暁に咲く花 ――― 18 ―――
翠 はるか
明くる日、つまり怨霊騒ぎの翌日、友雅は定刻早々に内裏を辞し、土御門邸を訪れた。
二日続けての早帰りに同僚は嫌な顔をしたが、素知らぬふりをしてやり過ごした。
そもそも、行幸の成功にまったく関わりのない事でもない。もっともそんな事情は同僚達のあずかり知らぬところではあるが。
「藤姫、失礼しますよ」
離れの主に挨拶に訪れると、今日は藤姫は一人だった。他の者は自室か外出しているようだ。
「ようこそおいで下さいました、友雅殿」
藤姫が笑顔で迎えてくれる。もちろん友雅の来訪は知らせてあった。とりあえずは型通りの挨拶などしながら、設えてあった座に腰を下ろす。
「今日もいらしてくれたのですね。この頃は目出度き事(行幸)にお身を取られる事が多いと聞き及んでおりますが」
「なに、近衛府には、優秀な人材が揃っております。私ひとり何ほどの事もありませんよ」
「まあ、ご謙遜を」
藤姫がくすくすと笑う。行幸の準備がいかに大変で気を遣うものかは、ものの噂である程度知っている。
「真面目にやり過ぎるのは、やはり性に合わない。慣れない鷹通の真似などするものではありませんね」
「鷹通殿はお喜びになりそうな事ですわ」
藤姫はまた笑んだ後、表情をわずかに改める。
「あの、お父様に会いに行かれたと聞き及びましたが」
その言葉に、友雅が軽く目を見開く。つい先刻の事なのに、もう耳に入れた者がいるらしい。もしかしたら、元々、父である左大臣の意向を気にしていたのかもしれない。
だが、別に隠すような事でもない。友雅は素直に首肯した。
「大臣にはご心配をおかけしておりますからね。あちらもご多忙でしたが、本日話す時間を作って頂けました」
再び龍神の神子や八葉が集っている事を、左大臣も当然ながら気にしている。藤姫からも話をしているが、宮中での作法など、政治的な向きになると彼女も気が回らない。
今日はそういった事や先の予想なども含め、左大臣と話してきた。
それに、左大臣は藤姫の星の一族としての使命に口を挟む事はないが、娘の親としての立場もある。
藤姫は十三歳。もう縁談も現実味を帯びている。そんな娘の元へ多種多様な人間が出入りしているのは、外聞が良くない。
まして、友雅は子を預けている。
「お父様は何か仰せでしたか?」
「いえ、寛容な対応を頂きましたよ。私などは私的に迷惑をかけているので、かえって恐縮してしまった」
藤姫がほっと息を漏らす。
「左様ですか。ようございました」
「この件に関しては、私も貴女に感謝しなくてはね。私の邸へとも思ったのですが、こちらのほうが心安いでしょうから」
今回ばかりは真面目に礼を言うと、藤姫は曇りのない笑顔を浮かべる。
「これも私の使命のうち。どうぞお気になさいますな」
「あなたがそう優しいと、己を恥じ入るばかりですね。ですが、あなたの障りになるような事は致しませんよ」
「お気になさらずと申しておりますのに。姫君はとてもお可愛らしくて、私も大好きになりましたのよ」
「そのようですね」
その話は蘭や女房からも聞いていた。末子の藤姫は妹が出来たようだと、とても可愛がっているらしい。
「姫はみっつ。母親が許すなら、袴着の事を考えようかと思っているのですが」
「あら」
藤姫が驚いたように声を上げる。が、すぐに嬉しそうな笑みに戻る。
「それは、蘭殿もお喜びになるでしょう」
「さて、どうでしょう。あれもなよやかな外見に似ず、なかなかに強情なところがあるのでね」
「きっとお喜びですわ」
邪気のない言葉に、友雅も反論せず苦笑を漏らす。
「まあ、いずれにせよ、そんな余裕ができればの話ですよ」
「そうですわね」
今は京の異変や行幸もある。藤姫はその事だと思って頷いたが、ふと疑問に思う。
この問題が片付けば、また蘭は本来の世界へと帰ってしまうはず。
余裕が、などという話ではない。その前に行うということか。それとも―――。
考え込む藤姫をよそに、友雅は立ち上がった。
「では、そろそろお暇しましょう。夏とは言え、日暮れは思いもかけず早いものですからね」
「あら? お帰りになりますの?」
藤姫が不思議そうに友雅を見る。
言外に蘭に会っていかないのかと言っているのだろう。
「また近い内に。今日は、これから泰明殿に会いに行ってきます」
