暁に咲く花  ――― 12 ―――

             翠 はるか



 暗い洞窟が、その日ばかりは快哉に沸いていた。
 蘭は、その光景を表情のない眼差しで見つめている。
 快哉の中心にいるのは、無論、首領であるアクラム。その手には、不思議な色に光る玉を持っていた。
 きれいな…玉……。
 封じられたはずの心がざわめく。
 そのかすかな変化に気付いたのか、アクラムが蘭に視線を向けた。
 「宝玉に反応しているのか?」
 蘭は答えない。玉は彼女の心にさざ波を起こしたが、ただそれだけの事だった。
 アクラムが唇の端を上げる。
 「嬉しかろう? この宝玉を使えば、お前の対が現れる」
 「対…?」
 蘭がぽつりと呟く。ただし、それは疑問ではなく、アクラムが言葉を発した事への反応だった。
 「そうだ。もっとも、お前のような出来損ないの神子と違い、我が求めた本物の神子だがな」
 「………」
 アクラムの嘲笑を、蘭は黙って受ける。それが嘲笑である事すら、今の蘭には分からない。
 ただ、宝玉を見つめている内に、喜びとも悲しみともつかぬ気持ちが湧き上がってくる。そんな感情を持てあまし、蘭は居心地悪げに身じろぎする。
 …私の対…。


 はっと蘭は目を覚ました。
 辺りはまだ暗く、室内の様子もはっきりとは見えなかった。だが、夢で見た場所ではない事は分かった。
 深く息を吐いて横を見ると、遥雅がぐっすりと眠っていた。
 身体から緊張が抜ける。
 大丈夫、ここは藤姫の邸だ。
 そっと手を伸ばして遥雅の頭を撫でる。夕べは別離の反動で、蘭の側から片時も離れなかった。愛しさが湧き上がり、同時に不安は溶けていく。
 「ありがとう。あなたがいてくれるから、私は私でいられる」
 しばらく寝息に耳を傾けた後、蘭は音を立てないように起き上がった。
 そう長くは寝ていないはずだが、目が冴えていた。少しだけ夜風に当たりたくて、廊下に出る扉へ向かう。
 遥雅は寝付きがいい。これだけ熟睡していれば、朝まで目覚めることはないだろう。
 廊下に出ると、涼風が顔に当たって気持ちがいい。少しだけのつもりだったが、風の心地よさに誘われるままにしばし留まっていると、どこからか笛の音が聞こえてきた。
 この平安の世では、夜でも楽の音がするのは珍しい事ではないので、それを不思議には思わなかった。それよりも、音色の美しさに感心する。
 「誰かしら…」
 そう遠くないようだったので、興味にかられて音色をたどってみる。
 「あ…」
 友雅が階に腰掛けて龍笛を吹いていた。
 「友雅さん……」
 帰ったとばかり思っていたので驚く。だが、彼ならこの音色も納得だった。笛は初めてだが、琵琶ならば以前聞かせてもらった事がある。そちらも絶品だった。
 声をかけるよりも、その音を聞いていたくて、その場で佇む。気配を消していたつもりだったが、その内に友雅も蘭に気付いた。
 「おや、笛がその名に縁の人を呼び寄せてくれた」
 楽しげに笑って、龍笛を膝に降ろす。残念に思いながらも、蘭は彼のところに歩み寄った。
 「帰ったものと思っていたわ」
 傍まで行くと、友雅が身体を階の端に寄せてくれたので、その隣に腰を下ろす。
 「明日、泰明殿が戻るそうなのでね。泊めてもらうことにした」
 「泰明さんが…」
 おぼろげに彼の姿を思い出す。京でも指折りの陰陽師。敵であった時の記憶からも、彼の霊力の高さは知っている。彼ならば何か分かるかもしれない。蘭が感じている形のない不安も。
 ふと気付くと、友雅が蘭の表情を窺っていた。
 「何かしら?」
 「君は特に異変を感じないと言ったそうだが、本当に何も感じるものはない?」
 「え……」
 蘭は言いよどむ。恐らく藤姫あたりから今日の報告を聞いたのだろう。ごまかそうかと思ったが、彼の眼差しを見ていると、きっと見透かされているのだろうと感じられた。
 「…何も感じていないわけじゃないわ」
 そう告白した後、言い訳のように言葉を付け加える。
 「別に隠していた訳じゃないの。ただ、私にもはっきり分からなくて、うまく説明できないの」
 もやのような、つかみ所のない感覚。それを他人に伝えるのは難しい。
 「泰明さんと話せば、もう少しはっきりするかもしれないわ」
 「そう」
 友雅は頷いて、それ以上は聞いてこなかった。降ろしていた龍笛をまた構えて、音色を奏で出す。
 蘭は横目でちらりと友雅を見上げる。
 追及しない行動がありがたい反面、少し物足りなくも思う。だが、音色を聞いている内に、それもどうでも良くなってきた。
 龍笛の音色など、現代ではほとんど耳にする機会はない。これほど豊かな音色だとは知らなかった。
 じっと見つめていると、友雅が一曲吹き終えたところで、笛を蘭に差し出してきた。
 「君も吹いてみる?」
 「え…」
 「興味を持ってくれたようだ」
 …そんなに興味津々な顔をしていたかしら。
 そうだとすると恥ずかしかったが、興味があるのは事実だったので、素直に龍笛を受け取った。
 友雅が息の吹き込み方などを教えてくれて、とりあえず吹いてみる。
 不安定ながら、どうにか音が出る。
 「上手いものじゃないか」
 「どこがなの」
 蘭は眉を寄せる。あの音色の後では、耳汚しだろう。
 「初めてで音が出るだけでも大したものだよ」
 そう言って、音の出し方をもう少し細かく教えてくれる。それに従って、何度も息を吹き込んでいると、少しずつ音が安定してきた。
 「呑み込みが早いね。楽を習ったことがあるのかい」
 「ええ、小さい頃だけど」
 答えつつも、蘭の意識は半分以上、笛に行っていた。
 旋律とも呼べないものだが、笛を奏でるのは思ったよりずっと楽しかった。
 言葉に出来ない心が音になる気がする。
 夢中になって笛を吹く蘭を、友雅は微笑ましく見つめる。
 しばらく吹き込んで、ようやく気が済んだのか、蘭が龍笛から唇を離した。
 「難しいものね。でも、面白かったわ。ありがとう」
 礼を言って、龍笛を返そうとするが、友雅は受け取らなかった。
 「そのまま持っていて構わないよ」
 「え?」
 蘭が首をかしげる。
 「でも、お気に入りの笛ではないの?」
 あの音色は相当吹き込んでいないと、出せないはずだ。
 「君の方が、もっと気に入ってくれたみたいだからね。私には、その内、音色にして返してくれればいい」
 「いやだ。そんなこと言われたら、重圧だわ」
 そう言いつつ、蘭の表情は嬉しそうだった。
 「本当にいいの?」
 「もちろん」
 「ありがとう」
 蘭が大事そうに龍笛を握り込む。友雅は愛しげに目を細めて、そっと蘭の髪を撫でた。
 蘭が驚いたように友雅を見るが、友雅は気にせず髪を撫で続ける。
 その内に、蘭は目を閉じて、友雅の肩にもたれかかった。
 その重みを心地よく感じながら、友雅は撫でる手はそのままに空を見上げる。澄んだ月が出ていた。
 「今宵の月は、月やあらぬ…と眺めずに済みそうだ」
 蘭はおやと片目を開けて友雅を見る。彼が詠じた歌は、蘭がここに来る直前にゼミで取り上げた歌だ。その事に不思議なつながりを感じる。
 「梅花の頃には、昔の春ならぬと想ってくれていたのかしら」
 歌の続きを交えて答えると、友雅が軽く目を見開く。
 「ふふ、他人事のように仰るとは、つれない姫君だ」
 すぐに驚きの色は楽しげなそれに代わり、友雅は蘭の髪を撫でていた手で、彼女の肩を引き寄せる。
 「変わっていないのが、我が身だけでなく、君の心もだと嬉しいね」
 友雅の気配が近づいてくる。蘭は目を閉じてそれを待った。


