暁に咲く花  ――― 9 ―――

             翠 はるか



 ざわざわと喧騒をまき散らしつつ、近衛府の時間は過ぎる。
 その実務責任者――友雅は、束になった警備の計画表に向かっていた。
 だが、一応、目は文面を追っているが、あまり身が入っていない。
 それよりも、今は気にかかる事がある。―――と言えば、仕事をなまける口実でしょうと言いそうな者もいるが。
 友雅は書類をぱさりと机に落とした。
 『そう言いそうな人物』は、あれ以来、毎日土御門を訪ねてくれているらしい。自分も、今日か、明日辺りには会いに行こうと思う。
 藤姫からの文によると、蘭は、鷹通と共に、京を散策する事にしたと言う。恐らく、今頃、京を巡り歩いているのだろう。
 友雅の口の端に、かすかな笑みが形作られる。
 「自ら飛び込んで行くのか。己を陥れた京の中へ…」
 呟きは、誰の耳に届くこともなく、夏の風に消えていく。
 ただその場の数人だけが、友雅の楽しげな笑みを不思議そうに見ていた。

 ―――あの乱の後、友雅は、幾度となく「変わった」と言われた。
 友雅自身も、その通りだと思う。それを、はっきりと自覚したのが、初めて蘭の房を訪れたあの夜。
 それまで、自分に与えられていた評価は、華やかな衣で氷の心を隠した男というもの。そこまで見えるのは、夜を過ごした女に限った事ではあるが。
 友雅は、時に恨みを込めてそう言われても、否定しようとはしなかった。
 その評価が正しくても、間違っていても、彼の心を捉えるものではなかった。
 だが、彼に触れる全てが形のない霧のようで、何も残す事なく消えていったのは確か。ただ、通り過ぎる瞬間、周囲の空気が濃くなるのを感じる。それだけ。その空気の主が誰でも構わなかったのだ。
 それが、変わったのは、やはりあの乱の折。新しい出会い。未知の体験。そこで、確かに何かが生まれた。
 それは、友雅の心に刺さった小さな棘のようなもの。あるかなしかの頼りない楔。
 けれど、その楔は少しずつでも、実のあるものを彼の心に留める。流れゆく時の中から、確かなものを楔にかけては、彼の心に降らせていく。
 それは、少しずつ少しずつ友雅の中に降り積もり、心の虚ろを淡い色で満たしていく。
 例えるならば、それは決して溶けない永遠の淡雪。
 そんな棘の存在の、何よりの証左があの少女。
 それまでならば、きっと踏み込まなかった。興味は覚えたかもしれないが、二、三度話して、それで終わりにしていたはず。
 共有しあえる話題も価値観もほとんどない。心に、ともすれば引き込まれそうな深淵を抱く。何より、共に戦った八葉の妹。そんな面倒な女に。
 友雅は目を閉じ、柔らかな雪の軌跡を思い描いた。
 離れていた三年の間も、彼女は、友雅の心に降る淡雪だった。
 けれど先日、直に会って、驚いた。自分の中で、ずい分と彼女の印象が柔らかくなっていた事に気付いたからだ。
 いつの間にか、過去の出来事も想いも脚色していたらしい。それが、実際の彼女に触れて壊れた。
 けれど、そのほうがいい。
 思い出は確かに美しいけれど、何も返しはしないのだから。

 

 蘭は庭にたたずんでいた。
 彼女は一日の大半をここで過ごす。整えられた庭が美しいし、警護の者以外は、あまり人もいない。心が落ち着く場所だった。
 だが、穏やかな心地で歩を進めていた蘭は、建物の端に来た辺りで、不意に足を止めた。
 その視線の先の廊下で、あかねが人と話をしている。相手は、八葉の一人。その人を、蘭は他の八葉よりは、よく知っていた。以前、一度庭で会って以来、時々声をかけてくるようになったのだ。
 蘭はその場に留まって、二人の様子を見つめた。
 二人はとても楽しそうだ。あかねはよく笑い、時に頬を染める。彼のほうも楽しげに彼女に言葉をかける。
 蘭はしばらく縫い止められたように、その場に立ち尽くしていた。
 「…………」
 二人の会話は終わりそうにない。蘭は強張った身体を意志の力で動かし、踵を返した。
 その瞬間、友雅が蘭のほうを見た気がした。
 はっとして振り返るが、改めて彼の様子を見てみても、特に変わった様子はなく、きっと気のせいだと思い直す。そして、その場を離れた。

