暁に咲く花 ――― 17 ―――
翠 はるか
藤姫の邸に戻ると、蘭は遥雅を迎えに行き、そのまま自室に戻った。
天真たちは藤姫と今日の話をするそうだが、蘭は抜けさせてもらう。皆もそれでいいと言ってくれた。
部屋に入ると、急速に疲れに襲われる。身体を起こしているのが億劫で、遥雅が遊び始めたのを確認して、茵を枕に横になる。
身体が重く感じる。
何も考えず休みたいと思うが、どうしても脳裏に東寺での出来事が浮かんでくる。
完全な失策。
どこか甘く見ていた。怨霊に力を送るも奪うも、以前の蘭には容易い事だった。まして、あれほど弱い怨念に、逆に力を奪われるなど思ってもいなかった。
蘭は己の手を見つめる。
思っていたより、ずっと恐怖が身にしみついている。
怨念に力を送った瞬間、昔ここで力を振るっていた時の感覚が蘇った。―――そして、記憶も。
そのため、本能的に力を使う事を拒否したのだ。
ぎゅっと唇を噛みしめる。
こんな事ではこの先やっていけない。陰りが強くなっているのだし、これから力を求められる場面は増えるはず。
それに、まだ異変の原因も分かっていない。
焦りが蘭の心をじりじりと焼いていく。
明日はちゃんとやらなくちゃ…。
思考に沈んでいると、不意に誰かが背中に触れる。
「きゃっ」
驚いて振り返ると、遥雅が蘭を覗き込んでいた。
「まーま」
「…あ、遥雅」
遥雅はにこにこ笑いながら、蘭にもたれかかってくる。
「あそぼ」
手には、人形を持っている。
「これで遊びたいの?」
遥雅の方に身体を向ける。だが、起き上がるのが辛い。
そのまま人形を受け取って、簡単に動かしてやると、楽しそうに笑った。
「おうち、こっち」
遥雅が立ち上がって、後ろに歩いていく。玩具用の厨子の前に調度品が並べられていて、そこがおうちらしい。
だが、蘭がついて来ないのを見て、不満そうに口をへの字に曲げる。
「まま、ねないで〜」
「ごめんね。ママ少し疲れてるの」
「やっ」
小走りに蘭の所に戻ってきて、彼女の身体を揺する。
「こっち」
「遊ぶならこっちで…」
「やっ!」
蘭の言葉を遮るように、ぐいぐい揺する。
「…遥雅!」
叱り付けると、遥雅はびくりと震えた。苛立っていたのか、意識したより大きな声が出た。
「〜〜…」
遥雅の顔が真っ赤になり、目じりに涙が浮かぶ。
「…あ。ごめん、ごめんね遥雅…」
はっとして、身体を起こす。涙を拭こうと手を伸ばすと、遥雅が抱きついてきたので、そのまま抱きしめる。
「……ごめんね、いつまでも弱くて」
なんてみっともない、子どもに八つ当たりするなんて。
ああ、本当に変わっていないのは「我が身ひとつ」だ。過ちは繰り返さないと決めたのに。
―――強さがほしい。
二度と自分を失わない強さが。
――リィ…ン…。
蘭は目を開け、胸の内で響く鈴の音を感じる。
彼女を捕らえて離さない鈴の音が。
ああ…、私の中にいる。
「どうし…て」
なじるように、すがるように音の主に問いかける。
「どうして、私を呼んだの…?」
呟きとともに、意識が遠のく。
目に映る何もかもが紗を通したようにぼやけ、まるで別の世界を見ているように感じる。自分自身でさえも遠い。
長い浮遊感。どこまでも蘭の意識は浮上する。
そして、蘭は空に浮かんでいた。
「…!」
眼下には黒の世界。黒い空、黒い大地、その黒を白い線で切り取るように建物の輪郭が見える。そして―――。
「あの光…は…?」
四方を結ぶように、光の帯が走っている。その形は覚えがある。
「龍脈…」
京を守護する龍神の軌跡。強く光り輝くはずのそれは、何故かくすんで見えた。目を凝らしてよく見ると、光の中に黒い影がびっしりと埋め尽くされていた。そのせいでくすんで見えるのだ。
「――…!」
背筋にぞっと震えが走る。
