暁に咲く花 ――― 7 ―――
翠 はるか
「あ〜、おいしかったね、天真くん」
夜のネオンに彩られた街路を歩きながら、あかねは傍らの天真を見上げた。ご機嫌な表情に、天真もつられて笑顔になる。
「まあ、お前が見つけてきた所の中じゃ上等かな」
「うん。また今度、食べに行こうよ」
「ああ。さて…と、これからどうする? もう少し遊んで行くか?」
「ホント? それじゃ…」
あかねが言いかけた時、天真のポケットの携帯電話が鳴った。
「悪い、あかね。…ん? 家からだ」
早く帰れとか言うんじゃないだろうなと、天真は片眉をしかめつつ、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『天真?』
途端に、母親の取り乱した声が、受話口から飛び出してくる。
「おふくろか。どうしたんだ?」
「ねえ…。蘭はそこにいる?」
「は? いいや。蘭がどうかしたのか?」
『まだ帰ってこないのよ。今日は、遅くても六時には帰れるはずなのに』
「え?」
意外な言葉に、天真の鼓動がどくんと鳴った。
腕時計を見ると、針はまもなく八時を示そうとしている。
「どこか寄ってるんじゃないのか? あいつの携帯に電話してみれば」
『もうかけたわ。でも、出ないのよ。それに、遅くなるなら、ちゃんと連絡するはずよ。あの子は、勝手にどこかに行く子じゃないでしょ?』
それは確かだ。蘭は遥雅のこともあって、滅多に寄り道はしない。する時は、必ず連絡を入れる。そのために、京から帰ってすぐに携帯電話も持たせたのだ。
それに、電話にも出ないなんて…。
天真は携帯を持ち直して、電話の向こうの母に告げた。
「分かった。俺、今から大学に行ってみる。おふくろは家で待っててくれよ。あいつもすぐに帰ってくるかもしれねえし」
『ええ…。それじゃ、頼んだわね』
「ああ。じゃ」
天真が電話を切って、顔を上げる。同時に、あかねが心配げな顔で、天真の顔を覗き込んできた。
「蘭ちゃんが、どうかしたの?」
「…まだ、家に帰ってないらしいんだ」
「ええっ?」
天真は乱暴に携帯をポケットに突っ込み、鞄を肩にかけ直した。
「俺、大学から帰り道を歩いてみる。悪いけど、先に帰ってくれ」
「それじゃ、私も探すの手伝うよ」
「いや、もう遅い。送ってやれなくなるかもしれないから、お前は帰ってろ」
「うん……」
あかねは納得しがたい表情だったが、自分がいては天真が自由に動けないのだと、仕方なく頷く。
「それじゃ、見つかったら連絡してね」
「ああ。じゃあな」
天真は身を翻して、駅のほうへ駆けていった。
残されたあかねは、しばらくその場に立ち尽くし、それからゆっくりと歩き出す。
蘭ちゃん…、まだ帰ってないって…。
あかねの顔が曇る。蘭は、こちらに帰って来て以来、進んで両親や天真に心配をかけるような事はしなかった。だとしたら、家に帰ってこないのは、彼女の意志ではない事になる。
まさか……。
咄嗟にある考えが浮かぶ。きっと、天真の脳裏にも浮かんだはずだ。
まさか…ね。もう、全部終わったんだもの。そんなはずない。
あかねは首を振って、無理矢理にでも笑顔を作った。
うん。まだ、何か起こったとは限らないんだもの。途中で可愛いお店を見つけて、つい時間を忘れちゃったとか、携帯をどこかに落として、ずっと探してるとか。でも、そんな…、私じゃあるまいし。
あかねはため息をつく。
それを否定しようという試みは、失敗したようだった。
「…ただいま」
天真が家に帰り着くと、すぐに母親が居間から飛び出してきた。
「天真、蘭は…」
「……通学路にはいなかった。大学でも、呼び出ししてもらったけど……」
彼女の顔がさっと青ざめる。
