暁に咲く花 ――― 16 ―――
翠 はるか
「……っ」
蘭はあかねと泰明の姿から逃れるように、身を翻した。見つかるのを危惧し、近くにあった部屋に入って、乱れた息を吐く。
中には幸い誰もおらず、蘭はその場で座り込んだ。
胸が焦げ付くように痛かった。
「あ…かね、ちゃ……」
先ほど見た光景が脳裏に蘇る。
あの、断罪するかのような眼差しを持った青年が、あかねの前では、あれほど優しい笑顔を見せる。
それが、蘭自身も驚くほどの痛みをもたらす。
彼らには絆がある。藤姫も、他の八葉も、友雅も。
それは当然の事だと思う。光に満ちた力を振るうあかねは、敵方にあってさえ惹かれずにいられなかった。
その事が、残酷なほどあかねと蘭が違うのだと思い知らせる。
冷たいものが全身を巡り、息を詰まらせる。以前はよく起こっていた発作だ。
こんなこと、もうずっとなかったのに。
―――誰か。
遥雅の顔が浮かぶ。だが、いるはずがない。藤姫に預けてきたのだ。ここには誰もいない。
「う……」
持っていた兄の上着と自分の袿をぎゅっと抱きしめ、背中を丸める。
…大丈夫。あの発作なら、すぐに治まるはず。
そう言い聞かせても、心が乱れていく。
断ち切ると決めたはずなのに、振り切ったはずの後悔までがよみがえってくる。
―――あの時、どうして、黒龍を呼んでしまったのだろう。
「ああ……」
蘭は絶望の声を上げる。
土と血がこびりついた手で頭を抱える。丘を登り、獣道を下り、身体中が土まみれになるほど歩いた先にあった光景は、歩き始めた時の光景とまったく同じものだった。
「どうしてえ……」
蘭が鬼の里を取り囲む森に入ってから、既に二時間は経っていた。まっすぐに歩き続けているはずなのに、どれだけ歩いても同じ場所に出てきてしまう。
「これが、あの人が言っていた『結界』なの…?」
蘭は、銀髪の男の言葉を思い返す。
鬼の里は結界によって守られており、出ることは叶わないとあの男は言った。だから、蘭も決して森に近づかないようにと。どういう意味か分からなかったが、この不可思議な現象を目の当たりにして、ようやく理解できる。
だが、理解したところで、それは蘭の絶望を深めるだけだった。
「帰りたい…。お母さん、お兄ちゃん……」
蘭がアクラムによって召喚されてから、一月が経とうとしていた。
儀式の際、捨てられた彼女を拾ってくれた銀髪の男―――イクティダールは蘭に小さな家を用意してくれた。
最低限ながらも家具をそろえ、食料も差し入れてくれる。
だが、現代の中流の暮らしに慣れている蘭には、木材を簡単に組み合わせただけのその家は、人の住む場所とは思えなかった。
更に、鬼の里に連れて行かれた蘭に向けられるのは、里人の異様なほどの敵意と蔑みだった。
イクティダールが簡単に説明してくれた話によると、彼ら『鬼』と呼ばれる存在は、『京』という所に住む人間から迫害を受けており、その迫害から逃れるために、隠れ集落を作り、ひっそりと暮らしているということだった。
そして、蘭はその京人と同じ外見を持っていた。
少しでも蘭に情をかけてくれるのはイクティダールだけで、その彼も不在のことが多い。他の里人は一様に蘭を嫌い、理不尽な嫌がらせや、ときには暴力を彼女に与えた。
蘭は家に引きこもり、誰とも交流しない生活が続いた。そして、とうとう蘭の精神は限界を迎えた。
夜明け前の、まだ人が起き出して来ない頃を見計らい、家を飛び出した。
あてはもちろんない。手近な森に飛び込み、ひたすら歩くだけだ。それでも、歩き続ければ、どこかに出るはずだった。
しかし、結界は蘭の方向感覚を狂わせ、まっすぐ歩いているつもりが、ぐるぐると同じ場所を歩き回らされているだけだった。
「助けて……」
気力がくじけ、蘭はその場にくず折れた。更に、疲労までもが身体を襲い、もう立ち上がる事ができなかった。
「助けて……」
かぼそい声がこぼれる。歩く気力を失った彼女には、助けを請うしか出来なかった。
…うちに帰りたい。この森を抜けたいの。誰か…、誰か……!
