暁に咲く花 ――― 15 ―――
翠 はるか
藤姫の部屋に、女性たちの軽やかな笑い声が響きあう。
「さ、姫君、お食事の支度が出来ましたわよ」
藤姫が楽しげに笑って、遥雅に玩具のお膳を差し出す。
「まんま?」
遥雅が小さなお膳を小さな手で握り、にこっと笑う。その笑顔に藤姫だけでなく、お付きの女房たちも歓声を上げる。
その様子を、蘭は微笑ましく見つめる。
今日は藤姫は遥雅のために、雛あそびの道具を用意してくれていた。いわゆるままごと道具だが、なかなか良く出来ている。人形は紙製だが、一見しただけではそうと分からないほど、綺麗に立体的に作られていた。調度類のミニチュアも、ちゃんと引出しが開けられるほど凝っている。
「素敵な玩具をありがとう、藤姫」
礼を言うと、藤姫は人形を手にしながら、はにかんだような笑みを浮かべる。
「私もすこうし前まで雛で遊んでおりましたの。さすがに裳着を迎えてからはやめましたけれど。なんだか懐かしいですわ」
「そうなの。女の子の遊びはここでも変わらないのね」
「あら、蘭殿も雛あそびをなさっていたのですか?」
「ええ。人形があって、人形のおうちがあって…。ふふっ、本当に懐かしい」
人形のひとつを取り上げて遥雅に動かして見せる。遥雅は嬉しそうに蘭の手からそれを受け取ると、藤姫に人形を突き出す。
「じしめっ、にんぎょっ」
藤姫が持っていた人形にくっつけたり、振り回したりして、すっかりご満悦の表情だ。
「あら、『じしめ』って、私の事ですの? うふふ、遊んでくださるのですか?」
「遥雅もすっかり藤姫になついたみたいね」
「そうでしょうか。妹が出来たようで嬉しゅうございます。私は末姫でしたから」
藤姫の表情から、本当にそう思ってくれているのが分かり、嬉しい。
「ありがとう。でも、あまり我がままな事をしたら叱ってね。まだ分かっていない事も多いから」
「そのような事はないと思いますけれど」
藤姫は人形を歩かせるように動かし、遥雅をあやす。
「…本当に、藤姫には世話になりっぱなしで、申し訳ないくらいだわ」
蘭だけでなく、天真たちも気持ちよく過ごせるよう采配してくれている。とても六つ下とは思えない。
「お気になさいますな。これも私の使命ですし、私自身も楽しいんですのよ。…あ、こんな事を言っては不謹慎ですわね」
藤姫が口元を両手で押さえ、肩をすくめる。その仕草は、年相応に子どもっぽく見えた。
「楽しい?」
「はい。皆様方と出会い、京のために力を尽くした日々は、私の宝物です。不謹慎ですが、またこのような楽しい日々を過ごせて嬉しいです」
「そう……」
蘭は現代で習った、貴族の姫の生活を思い出す。
ほとんど外に出る事もなく、訪れる人も限られた人だけ。
そんな生活をしていたら、出会うはずのない人と出会い、問題解決に共闘する今の状況は得がたいものなのだろう。
…私も、こういうふうに言い切れるようになるかしら。
蘭は庭に目を向ける。
泰明が帰ってきてから二日。蘭は結局ずっとこの邸で休ませてもらっている。
いずれ蘭の力が必要になるから、異変を確かめる作業は泰明たちに任せて休養を取っておくようにという事だった。
特に兄が強く主張していたが、他の者もそれに反対しなかった。
蘭としては、不承不承、休養を取る事になったのだが、いざ休んでみると、思っていたより疲れていたらしい。一昨日は微熱を出してしまった。
でも、それももう終わり。皆で京を巡って、異変の状況はだいぶ精査されていた。
明日から蘭も異変を確認しに行く。もうすぐ泰明達がその話をしに来るはずだった。
蘭はきゅっと指を組んで、その指の間の空ろに視線を落とす。
―――私の力。怨霊の声を聞き、使役する。また、彼らの念を増幅し、逆に鎮めもする。
京の乱が終結したときに、一度は失った力だ。だが、ここに来て以来、その力を徐々に取り戻している事を感じる。
明日からの京めぐりで、再びこの力を振るう。
蘭は、更に力を込めて両手を組んだ。
泰明達が戻ってきたのは、それから半刻ほど経った頃だった。
今日は泰明と天真、あかね、詩紋の四人だ。
すぐにでも話を聞きたいところだが、皆、帰ってきたばかりで疲れている。
ひとまずくつろいでもらうため、藤姫が女房にいいつけて、お茶と菓子を運ばせる。蘭も飲み物をふるまうのを手伝った。
「お帰りなさい、歩き回って疲れたでしょう?」
「おー、俺にはよく分からねえしな。ってか、疲れたというより、暑いな」
天真が暑い暑いと言いながら、上着を脱いでしまう。今日も誰より動き回っていたのだろう。