あれは今日、河原院や東寺で見たのと同じもの。
あれが、もしすべて具現化してしまったら―――。
「これが京に起こっていること…?」
龍脈を目で追ってみると、ところどころくすみが強い箇所がある。
影の深さが危険を告げている。あれらはどこだろう。きっと泰明たちが探ってきた場所のどこか。
もっとはっきり見ようと、蘭は龍脈へ降りて行く。
降下するにつれ、徐々に輪郭もはっきりとしてくる。
もう少し、もう少しで見える。
―――蘭。
「……?」
呼ばれた気がして、蘭は動きを止める。
振り返るが誰もいない。闇が広がるばかりだ。
黒龍…? いえ、ちがう。これは、この声…は……。
友雅は、蘭の部屋へ向かう廊下を歩いていた。
最近は珍しく書類仕事から逃げられず憂鬱な日々だったが、今日は早く終わった。
数日ぶりに土御門邸を訪れ、今日の顛末を知ったところだ。
その時の様子を思い出す。
藤姫や八葉たちも動揺していた。誘発したとはいえ、怨霊の出現は衝撃だ。
何かがある事は理解していても、実際に怪異を目の当たりにして、これまでとは雰囲気が変わっていた。
あちらもさぞかし…、だろう。
友雅はふと庭の槿に目を止めた。
まだ開花の時季ではないが、良く見るとつぼみが幾つかついている。
芽吹きたてのつぼみは硬い。だが、それよりももっと……。
友雅は扇を打ち、音を鳴らす。
その様を楽しんできたのは自分なのだから、感傷を覚えるのは勝手というものだろう。だが、あまりにも…なのはね。
花から目を離し、また歩き出す。蘭の部屋が見えたと思ったとき、部屋から、子供の泣き声が聞こえた。
「…姫?」
遥雅の声だった。機嫌が悪い時に来たかと思ったが、その泣き声が妙に必死さを含んでいるのを感じて気にかかる。
友雅は歩調を上げて、蘭の部屋に向かう。
「……っ」
中を見ただけで、異変に気付いた。
蘭が座ったまま、ぼんやりとした表情で固まっている。そして、遥雅はそんな蘭に手を伸ばしながら泣いている。
「蘭、遥雅」
部屋に入ると、更なる異変に気付く。蘭の傍に寄れない。彼女に近づこうとしても、近づけない。彼女との間には何もないのに、どうしてもそれ以上、足が進まない。
……なんだ、この圧倒的な神気は。
「蘭」
強く呼びかけても反応がない。
黒龍に絡め取られてしまったのか…?
「まま、まーま…っ」
はっとして遥雅を見る。彼女も蘭に近づけず、泣いているようだった。どれだけ泣いていたのかは知らないが、目が真っ赤だ。
「こちらにおいでなさい、姫」
友雅は遥雅に向かって両手を差し出す。まだ彼に懐いたとは言えない遥雅は身を引く素振りを見せたが、友雅が辛抱強く手を差し出していると、近寄ってきた。
抱き上げると、抵抗せずに友雅の胸にかき付く。
遥雅が泣き止んだのを確認して、友雅はもう一度蘭に呼びかけた。
「蘭、目を覚ましなさい」
何も映さない彼女の瞳が不安を掻き立てる。
「それ以上、そちらへ行ってはだめだ」
声など届かないかもしれない。だが、他に方法もなく、何度も呼びかけていると、不意に神気が薄れ出す。
「蘭?」
徐々に蘭の瞳に光が戻る。もう一度呼びかけると、蘭ははっとした表情になって、友雅の方を向いた。
「わた…し…」
友雅はほっと息を吐く。
「現世に戻ったか」
「…友雅さん?」
蘭はまだ状況を把握していないようだった。友雅が突然いる事にも驚いているのだろう。だが、遥雅が蘭の声に気付いて飛びつくと、反射的に抱き止める。
「遥雅?」
遥雅は蘭の胸に強く抱きついている。友雅はその背を撫でてやった。
「いじらしい事だね。小さな手で、必死に母を捕られまいとしている」
ふっと蘭の顔がくもる。
「ああ、私……」
蘭の脳裏に先ほどの景色が蘇る。黒龍に呼ばれて見た、龍脈の陰り。
