暁に咲く花  ――― 10 ―――

             翠 はるか



 「少々、遅くなってしまいましたね」
 黄昏色に染まり出した空を見上げながら、鷹通が呟いた。隣を歩いていた蘭は、目深に被った被衣の下から顔をのぞかせ、彼に微笑みかける。
 「ええ。今日もありがとうございました」 
 「いえ。何かのお役に立てているのなら良いのですが」
 鷹通も微笑み返し、さりげなく辺りへ視線を配った。
 彼は質素なものとはいえ、それなりに上等な着物を身につけており、蘭も同様だ。二人は京の現状を見るため、牛車は使わず徒歩で、供もつけていないので、よからぬ輩に目をつけられないとも限らない。
 遅くならないよう気をつけていたのだが、今日は少し遠出をしたので、いつもより遅くなってしまった。
 「急ぎましょうか。まだ大丈夫とは思いますが、この辺りは日が落ちるとひどく寂しい場所になるので」
 「そうですか。はい」
 二人は歩調を速めた。その間も、辺りを見回す事は忘れない。不審な人物はいないか、そして、おかしな気配はないか。
 しばらくして、鷹通が小声で蘭に話しかける。
 「しかし、まだ見回り始めたばかりとは言え、何か起こっている様子はありませんね」
 「……そう、ですね」
 「陰陽寮のほうにも、やはり不審な報告はされていないようですし。まあ、そのほうが良い事なのですが」
 「…………」
 蘭は曖昧に頷き、そっと目を伏せた。
 鷹通と京を見回り始めて少し。彼には言っていないが、気にかかる事がないわけではないのだ。
 それは、何とも形容しがたい不安のようなもの。
 京を見ていると、不思議な違和感を感じる。何か変わった事があるわけではない。地脈も静かで、全てが整然としている。なのに、何か落ち着かない。
 気のせいと思うにしては不安で、けれど、確信できるほどはっきりともしていない。どうにも説明しがたい事で、それゆえに誰にも言っていなかった。
 …まるで、今にも壊れそうな作り物を見ているみたい。
 不意に、そんな思考が脳裏をよぎる。
 まさか、とすぐに打ち消すが、それが一番京に抱く不安にしっくりくる気がする。
 蘭は顔を上げ、高く澄んだ空を見上げた。
 ―――…そうなるのかもしれない。破壊を司る龍が、再び現れたのだから。


 二人が邸に戻ると、邸内はいつもより慌ただしかった。不思議に思いつつ中に入ると、二人の帰還に気付いた女房が早足で迎えに来た。
 「お帰りなさいませ。藤姫さまがずっとお待ちでいらっしゃったんですよ」
 「何かあったのですか。ざわついているようですが」
 「大丞さまもおいでくださいませ。龍神の神子様が再びおいでになられたのです」
 「え…っ?」
 二人は同時に呟いて、藤姫の部屋のほうへ視線を向ける。
 龍神の神子…それは、あかねの事に他ならない。
 「どうして……」
 「仔細は姫様よりお言葉があると思います。お二人が戻られたら、すぐに部屋へお連れするよう申し付かっております。どうぞ」
 蘭は乾いた喉にごくりと息を飲み込み、女房について歩き出した。
 あかねが京に来た。それは何を意味するのだろう。
 無性に不安が湧き上がる。やはり何かが起こるのだという思いと、本当の神子が現れたのだという思い。
 蘭の心がざわざわと乱れ始めた。
 …きっと、また何かが起こる。そして…、そして、どうなるのだろう。
 蘭が無意識の内に着物の合わせを掴み、しわが刻まれるほど強く布地を握りしめる。不安が心を侵食していた。
 やがて、藤姫の部屋近くに着く。蘭がかすかに青ざめた顔を上げた時、中から甲高い声が廊下に響いた。
 蘭ははっとして、襟を掴んでいた手を緩める。それは聞き覚えのある、ひどく恋しい声だった。
 まさか…、まさか、でも…!
 思考が形になる前に、蘭は走り出す。鷹通が驚いたように呼び止めるが、彼女の耳には届かない。
 藤姫の部屋の前に着き、急いで中を覗きこむ。部屋の中は、人がたくさんいた。女房と狩衣を着た人と、そして―――。
 「遥雅!」
 天真の膝の上に座っていた遥雅がはっと立ち上がった。
 「…ままっ!」
 そのまま蘭のほうへ駆け寄ってくる。蘭も周囲を忘れて部屋の中へ駆け込み、遥雅に向かって腕を伸ばした。
 「遥雅…っ」
 伸ばした腕の中に、遥雅が飛び込んでくる。その小さな体を抱きしめた瞬間、蘭の心には安堵感が満ち、京に来た時からずっと続いていた緊張が解けた。
 「遥雅……」
 もう一度その名を呟いて、何度も髪を撫でる。遥雅はその腕の中で泣きじゃくっていた。安心したのは、彼女も同じだった。
 その光景に、その場にいた誰もが感じ入ったように、しばらく口をきかなかった。

