暁に咲く花 ――― 11 ―――
翠 はるか
日が翳り、暗くなりかけた廊下に、軽やかな笑い声が響いた。
その声を耳にした友雅は、思わず足を止める。
―――蘭が笑っている?
どこか場違いな所に迷い込んだような感覚が、彼の心をよぎる。
ここに来て以来、蘭は会釈程度の微笑みを浮かべる以外、笑った事はなかった。不安が、彼女からそれを奪ってしまっていた。その様子は、三年前に鬼から解放された直後ほどではないが、それに近しい。
けれど、今聞こえる声はとても楽しそうで。
「………」
友雅はかすかに動揺を感じながら再び歩みを進め、蘭の部屋の戸口から顔を出した。
「蘭、失礼するよ」
「…えっ?」
驚きの声と共に振り返った蘭の手には、小さな童女が抱かれていた。
「―――…」
「……友雅さん」
蘭は狼狽した表情で友雅を見つめており、童女はきょとんとした表情で友雅を見上げていた。室内は翳っていたが、点された明かりのおかげで顔は良く見える。
友雅はしばし無言でその子と蘭を見つめた後、つと微笑んだ。
「ご機嫌伺いに参上したのだが、邪魔をしただろうか?」
「え…、いえ、そんなこと。どうぞ入って」
蘭ははっとしたように居住いを直し、遥雅の遊びで散らかった室内を簡単に片づけた。
一方、遥雅は見知らぬ男が入ってきたことに怯えたのか、蘭の影にぱっと顔を隠す。
「遥雅、出ていらっしゃい」
蘭が声をかけるが、顔を伏せたまま首を横に振って出てこようとしない。
友雅は蘭の向かいに腰かけながら、扇で口元を押さえた。
「姫君は、急に来訪した無礼な客人がお気に召さないようだ」
「そんなこと……」
蘭は困ったような顔で微笑み、ふと真剣な顔になった。
まだむずがる遥雅を膝の上に抱き上げて、友雅のほうに向ける。
「話そうと思っていたの。この子…、遥雅というのよ」
「遥雅姫と仰せか」
「ええ。はるかの”か”は雅という漢字を当てるの」
「…なるほど」
友雅は遥雅に目を向けた。遥雅も名を呼ばれたことに反応してか、友雅を見上げている。その眼差しが、よく似ている。
「君がずっと言い辛そうにしていたのは、この子の事だね?」
「ええ――…」
友雅が人の悪い笑みを浮かべる。
「言えば、私が取り乱したり、逃げ出したりするとでも思っていた?」
「え? いえ、それは―――…」
「ふふ。天真にはそう言われたけどね」
「お兄ちゃんが…」
なんてこと言うのかしら、と蘭は心の中で思う。だが、それが自分のためを思っているからだと分かるから、胸が温かくなる。
目を伏せていると、肩の辺りが本当に温かくなった。
友雅に抱き寄せられたのだと気付いたときには、すぐ側に彼の顔があった。
「…すまなかったね、蘭」
「あ―――…」
蘭の身体から力が抜ける。心の底から安堵感がこみ上げてきて、自分がどれだけ緊張していたのか気付く。
その温かさに身を任せ、目を閉じると、深く焚き染められた侍従の香を感じる。
あの頃と変わらない。安堵が蘭の身体を包んでいき、強張った意識を和らげていった。
「―――…っ」
はっと気付くと、蘭は完全に友雅に体重を預ける形で、もたれかかっていた。
一瞬状況がつかめずに、辺りを見回すと、微笑を浮かべている友雅と目が合う。
「…いやだ。私、眠っていたの?」
「ああ。ほんの短い間だけれどね」
蘭が気恥ずかしそうに身を起こす。
「今日は、ずっと街を探索してたから疲れたのね」
「そう」
それもあるだろうが、おそらく夜、眠れていないのだろう。
友雅はそう思ったが口には出さなかった。
「小さな姫も、時空を散策してお疲れのようだね」
「あ……」
言われて視線を落とすと、蘭の膝の上で遥雅も眠っていた。
「そうね…。心配もかけてしまったし」
泣きじゃくる遥雅の様子を思い出し、改めて申し訳ない気持ちが湧き上がる。
この子のためにも、もっとしっかりしなくちゃ。
蘭は、遥雅を起こさないようにそっと抱き上げると、奥の褥へと運んでいった。
「一緒に休むのかい?」
「ええ。いつもそうしているのよ」
友雅が扇を口元にあて、悪戯っぽい微笑を漏らす。
「なんだ…。心の鬱屈も晴れたようだし、今宵は寝室を許してくれるかと思ったのに」
蘭の頬に朱が走る。
「……ばか」
友雅は軽い笑い声を上げ、立ち上がる。
「このまま君も休むといい。私は藤姫と話をしてくるから」
「ええ、ありがとう」
蘭が微笑んだのを見届けて、友雅は彼女の部屋を辞した。
「あっ」
友雅が戻ってきたのに気付き、天真が真っ先に声を上げた。
その緊張した面持ちに、友雅は苦笑を漏らす。
だが、あえてその視線に気付かぬふりをして、藤姫の前に進んだ。
「中座して、失礼したね。話を聞かせてもらえるだろうか」
「ちょ、ちょっと待った! 何事もないような顔してんなよ」
友雅がやれやれというふうに振り返る。
「相変わらずだね。何でも言葉にしようとするのは風情がないよ」
「風情とかそういう問題じゃ…」
天真が詰め寄ろうと腰を浮かしかけると、あかねがくいくいと天真の服を引っ張った。
「何だよ、あかね」
「騒いでるの、天真くんだけだから」
「え?」
言われて、辺りを見回すと、確かにあかねも詩紋も苦笑交じりの顔で天真を見つめている。藤姫は心配そうな表情を浮かべていたが、これは言い争いが始まらないかと心配しているのだろう。
「…………」
不利を悟って、天真は腰を降ろす。その天真にあかねはそっと耳打ちする。