遥雅を見下ろす。顔は、蘭にしがみついているので見えない。だが、髪の乱れや赤くなった耳で、どれほど泣いたのか分かる。
どれくらい意識を失っていたかは分からないが、随分と不安にさせてしまった。
「ごめんね……」
抱きしめて、身体を揺らしていると、大人しく抱きついている。今日はたくさん遊んでいるし、泣き疲れているから、このまま寝てしまうかもしれない。
ふと蘭は友雅を見る。
蘭が正気を取り戻した時、彼が遥雅を抱いてくれていた。
「…遥雅を宥めてくれたのね、ありがとう」
そう言うと、友雅は苦笑めいた笑みを漏らす。
「礼を言われるような事ではないさ」
「……」
軽く答える彼を見て、もう少し、彼が遥雅を抱いている姿を見ていたかったと思う。
彼と遥雅を会わせて、数日がたつ。不安だったが、無条件で受け入れてくれたのは嬉しかった。
大げさに喜んだりはしなかったが、元々そんな性格の人ではない。そもそも、ここと向こうでは子育ての常識も違うし、冷たい態度とは思わなかった。
だが、さっきみたいに触れ合っている姿を見ると、何だか不思議で、むず痒いような嬉しさを感じる。
この事は、京の再訪に感謝をしていいかもしれない。
「…それに、訪ねてくれたのね。散らかしていて、ごめんなさい」
床には遥雅の玩具が散乱している。今は片付ける事もままならない。
「構わないさ。来た甲斐はあったようだし」
そう言いながら、戸口の方に身を引く。
「だが、今は姫君に君をお譲りしなくてはね。また出直してこよう」
遥雅に視線をやった後、友雅は立ち上がる。
「あ……」
もう帰るつもりだと知って、蘭は急に取り残されるような気がした。
この状態で引き止める事はできない。でも、このまま去られるのは寂しい。
せめて、次の約束だけでも。
珍しくそんな思いに駆られ、蘭は気付いたら、友雅の袖を押さえていた。
「…?」
友雅が蘭の顔を見る。
「あ…。…もう、家に帰るの?」
はっと手を引っ込めながら尋ねる。その行動をどう思ったのか、友雅がふっと微笑む。
「月待ちて、と仰ってくれるのかな?」
―――夕闇は道たづたづし月待ちて 行ませ我が背子その間にも見む
有名な万葉の歌だ。でも、それよりは、もっと私は……。
「…月の出と言わず、有明を待ってくれたら…」
口にした後、蘭は頬を赤らめる。友雅は意外そうな表情を浮かべ、ついで楽しげに笑みを浮かべた。
そっと蘭の髪に指を絡め、何とも艶めいた所作で口接ける。
「…では、また今宵」
囁くような低い声で告げ、友雅は部屋を出て行った。
その足音をじっと聞いていると、そっと遥雅が顔を上げる。
「あら」
その目元は赤く腫れているが、表情はほぼ普段通りに戻っていた。
大人しいから眠りかけていると思っていたが、人見知りしていたようだ。友雅が出て行った戸口をちらちらと気にしている。
「…遥雅、あの人はね、あなたのお父さんなのよ」
まだ大人しい遥雅に語りかける。
「ここにいる間に、仲良くなってくれるといいな」
その様子を想像して笑ってしまった。
藤姫や女房たちには早く馴染んでくれたが、男性、それも数回会っただけなのだから仕方ないのだろう。
「…あの人は大人でね。いつも飄々とした感じだけど、どうしてか一番いてほしい時にいてくれるの」
遥雅の髪を撫でていた手を、背に沿って下ろしていく。
「一番、いてほしくない時にもいてくれるのよ」
遥雅が首を傾げる。蘭は笑いかけて、彼女を抱いたまま立ち上がった。
「さ、顔を洗いにいきましょうね。目元が痛いでしょう?」
<続>
※「夕闇は道たづたづし月待ちて 行ませ我が背子その間にも見む」
(訳:宵闇は道が暗くておぼつきません。月を待ってお帰りくださいな、あなた。
その間にも一緒にいたいから)
[戻る]