 蘭は自分の部屋辺りまで駆け戻り、乱れた息を何度もついた。
 しばらくして顔を上げ、そっと胸を押さえる。
 ちくりと痛い。焦げ付くように。
 彼女と会った時は、いつもそうなる。
 発作のようなものだ。全身を巡る冷たい力が息を詰まらせる。
 しばらくすれば落ち着く。それもいつもの…。
 「蘭殿」
 蘭の身体が、瞬間で強張った。
 …彼女と話しているんじゃなかったの。
 蘭がぎこちない動きで振り返る。
 「友雅、さん……」
 思ったよりは、きちんとした声が出た。けれど、それきり口を閉ざしていると、友雅が小さく微笑みつつ、彼女のほうへ歩み寄ってきた。
 「気分が優れないのかい?」
 「…少し、疲れただけ。休んでいれば、すぐに治るわ」
 「そう。ならば、木陰にでも入っていたほうがいい。強い日差しは身体にさわるだろう」
 「ええ……」
 友雅が、近くの大きな庭木を示す。蘭は困惑しつつも、その手のままに彼と庭木に向かった。実際に、木陰に入りたかった。
 木陰に入ると、ひやりとした涼風が吹き抜けていく。心地良さに、蘭はほっと息をついた。
 彼女の顔色が、大分回復したのを見て取って、友雅は口を開いた。
 「そんなに疲れるほど庭に出ていたのかな。それほど気に入ってくれたとは、この庭の主も喜ぶことだろう」
 「……庭に出るのが好きなの。…あなたは? 用があるのじゃないの?」
 「いいや。特に、義理立てしなければならない姫があるわけでもないしね」
 友雅がさらりと答える。その涼しげな表情に、蘭は何か言ってやりたくなった。
 「あら、あかねちゃんはいいの?」
 友雅がくすりと笑う。
 「やはり、見ていたね?」
 「あ……」
 蘭は失言に気付き、口ごもった。
 友雅は、そんな彼女の様子にくすくす笑っていたが、ややして表情を改め、眼差しを深くした。
 「少し妬けるね」
 「え?」
 「君が、あまりに神子殿ばかり見ているから」
 蘭がはっとした表情で友雅を振り返る。彼は楽しげに蘭を見返して、彼女の視線の先に手をかざした。
 「こうして話している今も、君の視線は私をすり抜けて、彼女の元へ向かっているようだ」
 蘭の瞳に、かすかに警戒の色が浮かぶ。
 友雅は変わらず楽しげだ。その表情からは特に何も読み取れない。
 …この人は気付いているのだろうか。私があの光の花を散らしてしまいたいのだと。


 「…なんか、ずいぶん活気が出てるね」
 「うん。すれ違う人が明るい顔してる」
 土御門邸に向かいながら、あかねたちは復興途中の京の町を眺めていた。二度と見ることはなかったはずの景色に嬉しさがこみ上げる。ここで過ごした時は、ほんの一時。けれど、きっと忘れ得ない鮮烈な思い出。
 「皆はどうしてるかな。元気にしてるよね」
 「ああ。多分、相変わらずだと思うぜ」
 「ふふっ、そうだね。あ、この通り、洛西に行く時によく通ってたよね」
 道すがら、昔話は絶える事がなかった。