「それじゃ…。ああ、お父さんはまだかしら。一時間も前に連絡したのに。警察にも連絡しないと」
「落ち着けよ。帰りが遅いくらいじゃ、取り合ってもくれねえよ」
「でも、こんなに遅いなんて、おかしいわ」
「………」
天真は眉をひそめて俯いた。
母親の心配は分かる。普通なら、一日帰りが遅くなったくらいで、こんなに心配しないだろう。だが、彼女は六年前、理不尽に娘を奪われた経験を持つのだ。
「…とにかく、蘭の知り合いに、片っ端から聞いてみよう」
「心当たりのある人には、もう電話したわよ」
「………」
まさか、という思いがある。
六年前も、こうして蘭は家族の前から消え、そのまま、三年間帰ってこなかった。
でも、あの時は、予兆があった。その時は気付かなかったけれど、姿を消すしばらく前から、蘭は奇妙な気配がすると訴えていた。
今回はそんな事はなかった。だから、そんなはずはない。けれど、そうじゃないとしても、少しも安心なんかできない。
どこかで事故にあったとか、変な男に絡まれているとか、悪い可能性はいくらでもあるのだから。
二人して黙り込んでいると、ぎいっと居間のドアが開いた。
「…おにーちゃん?」
「あ、ああ、遥雅」
天真が慌てて顔を上げ、ドアの影から顔を覗かせた遥雅に目を向ける。遥雅は天真の顔を確かめると、居間から出てきて、彼の周りをくるりと回った。
それから、元気のない顔で天真を見上げる。
「ままは?」
「あ、ああ、いや……」
「ままはっ?」
遥雅が天真のズボンに手をかけ、ぐいぐいと引っ張る。その顔は、機嫌悪そうにしかめられている。
「……あ、遥雅、眠くなったんだな?」
ごまかすように、天真は遥雅を抱き上げようとする。だが、遥雅は癇癪を起こしたように、全身で嫌がった。
「いやっ」
「…遥雅、今日は、おばあちゃんと一緒にねんねしようね?」
遥雅を見て、落ち着きを取り戻したらしい母が、その横にかがむ。だが、遥雅は首を横に振った。
「おばあちゃんと、ねんねしないっ」
まだ幼い遥雅は、蘭と一緒じゃないと眠れないのだ。母親が困ったように眉を寄せる。
「…蘭は、今、買い物に行ってるんだ。すぐに帰ってくるから、いい子にしてような」
天真は無理に笑顔を作りながら、遥雅の頭を撫でた。不安を見せてはいけない。子供には気付かれる。
「先に布団に入ってような。すぐに、蘭も帰ってくるから」
言いながら抱き上げると、今度は嫌がらなかった。
「まま、すぐ帰ってくる?」
「ああ、帰ってくる。すぐに、元気に帰ってくる……」
天真は半分以上、自分に言い聞かせるように呟いた。
結局、その夜、蘭は帰ってこなかった。
居間では、天真と両親が悄然とした顔つきでソファに座っていた。
もう一度、蘭のクラスの友達などにも聞いてみたが、蘭は授業が終わってすぐに帰ったと分かっただけだった。あちこち探してもみたが、手がかりは得られない。
どこに行ったんだ…。
一晩帰ってこないとなると、何かあったのは確実だ。それも、連絡もしてこれないような何かが。
天真が両手をぎゅっと組む。その時、居間の電話が重苦しい雰囲気を破るように、鳴り響いた。
三人ははっと顔を上げ、天真はソファを乗り越えて、受話器を取り上げた。
「もしもしっ!」
『あ、天真先輩?』
「………詩紋か」
受話口から聞こえてきた後輩の声に、天真はがっかりして、その場に座り込む。
だが、詩紋は次いで意外な言葉を口にした。
『朝早くごめんなさい。蘭さんはいる?』
「え…っ? 蘭に何の用だよ」
動揺して問い返すと、詩紋は笑って答えた。
『蘭さん、落し物したでしょ。僕の同級生が拾って、今朝、僕に届けてくれたんだ』
「落し物?」
『うん、バッグごと。どこかで、置き忘れたんでしょ? サイフとか携帯電話とか全部入ってたから、困ってると思って」