 「―――う……」
 細い声で、友雅は目を覚ました。
 覚醒した瞬間、それが何の音か悟る。
 横を見ると、思った通り、蘭が苦しげにうめき声を上げていた。
 起こそうとしたが、思い直し、震えるその身体を抱きしめる。無意識にすがる物を求めたのか、蘭は友雅の着物の襟にすがってくる。
 …三年も経てば治っているかと思ったが。それとも、この地に戻ってきたせいなのか。
 蘭がうなされるのを見るのは初めてではない。いや、共に過ごした時はいつもそうだった。多分、毎夜だったのだろう。
 最初の内は起こしていたが、意味がないと気付いてからはやめた。
 彼女を苦しめるのが悪夢ならば起こしもする。揺り起こして、怖いことなど何もないと言って抱きしめれば、それで済む。
 だが、彼女を苦しめているのは夢ではなく現実なのだ。
 普段は心に押し込めているものが、夢と言う形で現れているだけだ。
 現実に引き戻しても、意味がない。
 しばらく抱き寄せたまま背を撫でる。少しだけ震えが落ち着いた気がした。
 こんな姿を見せておいて、明日になったら、何事もなかったかのように微笑んでいるのだろう。
 「君はいつになったら、その頑なな心を溶かしてくれるのかな…?」
 呟きは彼女の耳に届く事はなく、闇に消えた。

 