「なんだか手ごたえがないのが辛いよね。確かに変な気配は感じるんだけど」
あかねがそう言いながら、美味しそうにお茶を啜る。
「やっぱり、おかしな気配はあるのね」
「うん。それは感じる」
「あかねちゃんと泰明さんは、やっぱり霊力が高いんだろうね。僕はそこまで分からないよ」
詩紋が感心したように言うと、あかねが笑って彼を見る。
「詩紋くんだって、何か感じるって言ってたでしょ」
「なんとなく、ね」
蘭は考え込む。
霊力が高くないと感じられないほどの弱い気配なら、普通の人はまったく気付いていないだろう。
だが、気付かなくとも、その気配が穢れなら、触れたらいい影響は与えない。心身とも健康な人なら何ともないだろうが、弱い者から影響が出始める。
「―――今日で、おおよその箇所は回った。将軍塚、伏見稲荷、上賀茂神社、火之御子社、河原院、東寺、松尾大社の陰りが強いようだ」
それまで黙っていた泰明が口を開く。あかねたちが落ち着くのを待っていたようだ。
蘭が泰明を見ると、彼も蘭に顔を向けた。
「明日から、そこを回ってみようと思う」
「…ええ、分かりました」
彼が挙げた箇所は七つ。当てもなく京を回っていた時よりは得るものがあるだろう。
「七ヶ所か…。一日で回んのは無理だな」
「そうね」
馬にでも乗れたら早いのだろうが、さすがに無理だ。
泰明も頷く。
「まずどこから回るかは、お前に任せる。変異がつながっているなら、全部回る必要もないかもしれない」
「は、はい」
急に話を振られて、蘭は慌てて七箇所の位置を思い出す。
「ええと…、河原院、東寺あたりからでどうでしょう」
まずは付近からと思い、その二箇所を挙げる。余裕があれば伏見稲荷にもいけるかもしれない。
「承知した。それでは、明日迎えに来る」
「お願いします」
「陰りは次第に強くなっている。隠れていた物が表面に出てきたようだ。心しておいたほうがよい」
「ええ…、分かりました」
蘭が頷くと、泰明も頷いて身を起こす。その途中で、ふと思い出したように蘭を再び見た。
「破壊は必ずしも悪いものではないぞ」
「え……」
どういう意味かと問おうとしたが、泰明は既に立ち上がって、身を翻していた。
「泰明さん、もう帰るんですか?」
「陰陽寮に報告に行く」
短く言って、泰明は部屋を出て行った。彼の唐突な行動はいつもの事だから、特に誰も止めなかった。
「それじゃ、私も一度、部屋に戻るね」
あかねも立ち上がり、それをきっかけに詩紋と天真も部屋に戻ると言って、部屋を出て行った。三人ともまだ暑そうにしていたので、清拭か着替えをしに行ったのかもしれない。
私も明日からは頑張らなくちゃ。
そっと気合いを入れる。だが、泰明の言葉を思い出すと、心に澱のような感情が生まれる。
彼には、友雅とは違う意味で、見透かされている気がする。
もしかしたら、気にしすぎなだけで、深い意味はないのかもしれないが、彼の言葉は重くて意味ありげで心に引っかかる。
…いえ、考えても仕方ないわ。泰明さんは陰陽師として頼りになる人。私は私のやる事を考えなくては。
「……あら、この着物は」
蘭の近くにいた女房が声を上げる。蘭ははっと我に返って、反射的に声の方を振り返った。
お膳を片付けていた女房が、柱の陰から浅黄色の布を拾い上げていた。
「あ、それは……」
さっき天真が脱いでいた上着だ。そのまま忘れていったのだろう。
「あら、天真殿のお着物ですわね」
「ええ。もう、お兄ちゃんたら」
身内の無作法に、蘭は頬を染める。今さら誰も注意しないけれど、姫君の前で上着を脱ぐ事すら無作法だというのに。その上、脱ぎ捨てていくなんて。
思えば、彼には現代でも服を脱ぎ散らかす癖があった。
「注意しておかなくちゃ。ごめんなさい、届けに行ってくるわ」
さっき出て行ったばかりだから、まだ近くにいるだろう。
幸い、ちょうど遥雅も玩具に夢中で、蘭から注意がそれている。
「あら、よろしいんですのよ」
「まだ近くにいると思うから。遥雅も今なら気付かないわ、すぐに戻るから」
「分かりました。また姫君に遊んでもらっていますわ」
無言で会釈をして、蘭は部屋を出る。
足早に天真の部屋へ向かうが、思ったより遠ざかっていたようで姿が見えない。
それとも、まっすぐに部屋に向かわなかったのかもしれない。それなら部屋に置いてこようと更に蘭は歩みを進める。
だが、角を曲がったところで足が止まる。
あそこにいるのは……。
「あれ、あそこにいるのは……」