「蘭のバッグが?」
受話器を握る手に力がこもる。やっとの手がかりらしいものだ。
『今から、届けに行くよ。先輩の家に寄ってから、学校に行けばちょうどいい時間だし』
「いや、俺が取りに行く。お前、自分の家だよな?」
『うん。でも…』
「バイク飛ばして行くから、五分で着く。じゃあなっ」
天真は、そのまま叩きつけるように受話器を置いた。部屋を飛び出しながら、心配げな顔の両親を振り返る。
「詩紋の友達が、蘭のバッグを拾ったらしいんだ。俺、行って話を聞いてくる」
…頼む。蘭、無事でいろよ。
手早く支度をしながら、天真はそれだけを思った。前の時も祈った。祈って祈って、無駄だと思い知らされただけだったけれど、やはり今回も祈らずにいられなかった。
詩紋の家に着くと、すぐに詩紋が出迎えてくれた。
血相を変えた天真を見て、驚いたように目を見開く。
「先輩…、どうしたの?」
「それより、蘭のバッグってどこだ?」
「うん、これだよ」
詩紋が、玄関先に用意してあったバッグを天真に渡す。中をあけると、大学の教科書や筆記具が入っている。間違いなく蘭のものだった。
「蘭……」
「天真先輩、どうしたの? なんか変だよ」
「…悪い、詩紋。ちょっと話を聞きたいんだ、上がらせてもらっていいか?」
「え? でも……」
詩紋は言いよどむ。もうそろそろ家を出ないと、学校に間に合わない。だが、この天真の様子からして、何か大変な事があったようだ。
「うん、分かった。行こう」
「サンキュ」
詩紋の部屋に入ると、天真はバッグの中身を床に広げた。詩紋が言った通り、財布に携帯電話に学生証も入っている。だが、変わったものはない。
「ねえ、先輩、どうしたの?」
「…蘭が、昨夜から帰ってこないんだ」
「ええっ?」
詩紋が驚きの声を上げる。その間に、天真は携帯電話を取り上げた。着信履歴を見てみるが、昨日のものは、自分の家からと天真の携帯から以外に着信はない。
「先輩、帰ってこないって…」
「…何かあったんだと思う。詩紋、お前の同級って奴は、このバッグをどこで拾ったんだ?」
「ごめんなさい、それは聞いてない。帰り道って言ってたけど…」
「帰り道…。高校の近くなのか?」
「多分…。あ、天真先輩、手帳が……」
詩紋が床の一点を示した。天真がそちらを見ると、茶色の表紙の手帳が、ノート類の間から覗いていた。
天真はそれを拾い上げた。手帳といったら、予定や何かが書いてあるはずだ。勝手に見るのは気が引けるが、何か分かるかもしれない。
ぱらぱらとめくってみたが、特に変わったものは見つからなかった。アドレス欄に載っているのも、天真の知っているものばかりだ。
今度はていねいに、週間ダイアリーを一枚ずつめくってみる。昨日の部分を見てみると、教室の番号やレポートのことが書いてあった。他に、予定のようなものはない。次の日も、その次の日も、大学の用事ばかりが並んでいる。
「うん?」
天真は声を上げた。蘭は、二週間先くらいまで、毎日何かしら几帳面に書き付けていたが、一箇所、不自然に空いている日付があった。
「六月十日だけ、何も書いてないね」
「ああ。四日後だな。別に、休日でもねえのに…」
少し考え込んで、詩紋がかすかに顔を曇らせる。
「…六月十日って、あの決戦の日だよね」
その言葉に、天真の顔も曇る。
「……やっぱり、まだ気にしてんのかな」
楽しげに書かれた予定の中に、ぽっかりと空いた空白。まるで、なかった事にするかのように。
「でも、もう三年たってるし。たまたまかも」
「ああ、やっと三年だ。あいつが向こうで過ごした歳月と同じ…」
「天真先輩……」
二人して黙り込んでしまう。その時、沈黙を破るように、部屋のドアがノックされた。
「あ、はいっ」