 「あの、すみません」
 土御門邸に着き、門番に声をかけると、その男は戸惑い顔で、奇妙な一行を見返した。
 初めて見る門番だった。若いし、ここへ来たばかりなのかもしれない。
 「なんだ?」
 「あの、ここは、左大臣さまのお邸ですよね?」
 久し振りという事で一応確認すると、途端に男の眼差しが疑わしげなものに変わる。
 「何用だ。物売りか? ならば、勝手口のほうへ回れ」
 「い、いえ、違います。私たち、藤姫に会いたいんですけど…」
 「…お前たち、何者だ」
 門番の目が、ますます険しくなった。
 「あ、怪しい者じゃないですよ。私たちは……」
 あかねは慌てて弁解しようとするが、すぐに口を閉ざした。
 龍神の神子とか八葉とか、簡単に口に出していいものかどうか迷う。すると、天真が代わりに前に出て行った。
 「俺たちは、藤姫と知り合いなんだ。取り次いでもらえねえか?」
 「なに? 言うに事欠いて、たわけた事を…。ここなる姫が、お前らのような下々のものと知り合いのはずなかろう」
 「なんだと?」
 天真の眉がぴくりと跳ね上がる。慌てて、詩紋が口を挟んだ。
 「あの、それじゃ、頼久さんを呼んでもらえませんか。武士団の源頼久さんです」
 「頭領に? 頭領とも知り合いだとでも言うのか?」
 「えっ? 頼久さん、頭領になったんですか?」
 「知らぬのか? やはり、でまかせを言っているのだな。さあ、帰れ帰れ」
 「ちょ、ちょっと待ってください。本当に知り合いなんです。…そうだ! それじゃ、頼久さんに、森村天真くんが訪ねてきてるって言ってください。二人は真の友なんです!」
 「やめんか、あかね!」
 「やかましい、帰れ!」
 怒鳴りあうように押し問答をしていると、鋭い声が割って入った。
 「何事だ、騒がしいぞ!」
 聞き覚えのある声に、はっと振り返る。門の奥から、長身の男がひとり出てきた。
 「頼久さん!」
 思わず叫ぶと、頼久は驚いたようにあかね達のほうへ目を向け、はっと目を見開く。
 「……み、神子殿っ!?」
 少々、年を重ねた感はあるが、その表情も声も記憶の中のまま。なつかしさにあかねが声も出せずにいると、門番が戸惑ったように頼久の顔を窺った。
 「頭領、こやつ等をご存知なのですか?」
 「…ばか者っ。この方は大事なお方。無礼な口をきくな」
 「はっ。す、すいませんっ」
 門番が慌てて飛びすさる。頼久はそれを見ると、あかねの方へ視線を戻し、なつかしげに表情を和らげた。
 「再びお会いできるとは思っておりませんでした。お変わりなく過ごしておいででしたでしょうか?」
 「ええ。本当に久し振り…、ううん、そんな場合じゃないんです。えっと、あの、その…!」
 あかねが懐かしさと焦りで混乱に陥る。すると、天真が彼女の肩を引いて下がらせた。
 「頼久、悪い。久し振りだけど、挨拶してる場合じゃねえ。藤姫に会えるか?」
 「無論だ。藤姫さまも喜ぶだろう。しかし、蘭殿に続いて、神子殿もおいでになるとは…。いよいよ、何か起こるというのか」
 「ちょ、ちょっと待った! 今、何て言った? 蘭がどうしたって?」
 頼久が怪訝そうに振り返る。
 「蘭殿に続いて、神子殿もおいでになるとは、と言ったのだが?」
 「ら、蘭はここにいるのか?」
 「ああ。数日前より、こちらに身を寄せておられる」
 「ここに……」
 天真が放心したように肩を落とす。それをどう捉えたのか、頼久は明るく笑ってみせた。
 「安心しろ。蘭殿の警護には、特に力を尽くしている。藤姫さまからも、そのように仰せがあった。何事もなく過ごしておいでだ」
 「そう…か……」
 天真は、すっかり気が抜けてしまった。数日間、ずっと最悪の想像ばかりめぐらせていたのだ。
 「いや…。ま、とにかく良かった」
 ほっと息をついた時、天真の足元に隠れていた遥雅が顔を出した。
 「まま?」
 どうやら、蘭の名に反応したらしい。そこで、頼久は初めて遥雅の存在に気付き、驚いたように天真と遥雅を見比べた。
 「天真…。そなた、父となったのか」
 「いや、俺の子じゃねえよ」
 「それでは…。……?」
 頼久が首を傾げて、遥雅の顔を覗き込む。
 「何やら…、見覚えがあるような気がするのだが…」
 その言葉に、天真ははっとして遥雅の顔を隠した。
 「とっ、とにかく、蘭に会わせてくれ。どこにいるんだ?」
 「今は、鷹通殿と出かけられている。まもなく戻られるだろう。先に、藤姫さまに挨拶するといい」
 「そうだな。よし、行こうぜ」
 衝撃から立ち直った天真が力強く言うと、あかねと詩紋も安心した表情で大きく頷いた。


<続>


 

 

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