―――リィ……ン。
蘭は、はっと目を見開いた。
耳に響く鈴の音は、聞き覚えのあるものだった。
ここへ来る時、蘭をさらった、あの音。
「あれが、来ているの……?」
蘭がぞくりと震える。
あの時に感じた圧倒的な力は、恐怖となって彼女の身にしみついていた。
「あれが…、また私を……」
震えが止まらなかった。あの力に呑まれたら、抗うことは出来ない。力のままに流されるのみだ。
「でも……」
あの力は、彼女をここへ連れてきた力だ。それならば、もう一度彼女をさらって、家に帰すこともできるかもしれない。
蘭は空を見上げた。明けたばかりの空が、白々と広がっている。
あそこにいる。あの黒いものが。
「助け…て……」
震える声で、召喚の言葉を紡ぐ。
「お願い、ここから出たいの。この結界を壊して、私を家に帰して!」
叫んだ瞬間、何かが身体から溢れたのを感じた。ぐにゃりと景色が歪み、足元から地面が消え失せる。
「ひ…っ」
眼前に広がるのは、一面の黒だった。形の定まらない、もやのような力が蘭を取り巻いている。
―――神子よ。我が力を受け入れよ。
「いやっ!」
蘭は反射的に叫んだ。
以前、感じた以上の強大さだった。こうして接しているだけで、びりびりと肌がしびれ、全身が総毛だってくる。
あんな力を受け入れたら、壊れてしまう。
「来ないで、やめてっ」
もやを払おうと、めちゃくちゃに腕を振る。困惑したような声が脳裏に響く。
―――我を拒むな、神子…、神子よ……。
「いやあっ! 来ないでえっ!!」
蘭は耳を塞ぐ。
―――そなたに拒まれては、我は具現化できぬ。
「いやああ!」
―――み…こ……。
もやがのたうつように蠢く。
次の瞬間、世界が、爆発した。
「―――思いがけない収穫、というべきかな」
アクラムは、楽しげな表情で気絶している蘭を見下ろしていた。
周囲は無残にえぐれた大地とひび割れた木々が広がっている。
蘭が黒龍の召喚に失敗した衝撃で、森の一角は半壊。結界も壊れてしまった。
結界が壊れては京人が入り込んでくる危険があるので、力のある者総出で結界の修復に当たらせている。
そんな状況の中、アクラムはあくまで楽しげだった。
「なりそこないだが、この力は使える」
傍らのイクティダールを見やる。
「見よ。この強い陰の気。この娘は怨霊を生む力を手に入れたようだ。そして、黒龍の力を」
アクラムは蘭の横にかがみ、彼女の頭に手をかざした。
「お館様?」
「この娘は鬼の一族ではない。逆ろうても面倒だ。今のうちに、従順な人形としてしまおう」
「それは…!」
「不服か」
反論しかけた男は、アクラムの冷徹な視線に遭って、言葉を飲み込む。
「……いえ」
「ふ、それでよい。この娘も、お前も私の道具。これからも仲良くしてやるとよいぞ」
アクラムの嘲笑が耳を打つ。イクティダールは痛ましげな表情で、気絶した蘭を見つめていた。
翌日、不安をかかえながらも、蘭は京めぐりを始めた。
泰明の他、天真と頼久が同行を申し出てくれる。
同行者の中にあかねはおらず、正直ほっとする。昨日の今日で、彼女と泰明が一緒にいるところを見るのは辛い。
…大丈夫。もう落ち着いたわ。それよりも意識を集中していなければ。