「あんなに落ち着いた様子で帰って来たんだよ。悪いことがあったはずないでしょ」
「それは……」
言われてみるとその通りだが、逆に落ち着きすぎている気もする。だが、それを言えば、また呆れられるだろうと想像がついたので、大人しく座りなおした。
藤姫がほっとした様子で、友雅に視線を移す。
「お可愛らしい姫でしたわね。これから楽しくおなりでしょう」
「さて、すぐに母の後ろに隠れてしまったのでね。どうやらお気に召して頂けなかったようだ」
「あら、残念ですわ。友雅殿に似て、とても愛らしゅうございましたのに」
藤姫が楽しげな笑いを漏らす。いつもとは逆に、からかうような響きが込められていた。
「参りましたね。それは、以前に貴女を童女のように扱った仕返しですか?」
「そうかもしれませんわね」
澄まして答える藤姫に苦笑する。それで、藤姫も気が済んだようで、からかうような笑みを引っ込めて、居住まいを直す。
「今日の調査ですけれど、鷹通殿のお話ですと、特に変わったことはなかったようです」
「収穫なし…ですか」
「はい。蘭殿も特に異変を感じないとの事でした」
「そうですか」
異変がないのは喜ぶべき事だろうが、次の行動が定まらないという事でもある。まだ京をすべて回った訳ではないとはいえ、手がかりなしでは打つ手がない。
「あかね殿がこちらに来た時の状況を聞いていいかな?」
あかねに視線を向けると、あかねは事情をかいつまんで説明してくれた。藤姫や鷹通に一度説明したためか、状況を過不足なく伝えてくれる。が、やはり手がかりになるような話ではない。
「蘭は京を回って、異変がないか調査してるんだってな」
それまで大人しくしていた天真が、また身を乗り出してくる。友雅が来る前に話す時間があったはずだが、すべてを聞いた訳ではないようだ。
「ええ。今回はどなたが召喚したのか判然としません。蘭殿が何故この地にいらしたのか分からぬのです。何かしらの手がかりになればと」
「迷惑な話だぜ」
蘭がまた京の事変に巻き込まれ、彼としては面白く思っていないのだろう。口調にも態度にも不快さが溢れていた。
「私も予想外でした。せめて、滞在中は不便なく過ごして頂けるよう取り計らいますわ」
「…ん、まあ、藤姫を責めたわけじゃないんだ」
天真がばつが悪そうに視線をさまよわせる。腹がたっていても、まっすぐに好意を示されると、それ以上怒りを露わには出来なかった。
「それで藤姫、他に何か分かったことはないのかな?」
「あ、そうですわ。泰明殿の式神が参りまして、明日にはこちらに来られるそうなのです」
「ほう。明日とは、早いお着きだ。彼の事だから、雲居を駆けてきてくれたのかな」
「わ、泰明さんと会えるんですね」
旧知の名に、あかねが弾んだ声を上げる。非常事態の中とはいえ、旧友との再会に嬉しさは隠せなかった。
「こういった相談には、やはり泰明殿が頼りになりますから。私もお会いするのは久方ぶりですけれど」
「彼は、今回の件について、何か言っていましたか?」
「いえ、何も。来られると一言だけ」
天真ががっくりと肩を落とす。
「相変わらず、用件のみなんだな」
「彼は憶測で物を言わないからね。自分の目で確認するつもりなのかもしれないね」
「そうですわね。泰明殿は、先の事件の後も、龍神様について調べてくださっておりました。何か分かると良いのですけれど」
藤姫が祈るような口調で言う。彼が来ても事態が進展しなければ、今度こそ手詰まりになる。解決までに長い時間を要する事になるだろう。
「それでは、今日話が出来るのはこれくらいかな?」
「そうですわね」
「それじゃ、今日は解散ですか」
あかねががっかりしたように言う。その顔は、落胆のためだけでなく暗く沈んでいるようにみえた。
「今日は神子殿もお疲れだろう。時空を超える御業を使ったばかりだ」
「これくらい大丈夫ですよ」
力強く請け負うが、それに反するようにあかねの口からあくびが出る。
「わわわ、ごめんなさい」
「そうだよな。お前も、あんま寝てないもんな。悪い、気付かなくて」
「いいよ。こんな時だもん」
「無理をなされないでくださいませ。部屋は整えておりますから、もうお休みください。以前と同じ部屋をご用意しましたのよ」
藤姫があかねに微笑みかける。あかねもそれ以上は反論せずに、藤姫の厚情に嬉しげな表情になった。
「懐かしいな。ありがとう、藤姫。それじゃ、休ませてもらうね」
「ええ。友雅殿もお泊りくださいませ。もうすっかり日が落ちてしまいました」
「ああ、そうだね。ありがとう」
友雅も申し出を受ける事にする。泰明には会っておきたいし、それならこのまま滞在させてもらったほうがいい。
それに……。
友雅はあかねたちに視線をやる。
彼女たちは、京に行きたいと願ったら、龍神が応えてくれたと言っていたが、本当にそれだけだろうか。いくら神子の願いとは言え、時空を越えることを、何の見返りもなしに叶えるものだろうか。
ここで話していると錯覚しそうになるが、神と関わることは本来なら稀なる事なのだ。
今は判然としないが、必ず蘭の来訪には理由がある。
「それじゃ、みんな、お休みなさい」
友雅の思考をよそに、あかねが立ち上がる。その一言をきっかけに、友雅たちは散会した。
<続>
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