のこと可愛いよな?」
 せめて言葉を選ぼうと思ったが、結局まっすぐにしか聞けなかった。
 友雅が小さく吹き出す。
 「若いねえ」
 久しぶりに聞く科白がカチンと来る。
 「おい、友雅」
 「私と蘭の子だろう。可愛いと思うさ」
 「…そ、そうか」
 意外にもまっすぐ返ってきた言葉に、天真は毒気を抜かれる。
 何にせよ、ほっとしたのは間違いない。
 「じゃあ、見てばっかいないで、少しは抱いてやれよ」
 「私が?」
 天真が遥雅を膝に乗せる形に抱きなおし、友雅のほうに顔を向ける。
 友雅が目線を向けると、遥雅はぱっと天真に抱きついてしまった。
 「なんだ、遥雅。別に怖い男じゃないぞ」
 「君がいると、私には近づいてくれないみたいだね」
 確かに、天真から離れようとしない。困ったと思いつつ少し嬉しいと感じてしまう。
 「ま、生まれた時から一緒だしな」
 「…なんだか嬉しそうだね、天真?」
 からかうように言われて、ぎくりとする。
 「いや、そういう事じゃ」
 「それだけ可愛がっているのだろう。からかっているわけではないよ。君がそれほど子ども好きなのは意外だけどね」
 「やっぱ、からかってんじゃねーか」
 「有り難い、と言っているんだよ。姫君のことも、蘭のこともね」
 今度はからかう響きはなかった。天真は改まった顔になって、友雅を見た。
 「…礼を言ってもらって何だけど、そんな必要ないぜ。遥雅を可愛がるのも、半分罪滅ぼしだからな」
 「罪滅ぼし?」
 天真は頷く。今日は、珍しく友雅がはぐらかさずに答えてくれたから、天真も話す気になった。
 「三年前にさ、蘭に子どもができたって聞いた時、俺、最初は堕ろせって言ったんだ」
 「『堕ろす?』」
 「ああ、分かんねえか。子どもを生ませずに殺しちまうってことだ」
 友雅の眉がかすかに寄る。天真は小さく笑った。
 「そう珍しい話じゃないんだぜ。確かに、嫌な話だけどな。俺も、遥雅の顔を見るたびに申し訳なくなる。…だけど、その時はそれが一番だと思った」
 今では間違っていたと分かる。でも、それも今だから言える事だ。
 「父親のいない子を育てるのは大変なんだ。それはこっちでも一緒だろう? まして、その時、蘭はまだ15歳だった。俺らの世界では、まだ結婚も仕事も出来ない子どもなんだ。蘭には三年の空白っていうハンデもあったし、自分の事だけで精一杯のはずだった。だから、俺も両親も反対した。でも……」
 天真の表情が辛そうに歪む。
 「あいつ、どうしてもきかなかった。俺も引かなかったから、何度も言い争いになった。けど…、何度目の口論の時だったかな。あいつ、泣き出してさ、俺に言ったんだ。……なんて言ったと思う?」
 友雅は無言で天真を見返し、先を促す。
 天真は静かに言葉を紡いだ。
 「―――『もう人を殺すのは嫌』って、そう言ったんだ」


 「蘭、言うことを聞いてくれ。世の中、そんなに甘くないんだぞ。いざとなれば周りは助けてくれない、好奇の目にもさらされる。育てていけるはずないだろ」
 妹の行方不明、そして留年という経歴から得た苦い教訓だ。
 だが、蘭は固い表情のまま、首を左右に振った。
 「もう決めたの。何も言わないで」
 天真は頭をぐしゃぐしゃとかきまぜる。
 「お前は、まだ一人じゃ何も出来ないんだぞ。辛い事を言ってるのは分かってる。でも、今は辛くても、そうするのがお前にとって一番いいんだ」
 蘭は唇を噛んだ。ここしばらくの間、何度も繰り返されたその仕草によって、彼女の唇は切れ、ひどく荒れている。
 「……いや」
 「蘭!」
 天真が声を張り上げる。だが、蘭は決して頷こうとはしなかった。自分のお腹の前で、きつく両手を握り合わせ、そこに宿る命を手放す気はないという意志を示す。
 天真は疲れたように息を吐いた。
 「…もういい。とにかく、明日にでもいい病院を探してくる」
 「お兄ちゃん!」
 蘭が顔を青くして、天真の服をつかむ。
 「待って! やめて、お兄ちゃん」
 天真は、その手を振り払う。
 「駄目だ。いいから、全部、俺たちに任せていろ。手術には、お袋が付き添うって言ってるから」
 「いや! お願い、お兄ちゃん。私、もう人殺しは嫌なの!」
 「…何だって?」
 天真の表情が凍りつく。蘭は小刻みに震えながら、赤く潤んだ目で天真を見上げた。
 「お兄ちゃんも知ってるでしょう? 私はずっとあの地で、鬼として生きてきた。怨霊を使い、京を穢して、大勢の人を死に追いやったの。私がこの手でやったの」
 「何を言うんだ、蘭。それはお前の―――」
 「たとえ、私の意志じゃなくても、私がした事に変わりはないわ。お兄ちゃん、私はヒトゴロシなの。今でも覚えているの。何人…、何十人という人が、私の目の前で死んでいった。私、もう嫌なの。死の叫びなんて聞きたくない!」
 「蘭!」
 天真は蘭の言葉を遮るように、彼女をきつく抱きしめた。
 「やめろ…。もうやめろ」
 「お兄ちゃん、だから……」
 「悪かった。俺が悪かったから、もう何も言うな。頼む……」
 天真の腕に、更に力がこもる。蘭は身を固くしたまま震えていたが、やがて大きく息を吐くと、天真の胸にぎゅっとしがみついた。
 「お願い、お兄ちゃん。私、もう誰も殺したくない…。私に、この子を殺させないで」
 天真はそれ以上何も言えなかった。