そう言い聞かせて、蘭は河原院へと出発した。ところが、いくらもいかない内に、そんな不安は驚きに変わる。負の気配が明らかに強くなっている。
「この陰りは……」
「何か感じるのか」
呟きに泰明がすぐ反応する。
「気配が強くなっているわ。数日前まではかすかなものだったのに、あなたが昨日言った通り…」
街に出ただけでこれなら、河原院はもっと陰りに満ちているだろう。
蘭は物憂げに、道の行く先を見つめた。
河原院は静かだった。
元々、さほど人の往来が激しいところでもない。静けさは、蘭の気を研ぎ澄まさせ、負の気配が満ちているのを感じさせる。
「黒龍の神子、こちらだ」
泰明が、龍脈の力が特に強い場所に連れて行ってくれる。
「意識を集中してみてくれ」
頷いて、目を閉じる。龍脈の流れは力強く、その波動を感じ取るのは容易だった。滞りのない強い流れ。だが、その流れの中には―――。
「……っ」
蘭が息を呑む。光のようにも見える力の奔流に、澱んだ陰りがいくつもこびりついていた。
「何か見えるのか、蘭?」
天真が蘭の様子が変わったのに気付き、声をかけてくる。蘭は目を開け、見慣れた兄の顔を見つけてほっとした。
「大丈夫。少し驚いただけ」
「何を見た?」
蘭は言いよどんだ。なんと説明したものか、言葉に迷う。
「龍脈は…正常に見えます。とても力強くめぐっている。それなのに、その流れにいくつも陰りがこびりついている」
「ふむ…」
蘭の言葉に、泰明が考え込む。
「やはりおかしいな。龍脈が正しくめぐっているなら、大抵の悪しきモノは押し流されるはず。黒龍の神子、その陰りの正体を見定める事は可能か?」
「…やってみます」
蘭がもう一度目を閉じる。
その後ろで、万一に備え、頼久や天真も身構えた。
…ああ、やはり見える。
黒い影がいくつも現れる。穢れともまだ呼べない小さなものだが、やはり良いものには見えない。
声を聞けないかと思ったが、欠片のような小さな陰りは、何の声も発していない。更に気を集中してみたが、結果は同じだった。
「駄目です。何も聞こえない……」
「そうか」
泰明は短く答える。責められたわけではないが、気持ちが落ち込んでしまう。
俯く蘭の背を、天真が優しく叩く。
「気にすんな、まだ先があるんだ。そうだろ、泰明?」
「ああ、そうだ。次の場所に移動しよう」
「…ありがとう」
蘭が呟く。その一言で気持ちが軽くなった。
こうして一緒にいてくれる人がいるのは、幸いな事だ。
「次は東寺ですね」
蘭は努めて明るく言った。東寺はさらに陰りの気配が強かった。
そして、ここも同じ。龍脈の強い流れを感じる。その流れに陰りがこびりついている。
「気持ち悪い…」
まだ穢れですらない。だが、小さいとは言え、これだけ数が多いと気味が悪い。
「ここは御坊が異変に気付いていた。もしかしたら、他より見定めやすいかもしれぬ」
「そうなんですか」
龍脈に沿って歩いていく。ここの陰りも声は聞こえてこない。
やはり駄目かと思い始めた時、かすかな音が蘭の脳裏をよぎる。
今のは……。
蘭は足を止めて、気を集中した。
散らばった陰りの中に、特に闇が深いものを見つける。
「…見つけた」
他の三人がはっと蘭を見る。
「本当か?」
「ええ。小さいけれど、声が……」
それに意識を凝らす。冷たい気配が背筋を這い登った。
これは、怨念…のかけら?