藤姫の部屋を出たあかねは、台所に水をもらいに行くという天真と詩紋と別れ、自室に向かっていた。
その途中、庭に人影を見かけて足を止める。
「泰明さん」
もう出て行ったと思っていた泰明だった。庭の端に向かって首飾りを掲げている。
「何してるんだろ……」
気になって、近くの階から庭に降りる。
「泰明さん!」
声をかけると、泰明もあかねに気付いて首飾りを下ろした。
「神子か、どうした」
「泰明さんこそ。もう陰陽寮に行ったと思ってました」
「これから向かう。その前に結界の確認をしていた」
「結界?」
あかねは辺りを見回した。そういえば、この邸には悪い力を退ける結界が張ってあるのだ。
「どこか壊れてたんですか?」
「いや、念のためだ」
「あ、なるほど」
あかねはふふっと笑う。
彼は冷たいようでいて、以前も、こうして安全に気を配ってくれていた。それが当然だと思っているのか、何も言わずに。
変わっていない、彼のそういう部分が嬉しくなる。
「明日からの調査で、異変の正体がはっきりするといいですね」
もう少し彼と話したくなって、邪魔かとは思ったが、そのまま彼の隣に並ぶ。
「うむ、龍神の力は京の理。力が正しく巡れば、自ずと京は正されるだろう」
「え〜と、大丈夫って意味でいいんですよね? …でも、龍神の力かあ。蘭ちゃん、大丈夫かな」
蘭は愚痴めいた事は決して漏らさないが、本当は心に相当ダメージを受けているだろう。日常に戻れたと思った矢先の出来事だ。
だが、あかねには、少なくとも神子としては、あまり力になれそうにない。
ここに来た時以来、龍神の声は聞こえない。五行の力も、以前よりずっと弱い。
あかねはひそかにため息をつくが、泰明は迷いのない口調で答えた。
「黒龍の神子には私がつく」
「…そうですか。それじゃ、安心かな」
あかねは微笑む。少なくとも、今は彼の力のほうが強い。
「私も明日から、更に気合入れますね」
「神子は来るな」
「えっ?」
驚いて、泰明を見返す。
「どうして?」
「何か起これば、二人は守りきれないかもしれない」
「大丈夫ですよ、今までだって…」
「これからはただの調査ではない。神子は残れ。黒龍の神子には、私がつく」
きっぱりと言い切られて、あかねは口ごもる。泰明の言う事は分かる。だが、同時にどこか違和感を感じた。
「えっと…、泰明さん、なんか変な感じ」
「なに?」
「泰明さんは昔からお仕事熱心ですけど…。うーん、なんていうのかな、蘭ちゃんを特別気にかけてくれてるみたい」
「…………」
泰明が珍しく困ったような顔になった。
「お前の言うとおりかもしれない…。私はあの娘を見ると、そうせねばと思う」
泰明はこれまた珍しく言いよどんだ後、あかねをまっすぐに見つめた。
「お前と会ってから、私は『幸福』というものをずっと考えていた。お師匠が私に欠けていると言っていたものだ」
「泰明さんの、顔の呪い……」
「そうだ。私とあの娘は似ていると思う。意志を持たずに使役される存在という意味で」
「泰明さん、それは…!」
あかねは思わず泰明の腕に手をかける。そんな言葉を口にしてほしくなかった。まるで自分を道具のように言うなんて。
その瞬間、ふと思い出す。泰明は己を龍神の神子の道具だと言っていた。そして、蘭もまた己を道具と呼んでいた。
「昔の話だ。昔の私は確かにそう思っていた。だが、私を使役するのは、お前だった。それは、とても幸運なことだったのだと思う。お前だから、私は理の中にいられた。『幸福』というものを知ることが出来た。…感謝している、神子」
「泰明さん……」
泰明の顔が一瞬ほころび、またすぐに厳しい表情に戻る。
「しかし、あの娘を使役していたのは―――」
あかねが息を呑む。その先は言われずとも分かった。
「黒龍の神子を、理に戻さねば」
「……ありがとう、泰明さん」
胸が温かくなり、自然と謝意が口をつく。この三年間で、彼はとても成長したのだろう。こんなふうに人の心を思いやってくれるようになった事が嬉しい。
「何故、お前が礼を言う?」
「嬉しいからです。…ふふっ、後は、もう少し表情が柔らかくなるといいかな?」
蘭は、泰明の前だと緊張しているようだった。それは、自分も最初はそうだったからよく分かる。
「嬉しい…? 表情…?」
泰明は理解できないという顔をしていたが、やがて微笑んだ。
「やはり、お前と話していると不思議な心持ちになる」
それは、みとれるほど綺麗な笑みだった。
<続>
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