「泰明殿に?」
「ええ。内裏で会えれば良かったのですが、最近はほとんど出仕していないようでね」
もちろん今回の件で奔走しているためだ。
「そうですの。また、いつでもいらしてくださいませ」
「ええ。失礼しますよ」
退出の挨拶をし、友雅は安倍家へ向かう。
黒龍について、もっと知りたかった。
白龍は「再生」を、黒龍は「破壊」を司ると言われ、その事にさして疑問も抱かなかった。先の乱で、黒龍の力は京を破壊しかけた。最後に京を覆っていった甚大な瘴気も黒龍のもの。黒龍が「破壊」を司るというのはそういう事だと思っていた。恐らく他の八葉も、藤姫も、蘭でさえも。
だが、本当にそうなのだろうか。
昨日の、黒龍の元に絡め取られていた蘭の様子を思い出す。
あの時の彼女の気は、あまりに澄んでいて美しく、不浄のものとは思えなかった。
もしかしたら、何か根本的な誤解をしているのかもしれない。そうだとしたら、それを知っておきたかった。
友雅が出立した後、時を置かず、今度は天真が藤姫の部屋に続く廊下を歩いていた。
その表情は冴えない。
会ってきたばかりの蘭の様子を思い出し、気分が沈む。
蘭は落ち込んだ様子もなく、昨日の一件から立ち直っているように見えた。その事が逆に天真の不安をあおる。
それが、単に、辛さを見せないようにしているだけだと知っているから。
だが、それを無理に暴き立てるような事も出来ず、消化不良な気分を抱えて、蘭の部屋を出てきたのだ。
「兄妹なのにな…」
ぼやきは苛立つほど明るい空に消えていく。
「―――藤姫、邪魔するぜ」
「天真殿、いらっしゃいませ」
部屋に入ると、藤姫はいつもの座所で書を広げていた。
「急に悪いな」
一応詫びつつ部屋を見渡す。だが、女房が控えているだけで、藤姫の他に人はいなかった。
天真は、あてが外れて小さく舌打ちする。
「友雅が来てるって聞いたけど」
「あら、友雅殿にご用でしたの。さきほどお帰りになりましたわ」
「なんだよ、もう帰ったのか?」
天真は落胆する。だったら、もう用はなかったが、脱力してその場に座り込む。
「泰明殿の所へ行くと仰せでしたわ。急な用件であれば、使いを出しますけれど」
「いや、そこまでしなくていい」
話をしたかったが、明確に言いたい事が決まっているわけではない。
それに話しても、はっきりした答えは返ってこないだろう。分かっていたが、蘭をどうにか元気づけられないかと思ったとき、つい彼を思い浮かべてしまった。
…ったく、どいつもこいつもはっきりしない奴ばっかだ。
段々と苛々してくる。天真自身にも蓄積している疲れが、普段納得しきれないまま飲み込んでいる思いを、表面に押し上げてくる。
「友雅は、あいつ、どうなんだろうな」
「え?」
藤姫が首をかしげる。
「いや、遥雅のこととかさ。知っても、特に態度変わんねえだろ。今回の件も、そりゃやる事やってるんだろうけど、全然必死な感じがしないって言うか」
勢いのまま、まるで怒鳴るように吐き出し、はっと言葉を飲み込む。
そんな事を、藤姫に言っても仕方がない。
「天真殿……」
「いや、あいつはあいつなりに心の中では、と思うんだけどな。表に出さなきゃ分かんねえよ」
天真が髪をかき混ぜて、盛大にため息をつく。
「悪い。いきなり来て、訳のわかんねえ事で怒って」
「いえ、天真殿は蘭殿を大切になさっておりますものね」
優しく言われて、天真は急に恥ずかしくなった。ずっと年下の少女に、逆になだめられている。
「友雅殿は、ちゃんとお二人の事を考えていらっしゃいますわ。先ほども姫君の袴着の話をしていかれましたのよ」
「ハカマギ?」
「みっつを過ぎた頃に行う儀式ですのよ。初めて袴を着けて成長をお祝いするのです」
「…ふうん」
よく分からないまま頷く。現代ではすたれた儀式のひとつなのだろう。ここでは、まだそういう行事が大事にされている。
天真がピンと来ていない事に気付いたのだろう、藤姫は更に言葉を加える。
「友雅殿が袴着を執り行うというのは、正式に娘としてお認めになるという意味ですわ」
「……そっか」
天真はほっと息を吐く。
儀式の意味するところは正確には分からなかったが、この時代では、きっとけじめになる事なのだろう。
「悪いな、藤姫」
もう一度、愚痴を聞かせた事を詫びる。
