暁に咲く花 ――― 6 ―――
翠 はるか
その後、蘭はそのまま土御門の邸に留まる事になった。
ここならば、物理的にも霊的にも守られている。家人たちも、神の不思議といったものには慣れているし、色々と都合が良かった。
とは言え、やたらと人に聞かせるべき話ではないので、人払いをした部屋で、今日も蘭と藤姫、鷹通は話し合っていた。
「鷹通さん、京の様子はどうでしょう?」
蘭が尋ねると、鷹通は小さな笑みを浮かべて、答えを返す。
「特に変わった事はありませんよ。相変わらず、帝の行幸の準備で慌ただしいですが」
「そうですか…」
「何とか原因を突き止めてみますよ。そのように、考え込まれないで下さい」
鷹通は穏やかに微笑み、けれど、すぐにその笑みを消した。
「しかし、どうしたものでしょうね」
鷹通が困ったように呟く。こうして話し合ってみても、なかなか話が進まない。情報が少ないし、一人にできる事は限られている。
とりあえず、残りの八葉にも連絡を取ってみたが、すぐに動ける者は少なく、今のところ自由に動けるのは、鷹通と、土御門に仕える頼久だけだ。
「泰明殿ならば、もう少し、何か分かるかもしれないのですが…。今は、安倍晴明殿の用事で隣国へ赴いているそうですから」
藤姫が頷いて、小さく息をつく。
「泰明殿がいらっしゃれば、心強うございますものね」
「お頼みして、使いの式神を送ってもらいましたので、まもなく帰ると思うのですが。それまで、何もしない訳にはいきませんしね」
鷹通は嘆息しつつ呟き、腕組みをした。
「…やはり、誰が蘭殿を呼んだかが問題ですね」
「そうですわね。けれど、そのような事ができる者など限られております」
「ええ…」
鷹通はしばし考え込んだ後、ぽつりと呟いた。
「…鬼の首領は先の決戦の後、姿を消しました」
「……っ!」
途端に、蘭がびくりと震えた。その反応があまりに大きかったので、藤姫と鷹通は驚いたように彼女を見る。
蘭の表情は変わっていなかったが、顔色がひどく青ざめていた。
「…あ、いえ…、ふと不安になっただけです。あの力の奔流に呑まれて、生きていられる者などいないでしょう」
鷹通が慌てたように、発言を撤回する。
もし、アクラムがまた彼女を利用しようとしているのならば、彼女にとっては、それは現在と過去の二重の蹂躙。
もしかしたら、この地に来た時から、ずっとそれを考え、怖れていただろう。
改めて彼女の事情を思い出し、鷹通は己の不用意な発言を反省した。
だが、蘭は首を横に振った。
「…いいえ、考えておかなければならない可能性だと思います」
先の決戦の後、首謀者であるアクラムと、それにつき従ったシリンの死体は見つからなかった。黒龍の凄まじい力に呑まれて肉体が消滅したのだろうという事で納得していたのだが、そうではないとしたら。
アクラムが死んだと断言できる者は、どこにもいないのだ。
「蘭殿……」
鷹通は彼女の顔を心配げに眺めた後、ためらいがちに口を開いた。
「…蘭殿、京を回られてみませんか?」
「え…?」
ようやく顔を上げた蘭に、鷹通は優しく微笑みかける。
「貴女なら、何か異変を感じられるかもしれません。私がご一緒しますので」
「京…を……」
蘭は俯いた。
京に来て、すぐにこの邸に連れてこられ、まだ一度も外に出ていない。自分が知る京は、記憶の中に残ったおぼろな景色だけ。
「…そうですね。ここにずっといても、何も分からないし。…京を、見てみたい」
「承知しました。では、明日から早速回ってみる事にしましょう」
鷹通が即諾する。すると、今度は、蘭が心配げな顔になった。
「けど、あなたはいいんですか? 行幸の準備とかで忙しいんでしょう?」
「気になさらないでください。私は直接関わっておりませんし」
「そうですか…。それじゃ、お願いします」
「ええ。では、藤姫。そのようにお願いしますよ」
藤姫が心得たように頷いた。
「分かりましたわ。目立たぬ軽装なども用意しておきます」
二人の会話を聞きながら、蘭の胸を不安が満たしていく。
京を見るのは怖い。
けれど、見なくては。私が置いてきたものを。
……ここ、どこ…?