 翌朝、天真は早く目が覚めた。外は朝日が顔を出したばかりで、まだ暗い。
 昨日は部屋に帰ってすぐ、眠りに落ちた。相当深く眠っていたようで、早めに目が覚めたが、頭はすっきりしている。
 しかし、まだ他の者は寝ている頃だから、退屈しのぎに庭を歩いていた。
 天真たちの家が何軒も入りそうな見事な庭は、夜明けの景色もまた風情があった。情趣にうとい天真でさえも、趣味の良さが感じられた。
 だが、たとえ、何十分の一の広さしかなくとも、現代の自分の家の庭のほうがずっと愛しく思える。
 帰りたい、という思いが急速にわき上がる。
 蘭も見つかったのだ、もう帰ってしまって構わない。
 最悪、何ヶ月かかっても蘭が見つかるまで、という覚悟を決めていたので拍子抜けした感はあるが、そんな事はどうでもいい。無事に見つかるのがなによりだ。
 会えないと思っていた旧友にも会えて嬉しいし、別れが惜しい気持ちもある。しかし、彼らはいい奴ばかりだと思うが、今回も当然のように蘭たちに神子の力を求めている気がして引っかかる。
 もう蘭には、龍神にも京にも関わってほしくない。
 とはいえ、蘭が呼ばれたことに意味があるなら、その意味をはっきりさせないと、連れ戻したところで、また同じように呼ばれてしまうかもしれない。
 そう思うと、これからの行動を決めかねた。
 大きくため息を漏らしていると、庭の少し先に人が佇んでいるのを見つけた。
 「泰明」
 思わず大きな声を上げると、泰明が振り返る。
 「天真か、久しいな」
 「おう、ほんとにな」
 天真の声が自然と弾む。相変わらずの無表情が、なんだか懐かしく感じられた。
 「もう来てたのか。なんで、そんな所に立ってるんだよ」
 「話を聞きに来たのだが、皆の支度が出来ていないと言われたので待っていたのだ」
 「そりゃあ、早すぎるだろ」
 この時代は現代に比べるとかなり早起きの習慣だが、それにしても早い。
 「京の大事だ、時間など関わりなかろう」
 「相変わらずだな」
 話しながら、泰明に向かって歩いていく。いつもの済ました表情。だが、どこか違和感を感じる。
 「…あれ? お前、顔の色が…」
 違和感の原因に気付いて、声を上げる。彼の顔半分を覆っていた呪が消えていた。
 「ああ、顔の呪か。もう必要のないものだから、先の乱が終結したときに消えた」
 「そっか」
 不親切な説明だったが、深く仕組みを聞くのはやめた。きっといい事なのだろう。
 それより、泰明が来たことが分かれば、蘭を含め、皆で話を聞くことになる。その前に話を聞いておきたかった。
 「泰明、あのさ…」
 ところが、天真を遮るように廊下がきしむ音が聞こえてくる。
 「ん、蘭?」
 足音の主は蘭だった。蘭も天真に気付き、驚いた表情で立ち止まる。
 「お兄ちゃん」
 「起きてたのか、何してるんだよ」
 「それは…、お兄ちゃんこそ。あ、泰明さん」
 蘭が天真の隣にいた泰明に気付き、会釈する。
 「黒龍の神子か。まことに降臨したのだな」
 「ええ…」
 泰明が黙って蘭を見る。その視線の強さに、蘭はたじろぐ。
 「あの……」
 「あ、こちらにおいででしたか」
 女房が廊下から泰明たちを見ていた。藤姫の支度がもうすぐ整うので、隣室で待っていてほしいという伝言を届けにきたとの事だった。
 「承知した」
 泰明が短く答え、藤姫の部屋へ歩き出す。
 「待てよ、俺もいくぜ」
 「私も行くわ」
 蘭の言葉に、天真は歩き出そうとしていた足を止め、眉をひそめる。
 「あ、でも、遥雅も連れて行くから。先に行っていて」
 「…ああ、分かった」
 天真は泰明を振り返る。彼の姿は既にだいぶ先に行っていた。追おうと思ったが、やめて逆に蘭を追いかける。
 「蘭、待ってくれ」
 「お兄ちゃん?」
 天真の硬い声に、蘭が首を傾げる。
 「京を見て回ってるって聞いた」
 「ええ。鷹通さんが付き合ってくれて」
 「あのさ、無理はしなくていいんだぞ」
 「え?」
 「今回は、俺たちは自分の意志でこっちに来れた。正確にはあかねの意志で、だけどな。でも、あかねがいれば、帰ることも出来るんじゃないかと思う。三年前とは状況が違うんだ。お前が無理に頑張る必要はないからな」
 蘭は軽く目を見開いた後、複雑な表情を浮かべた。
 「そう…ね。あかねちゃんなら、できるかもしれないわね」
 逡巡するように蠢かせていた指先を、きゅっと握りこむ。
 「でも、私、振り回されるのは、もう嫌なの」
 「蘭…」
 「何も分からないまま、振り回されたくない。だから、私なりに決着をつけておきたいの」
 「…そうか」
 強い口調に蘭の決意を感じる。それに、蘭の言う事ももっともではあった。
 「分かった。お前がそう決心しているんなら、俺も協力する。必ず俺はお前を守る」
 「ありがとう」
 蘭は微笑んで、兄の顔を見つめた。



<続>


 

 

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