「…今はさ、出来るだけ、蘭の側にいてやって欲しいんだ。俺がいるよりいい気がして」
藤姫が心配そうに眉を寄せる。
「蘭殿はやはりお辛いご様子ですか?」
「いや、逆。元気そうにしてる。でも、それ絶対に本当の気持ちじゃないから。ただ、俺には力不足みたいでさ……」
一転して元気をなくした天真に、藤姫は心をこめた言葉をかける。
「蘭殿は、天真殿をとても頼りにしていらっしゃると思いますわ。天真殿がいらっしゃる前は、蘭殿はもっと緊張されていましたもの」
「…なぐさめんなよ」
またなだめられたと不満に思いつつ、向けられる気持ちは素直に嬉しかった。
藤姫の部屋を辞し、天真は部屋に続く廊下を戻っていった。
その途中、蘭の部屋の近くの広庇で、聞き覚えのある弾んだ声がした。
「…何やってんだ、お前ら」
蘭に遥雅、あかね、詩紋が床に何かを広げて歓談している。
「あ、天真くん。天真くんもおいでよ」
あかねが振り返り、天真に向かって手招きする。近づいていくと、床に広がっているのは何種かの紙と筆だと分かる。
「何をやってるんだ?」
尋ねると、詩紋が嬉しそうに紙の束を見せてくる。
「藤姫に紙をいっぱいもらったんだ。せっかくだから、皆で使おうと思って」
「ふうん。何書いてるんだ?」
遥雅は図形とも何とも分からない絵を楽しそうに描いている。あかねたちは、三人でひとつの紙に文字をいくつも書き付けていた。
「歌当てって言うのかな。百人一首の第一句を書いて、続きを当てるの」
「…はあ〜、風流なことやってんな」
ついていけないと思った天真は、少し離れた位置に座る。
「百人一首なら結構聞き覚えあるし、面白いよ。天真くんもやらない?」
「パス」
即答すると、三人でくすくすと笑う。
「天真くんは、そう言うと思ったけどね。蘭ちゃんはすごく得意なのになあ。一人勝ちだよ」
あかねが蘭に視線を向けると、蘭は照れたように微笑を浮かべる。
「蘭は、そーゆうの好きだからな。兄妹でも趣味は違うんだよ」
天真が面白くなさそうに言うと、蘭は逆に楽しげな表情で天真を見る。
「そんな事ばかり言わないで、あかねちゃんにも、たまにはこういう文を送ってみたら?」
「はあ?」
蘭の言葉に、あかねも目を輝かせて天真を見る。
「いいね〜、欲しい欲しい」
「……勘弁してくれ」
天真が天を仰ぐと、皆でひとしきり笑う。それは面白くなかったが、蘭の穏やかな表情に心から安堵する。今の表情は嘘ではないと感じた。
「まーま」
やがて、遥雅がお絵かきに飽きたようで、筆を転がし、蘭の着物を引っ張る。
「遥雅、もうお絵かきは終わり?」
「こうえん行きたい」
蘭が困ったような笑みを浮かべる。
「ここには公園はないのよ。お散歩したいの?」
「ぶらん、ぶらん」
遥雅が蘭の着物を引っ張って訴える。
「ブランコに乗りたいのか。こいつ、公園好きだもんな」
「お庭はよく散歩するんだけど、もう飽きてしまったかしら」
「広いとはいえ、ずっと邸の中だしなあ」
そんな会話をしていると、遥雅が動かない蘭に焦れたのか天真をくるりと振り返った。
「おにーちゃん、こうえん」
今度は天真の側に歩いてきて、彼の袖をゆさゆさと揺さぶる。
「やっぱり外に行きたいのか? そうだなあ」
天真が即答しないでいると、遥雅は天真の腕にぴたっとくっついて、彼の顔を見上げてきた。
「おにーちゃん、好き〜」
「うっ」
天真が喉を詰まらせたような声を出す。
「駄目だろ、遥雅っ。そんな友雅の真似なんかするなっ、血か!?」
あかねと詩紋が爆笑する。
「めろめろじゃない」
「うるせえ」
笑い転げる彼らを睨みつけ、天真は遥雅を抱いて立ち上がった。
「仕方ねえ。ちょっと散歩してくる」
「邸の外に行くの?」
蘭が心配そうに言う。別段京のすべてが危険な訳ではないが、ここに来て、遥雅を邸の外に出した事はなかった。
「どこが安全かは把握してる。そんなに遠くには行かねえし、心配するな」
「私も行くわ」
「いいよ。少しの間だし、お前の支度待ってるほうが時間かかる」
天真はそう言って、立ち上がりかける蘭を制する。蘭には、もう少しのんびりして欲しかったし、平安風の支度を待ちたくないというのも本音だった。
「じゃあ、行って来る」
<続>
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