 「……蘭」
 しばらくして、おそるおそるかけられた声に、蘭ははっと顔を上げる。
 見上げると、天真が微笑を浮かべながら、蘭を見ていた。
 「…お兄ちゃん。お兄ちゃんも、どうして……」
 「お前を探しに来たんだよ。無事でよかった……」
 「お兄ちゃん…」
 蘭は天真の向こうに視線をやった。詩紋がいる。そしてあかねも。きっと、彼女がまた龍の道を開いて。
 「ありがとう…」
 二人は笑って首を横に振った。
 その様子を見ていた天真はほっと息をついて、体を起こした。そして、戸惑った表情でなりゆきを見ていた鷹通に目を向ける。
 「よお、久し振りだな」
 声をかけると、鷹通ははっと振り返り、ゆっくりと微笑んだ。
 「お久し振りです、天真殿。皆、お元気そうで何よりです」
 「お前もな。それより、蘭が世話になったんだってな、ありがとよ」
 「いえ、私は頼まれただけで……。あの、天真殿」
 鷹通が、再び戸惑いの色を浮かべて、遥雅に視線を移す。
 「あの…そちらの御子は…」
 「…あ。いや、まあ、何つうか…」
 天真があさっての方向に視線をやる。何となくはっきり言うのは憚られた。頼久にも藤姫にも似たような反応をされて、既に説明してあるのだが。
 鷹通がますます眉根を寄せた。
 「…なにやら、友雅殿に似ておられるような気がするのですが」
 「……蘭に似てりゃ、もっと可愛かったんだけどな」
 少しの沈黙の後、天真がそう答えると、あかねがくすりと笑って彼らのほうを見た。
 「天真くんたらそんなこと言って。すごく可愛がってるくせに」
 「うるさいぞ、あかね」
 「え…。そ、それでは、あの御子はやはり……」
 天真がひょいと肩をすくめた。
 「ま、そういう事だ」
 「…………」
 鷹通が息を吐く。やはり相当な衝撃だったのだろう。
 天真は苦笑を漏らし、蘭を振り返った。
 「ところで、蘭。こっちに来た時の事、話してくれるか?」

 

 友雅が土御門邸を訪れたのは、その日の夕刻だった。
 こんな遅い時分に訪ねるなど常にはない事だが、最近ではこの時間に内裏を退出するのが普通だ。それに、内裏に届けられた一通の文により、来ないわけにはいかなかった。
 ―――あかねたちも、蘭を追って、京にやって来たという。
 それは驚きではあったが、心のどこかで予想していた事であったように思う。黒龍の神子が現れ、白龍の神子が現れる。以前もそうだった。
 それは、何か意味のある事なのだと思う。そして、この京に何かが起こりつつある証でもあった。

 女房に案内され、友雅が藤姫の部屋を訪れると、御簾の内からは懐かしい声が響いていた。
 思わず友雅の口の端に微笑が浮かぶ。三年前に帰ったような、懐かしい気持ちが彼の中にも湧き上がっていた。
 「失礼するよ」
 声をかけて中に入ると、室内の人物がいっせいに彼を振り返った。友雅は、その内の一人に笑みを向ける。
 「やあ、神子殿。久方ぶりだね」
 目線を向けられたあかねははっとした顔になり、慌てたように背筋を伸ばした。
 「は、はい、友雅さんも変わりませんね」
 「…? 天真も詩紋も元気そうだね」
 「お、おう」
 「お、お久しぶりです。友雅さん」
 友雅は軽く首を傾げた。何だか様子が変だ。
 答えを求めて、改めて部屋の中を見回してみると、上座で藤姫までもが困ったような笑みを浮かべて友雅を見ていた。
 …なんだと言うのだろう。
 友雅は天真に視線を向けた。
 「ところで、蘭殿と鷹通は?」
 「あ、ああ。蘭は部屋だ。鷹通はさっき帰ったよ。また明日来るってさ」
 「そうか。ところで、天真。何か私に言いたげにしているが、話でもあるのかい?」
 「あっ? あー、いや、えっと…」
 直接に切り出されて、天真がどもる。言いたい事なら確かに山ほどある。あるのだが。
 「その…、とっ、とりあえず、蘭に会って来てくれないか?」
 「蘭殿に? それはいいが、話があるのではないのか?」
 「そうだけど、そっちが先。話はそれからだ」
 「…そう、分かった」
 友雅は身体を反転させた。ここにいても話は進まないようだし、元々蘭には会いに行くつもりだった。
 が、部屋の敷居をまたいだところで、天真が慌てたように身を乗り出してきた。
 「あ、友雅!」
 「なんだい」
 振り返ると、天真の表情はひどく真剣なものに変わっていた。
 「あの…さ。別に驚いたり取り乱したりするのは仕方ねえと思うけど、頼むから逃げ出したりだけはしないでくれよ」
 「は?」
 「じゃ、行ってくれっ」
 天真は真剣な顔のまま、友雅の背を押して、彼を部屋から押し出す。友雅はやはり訳が分からないという顔をしていたが、結局、そのまま蘭の部屋のほうへ向かって行った。
 「………ふう」
 天真は一仕事終えた時のように深く息をつき、額の冷や汗を腕で拭った。
 やれやれと呟きつつ振り返ると、あかねが苦笑いを浮かべて彼を見ている。
 「天真くん、逃げ出さないでくれ、はないんじゃない?」
 「だってよ。いくらあいつでも平然としてられないだろうし。そんな事になったら、蘭は……」
 「まあ、心配する気持ちも分かるけど…」
 黙ってなりゆきを見守っていた藤姫も口を挟む。
 「大丈夫ですわ。友雅殿は掴み所のないところはございますが、お優しい方である事は間違いありません。きっと、これまでの蘭殿の労をねぎらい、あのようにお可愛らしい姫君を得られました事をお喜びになるでしょう」
 「……本気で言ってるか、藤姫?」
 「え…。も、もちろんでございますっ」
 藤姫が語調を強める。しかし、どもってしまったのでは意味がなかった。
 「はあ……」
 天真が心配そうに蘭の部屋の方を見る。
 本人のせいではあるが、友雅は女性に関して全く信用がなかった。


<続>


 

 

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