「…怨念、だと思います。かすかな声だけど、怨詛の声がする」
「怨念が育ち始めているという事か?」
「…いえ、むしろ、怨念の残骸とでもいうような……。なんと言っていいか分からないけれど」
強い念が引き裂かれたような印象。聞こえる声も、つながりのない音の羅列だ。
「やはり、陰りは怨念であったのか。育っておらぬのは幸いだが」
「でも、穢れがたまれば、また怨霊化するかも……」
言いかけて、蘭はふと思いつく。
もしかしたら、もう少しはっきり見えるように出来るかもしれない。
だが、それは多少の危険を伴う。
「くっそう、怨霊は全部祓われたんじゃなかったのかよ」
考え込む蘭の脇で、天真がぼやく。あの死闘から、まだ三年しか経っていないのに。
「怨念も人の営み。常に生まれては、消える」
泰明が諭すように答える。だが、天真は不満そうだ。
「……あの」
蘭は迷ったすえ、思い切って口を開いた。
「どうした、蘭?」
「…私、もう少し詳しく見えないか試してみるわ」
陰りはとても弱い。この程度の怨念なら、大丈夫だと思う。
泰明が不審そうに眉を寄せる。蘭が揺れているのが分かったのかもしれない。
蘭は気付かない振りをして、目を閉じた。
怨念の欠片に意識を集中する。相変わらず、暗い声を発している。
蘭は、欠片にそっと力を送り込んだ。
怨念の力がもう少し増幅すれば、もっとはっきり正体が掴めるはず。
陰りが蘭の力を吸って大きくなる。おぼろげだが、黒狗のような姿が浮かび上がった。
「この怨霊は……」
覚えがあるような気がして、一瞬、蘭の気がそれる。その瞬間、怨詛の叫びが響き渡った。
「あっ!?」
急に喪失感に襲われる。すぐに、怨念が蘭の力を吸ったためだと理解する。
しまった…!
力が奪われるのを止めようとするが、動揺しているためか、うまく力を制御できない。それなら怨念を鎮められないかと思ったが、 怨念は激しく抵抗する。
「蘭!?」
異変に気付いた天真が叫ぶ。その間も怨念は蘭の力を吸い、とうとう具現化できるほど膨れ上がった。
グオオオオオオオオ……!
うなり声を上げ、狗の形をした怨霊が姿を現す。
「危ない!」
頼久が蘭をかばって前に立つ。彼は既に抜刀していた。
「怨霊よ去れ! 急急如律令!」
泰明が呪言を唱える。幸い、生まれたばかりの怨霊は弱く、その一撃で消滅した。
「あ……」
蘭は呆然とする。
「怨霊の種が眠っていたか」
泰明が静かに言葉をつむぎ、、その言葉が蘭の心に重く響く。
怨霊の種……。ただの怨念ではないのか。
「これが、京中に残っているならやっかいだ。」
そう言って、泰明は蘭を振り返った。
「怨念に力を吸われたな」
「ええ……」
蘭は素直に頷く。
「意を通じようとしたら、逆に力を吸われて…止められなかった」
蘭は落ち込む。泰明たちがすぐに対処してくれたからいいものの、下手したら大事になっていた。
「ごめんなさい」
「お前の力は強い。気をつけろ」
「…ごめんなさい」
「あんま言うなよ。それより、さすがに今の奴は俺にも見えたぞ。あれが他にもたくさんいるってのか?」
天真が口を挟むと、泰明は天真に視線を移した。
「放置すれば、そうなるかもしれないな」
「やばいじゃねえか」
天真が眉を寄せる。
「大丈夫よ、お兄ちゃん。今のは急速に育って具現化しただけだから、早々にどうにかなる事はないと思うわ」
少なくとも今のところは、多分。
蘭の唇から、意識せずため息が漏れた。
「そうかよ。…蘭、どうした、疲れたのか?」
「え、ううん、大丈夫よ」
反射的に答えたものの、力を吸われ、久しぶりに怨霊を目の当たりにした事で、確かに疲れていた。
それまであまり口を挟まなかった頼久も、蘭の顔を見て頷く。
「確かに顔色が悪いようです」
「万全でないなら、戻ったほうが良いな。得る物はあった」
泰明にも言われ、蘭もそれ以上の反論はやめる事にした。
「そうですね。それじゃ、戻りましょう。今日はありがとうございました」
来た道を逆にたどる。天真たちがさっきの事象について話すのを聞きながら、蘭は唇を噛みしめた。
<続>
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