 話し終わった後、しんとした雰囲気が牛車に降りる。
 友雅は黙って、天真の話を聞いている。
 「あいつ、さ。鬼の所にいた時のこと、あんま覚えてないとか言ってたけど、嘘だったんだよな。本当は全部覚えてたんだ」
 救出したばかりの頃、蘭は京に来てからの記憶は曖昧だと天真たちには言っていた。無理もない事だと思ったし、疑いもしなかった。
 「俺は気付かなかった。あいつ、何も言わなかったから…、笑ってたから」
 思い出すだに切ない気持ちが蘇る。
 「……なあ、友雅。お前、もしかして蘭のそういう部分を知っていたのか?」
 ずっと抱いていた疑問を友雅にぶつける。だが、今度の質問には、友雅は答えず、どっちとも取れる微笑を浮かべただけだった。だが、不思議と落胆はしなかった。
 「ああ、いいんだ。まともに答えてくれるなんて期待してない。ただ、もしそうだとしたら、一言、礼が言いたかった。…ありがとな」
 友雅は驚いたように眉を上げた後、扇の陰で声を押し殺して笑った。
 「何だよ、なんで笑うんだ」
 これにはむっときて、友雅を睨みつける。
 「いや、まさか君に、女性の事で礼を言われるとは思わなかったからね」
 あの頃、友雅の遊行に一番眉をしかめていたのは彼だったのに。
 友雅はひとしきり笑った後、ようやくむくれた表情の天真に向き直る。
 「まあ、君の言うとおりだったとしても、礼を言われるようなことじゃないよ。彼女が何を抱えていようと、興味がなければ近づこうとも思わなかっただろう。それを美談にされても困る」
 「…ふん。まあ、そんなこと言うだろうと思ったけどさ」
 やっと気にかかってた事を口にしたのに笑われたのは腹立たしいが、この男はこれでいいのだろう。
 天真が、蘭との間にある壁に気付いたのは、その一件がきっかけだった、
 蘭に何でもしてやりたかった、望みは何でも叶えてやりたかった。けれど、蘭はいつも天真から一歩引いていた。自分が鈍いだけでなく、蘭は、故意に気持ちを気付かせないように振る舞っているところがあった。
 そんなに頼りにならないのかと悔しくて、蘭に詰め寄りそうになった事さえあった。
 ―――でも、もういいんだ。それがお前の望む距離だと言うなら、俺は気付かないままでいる。
 きっと蘭の中には、どれだけ家族が愛情深く接しても埋められないものがあって、それを埋められるのは友雅だけなんだ。
 やがて、牛車が土御門邸に着いた。
 友雅は用事があって邸には寄らないというので、通用門の手前で降ろしてもらう。
 「じゃ、サンキューな」
 そう言って、車内の友雅に向かって手を上げると、友雅が小さく笑う。
 「君の『さんきゅー』という言葉も久々に聞いたね」

 去っていく車影を見送り、天真は遥雅に目を向ける。
 遥雅はじっと友雅の牛車を見つめている。車内では天真にくっついて離れなかったが、友雅を気にしているのだろうか。それとも、牛車が珍しいだけだろうか。
 友雅の気持ちを聞いて安心したが、そうなるとまた別の心配がわく。
 『事態は進んでいく。これから加速する』
 泰明が言ったという言葉が脳裏を何度もよぎる。
 止まらないのなら、もちろん、いい方向に進めるよう頑張るつもりだ。問題があるなら解決して、蘭も無事に連れ帰る。そして―――。
 天真は切なげに眉を寄せる。
 そのとき、また離ればなれになるのかな。
 友雅と蘭、そして友雅と遥雅。
 ふと自分の両親を思い出す。
 ずっと心配しているだろう。ある程度事情を話してきたが、全てではない。信じて、全て話しておくべきだったのかもしれない。そんな思いが湧き上がる。
 三年前、蘭の気持ちを聞いてから、天真は蘭の味方に転じた。
 両親は驚き、当然ながら天真を諌めた。高校中退して働くと言った言葉を父は一蹴し、ただ勉強に専念しろと怒鳴った。
 『娘より勉強が大事かよ! くっだらねえ。とにかく俺も蘭も腹をくくった。あんたらが何て言おうと、俺たちの勝手にする!』
 それまで自分も両親と同じ主張をしていたにも関わらず、そう言って責めた。
 一触即発だったが、母親が間に入ってくれて、天真も親に頼らない無謀さを認めた。蘭を思う気持ちは一緒なのだ。タイムスリップの件は伏せて、蘭の事情を話した。
 話を聞いた父親は、長く沈黙した後、天真に言った。
 『お前は、まずはきちんと卒業する事を考えなさい。お前にも中学留年というハンデがある事を忘れるな。…正直なところ、もう一度、蘭に会うことは出来ないと諦めていた。だが、お前は諦めずに蘭を探し出して、今まで支えてくれた。ありがとう。これからは父さん達がやる。お前も、もう一人で抱え込むな』
 「……親父」
 あの時、不覚にも涙が出そうだった。
 いつだって反抗してばかりだった。蘭がいなくなってからは、更に荒れて、自分を心配する言葉さえ突っぱねて、学校もロクに行かずに蘭を探し回った。あげく留年して、散々迷惑をかけた。
 戻ってからも、何ひとつ事情を打ち明けずに、そのくせ、何も理解してくれないと、身勝手に責めたのに。
 …それなのに、どうして、そんな言葉をくれるんだ。
 「ごめんな、父さん、母さん…。ありがとう……」
 遙かな時空の先にいる面影に、天真は謝意を送った。



<続>


 

 

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