薄闇の中、蘭は目を覚ました。
彼女は地に横たわっていた。はっきりとしない視界には、黒褐色の地に描かれた模様と、ちらちらと揺れる赤い色が映る。
私…、確か、部屋にいて…。そうしたら、声が……。
「龍神の神子よ」
不意に響いた声に、蘭ははっと顔を上げた。
声のした方向を振り返ると、人が幾人か立っていた。暗くてよく見えなかったが、中央にいる男は、夜目にも鮮やかな緋色の着物を着ており、顔には不思議な仮面をつけている。
「誰…?」
「我が名はアクラム。すべてを統べる者。龍の力を宿す娘よ、我にその力を捧げよ」
仮面の男が蘭に近づいてくる。蘭は起き上がって、咄嗟に逃げ出そうとしたが、その前に、男が彼女の前に立った。
「…うん?」
それまで機嫌良く笑っていた男の眉が、不快げに寄せられる。
「これは…、違う……」
「お館様?」
後ろに立っていた者たちの一人が声を発する。若い女の声だった。
「この娘は、私が欲した娘ではない」
「それでは…」
今度は、男の声がした。戸惑う蘭の前で、アクラムと名乗った男が、ちっと舌打ちする。
「似た力は持っているが、龍神とは違う力だ。やはり、龍の宝玉が必要か。…まあ良い、私が首領になる日はまもなく。その折に、改めて星の一族のもとより宝玉を奪い、召喚の儀を行うこととしよう」
男はそう言って、蘭に背を向けた。彼女に対して、もはや何の興味も抱いていないと、その背中が物語っている。
男が元の場所に戻り、更にそこを通り過ぎようとした時、そこに控えていた一人が、彼に声をかけた。
「お館様、あの娘は…」
「いらぬ。だが、余計な事をしゃべられては困るからな。外には出すな」
「は……」
男が頷く。それを合図にしたように、その場にいた者たちは、アクラムに付き従って去っていった。
取り残された蘭は、慌てて彼らに向かって叫ぶ。
「待って! ここはどこなの? あなた達は一体…!」
アクラムは歩調を緩めもしなかったが、その脇の男が蘭を振り返った。
「…お館様、あの娘は私が」
アクラムが、くっと口元をゆがめて笑う。
「好きにしろ」
そのまま彼らは去っていき、その男だけが蘭の元に戻ってきた。状況が分からずに動けない蘭に向かって、手を差し出す。
「娘、こちらへ」
「……っ」
蘭が怯えたように身を引くと、男は手を引っ込めて笑みを浮かべた。
「何もせぬ。お前が暮らせる場所に案内しよう」
男の笑みは優しかった。蘭は少しだけ体の力を抜いて、男を見上げる。
四方に焚かれた松明の明かりで、男の髪が銀色をしているのが分かった。体格も、蘭がそれまで出会った誰より大きい。日本人ではないのだ。
「あなた達は誰なの? あなた達が、私をここへ連れてきたの?」
「ここは我らの里。お前を呼んだのは、お館様だ」
「里…?」
お館様とは、さっきの仮面の男の事だろうか。それでは、里とは? いいや、そんな事は後でいい。
「私、家に帰る」
蘭が言って立ち上がると、男は悲しげにその様子を見つめた。
「すまないが、それはできない」
「どうして…!」
「お前の通ってきた次元の穴は、既に閉じてしまった。それに、この里の存在を知る者を、外に出すわけにはいかない」
「そんな…」
蘭が表情をゆがめる。男は小さく息をついて、彼女の肩に手を置いた。
「私にできる事は多くないが、できるだけの事はしよう。全てが終わった後ならば、自由にしてやれるかもしれぬ。それまで、ここで堪えてくれ」
男の言葉に、嘘はないようだった。だが、そんな事を、蘭が受け入れられるはずもない。
「…いや」
ここがどこだか分からない。でも、ここは怖い。何かがそこら中に満ちている。こんな所にいたくない。
蘭は身を翻して駆け出した。いや、駆け出そうとした。すぐに、それを察した男に両腕を捕まれ、強い力で押さえ込まれる。
「いや、離して。私、家に帰るの!」
「お前の家は、この地にはない。それに、この里には結界が張ってある。逃げられはしない」
男は蘭を引き寄せ、強引にその顔を自分に向けさせた。
「我らの計画が終わったら、必ず帰すと約束する。だから、大人しくしていてくれ。そうすれば、私も力を貸してやれる」
「…うっ…、うう…」
蘭はとうとう泣き出した。
まるで、夢のような出来事。けれど、蘭はこれが現実だと分かっていた。数週間前から、ずっと何かが近づいてくる気配を感じていた。それは今、蘭の周りに満ちている気配と同じもの。それは、日々、蘭にその爪先を触れさせ、とうとう彼女を絡め取ってしまったのだ。
男は辛そうに目を伏せ、そっと蘭の頭を撫でた。
「私の名はイクティダール。お前は?」
「……蘭」
「ラン、か。では、ラン、こちらへ。お前の住む場所を用意しよう」
イクティダールは、顔を伏せて泣き続ける蘭の手を取り、里のほうへと歩いていった。
「…蘭殿、どうかなさいましたか?」
蘭は、はっと目をしばたかせた。顔を上げると、鷹通と藤姫が、心配げに彼女を見つめている。
どうやら、自分は、ずいぶんと黙り込んでしまっていたらしい。
「いいえ、考え事をしていただけです。それより、明日はどの辺りに行きましょうか」
蘭が何事もなかったように微笑むと、二人はほっと息をついた。
「そうですね。一日で回るのは無理ですから、とりあえず洛東から、順に訪ね歩いてみましょう」
「ええ、分かりました」
どうにか会話を終え、蘭はひそかに息をついた。
先ほどまで思い描いていた過去の記憶が、まだ生々しく身体の中に残っている。
アクラムの術が解けた時に、失われていた記憶は蘭の中へ戻ってきた。断続していた記憶はひとつにつながり、蘭に全てを思い出させた。
京へ呼ばれた時のこと。初めて黒龍を呼んだ時のこと。その後、鬼として京を穢していた時のこと、すべてを。
そして、三年後の今、あの気配が、再び蘭を追い立てている。
いいえ…、いいえ、今度はそうはならない。私はもう…。
―――― チリン…。
震える蘭の耳に、鈴の音が響いた。
咄嗟に向けた視線の先には、ただ御簾越しの空が見えるだけ。
けれど、何も見えないだけで、何もない訳ではない。
…ああ。黒龍がそこへ来ている。
<続>
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