「詩紋、いい?」
詩紋の母親の声だった。詩紋がすぐにドアを開けると、相変わらず年齢不祥な母と、その側にもう一人立っている。
「あかねちゃん」
「え?」
意外な名に、天真も部屋の外を覗き込む。確かに、あかねがそこに立っていた。
「ごめんね、急に来て」
「ううん、いいよ。中に入ってよ。ありがと、お母さん」
母親が笑って頷くと、詩紋はあかねを中に入れてドアを閉めた。あかねは床に座っている天真に、力のない笑みを向ける。
「天真くん」
「なんで、お前が来るんだ?」
「今朝、天真くんの家に電話したんだよ。そしたら、おばさんがここにいるって言うから」
「ああ、入れ違いになったんだな。…そっか、あれきり、お前に連絡してなかったな」
蘭が見つかったら連絡すると言った言葉を思い出し、天真がすまなさそうな顔になる。多分、ずっと待っていただろう。
「うん…。蘭ちゃん、まだ帰ってこないんだってね」
「……ああ」
天真が俯くと、あかねは荷物を置いて、その隣に腰を下ろした。
「それで、何か分かったの?」
「…いや。…そうだ、詩紋、これを拾った奴に話聞けるか?」
思い出して、詩紋に目を向けると、あかねが首を傾げる。
「拾った人?」
「うん。見つけたのは、僕の同級生なんだ。その子、天真先輩のこと知ってたから、それが蘭さんのだって気付いて、僕のところに持ってきたんだよ」
「そうなんだ。でも、天真くんのこと知ってるなら、なんで直接届けに行かなかったんだろ」
「…そういや、そうだな」
天真も今更ながら疑問に思って首を傾げると、詩紋は曖昧に笑った。
「…あはは。天真先輩って、ちょっと後輩からは声をかけにくいんだよ」
「なるほど」
あかねが頷くと、天真が面白くもなさそうにそっぽを向く。詩紋は小さく笑って立ち上がった。
「僕、学校に電話して、その子に聞いてみるよ」
その言葉に、天真がはっとしたように詩紋を見る。
「…そっか、お前、学校……」
慌てて時計を見るが、もう遅刻は確定の時間だ。
「いいよ、大変な時だもん。ちょっと待ってて」
詩紋は小走りに部屋を出て行った。その背がドアの向こうに消えた後、天真は深く息をつく。
「何か分かるといいね」
「ああ。…ったく、何だって、蘭がまた……」
ようやく普通の生活が送れるようになったというのに。
じりじりと待っていると、しばらくして、詩紋が難しい顔で戻ってきた。
「詩紋、何か分かったか?」
暗い表情に嫌なものを感じて、性急に尋ねると、詩紋は困ったように彼を見た後、頷いた。
「…うん。あのね、学校の西門のほうに、細い路地があるでしょ? 天真先輩も通ってた、あの近道」
「ああ、あそこな」
「そこに落ちてたって」
「あんな所に?」
天真はその道の様子を、脳裏に描いた。
夜ともなると、薄暗くて人通りも少ない路地に、バッグが丸ごと落ちている。
「そんなん、どう考えても、普通の状態じゃないだろ」
「うん。僕、てっきり、どこかに置き忘れたんだと思ってた…。ごめんなさい」
「いや、お前のせいじゃねえよ。それより、他に何かないか?」
「はっきりした事は何も…。とにかく、実際にそこへ行ってみない? 詳しい場所、教えてもらったから」
「そうだな。何かつかめるかもしれねえ」
天真が立ち上がると、あかねも一緒に立ち上がった。
「それじゃ、今度こそ私も行く。いいよね?」
「……お前ら」
天真は二人の顔を見比べた後、ゆっくりと笑った。
「ありがとな。行こうぜ」
<続>
天真くんの両親、名前決めたほうがいいんだろうか。
母親だの、母だの、ずっと一般名詞で通してるけど(^^;。
ま、いまさらか。
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