暁に咲く花  ――― 5 ―――

             翠 はるか



 「失礼しますよ、姫君方」
 女房の先触れに次いで、懐かしい声が部屋に響いた。
 蘭はどきりとして、声のほうに視線を向ける。だが、几帳に遮られて、身体の輪郭しか分からない。
 その輪郭は、すぐに鷹通の隣に整えられた座に、腰を降ろした。
 「待ちくたびれさせていなければ、いいのですが」
 そう言って、彼は微笑んだ。軽妙な口調も、低いかすかな笑い声も昔と変わっておらず、蘭は咄嗟に身を乗り出す。
 「いいえ、私どもも先ほどこちらへ参ったばかりですし。お勤めご苦労様でございましたわ、友雅殿」
 「何、私の仕事など、半分お祭りの支度のようなもの。こちらの方のほうが、深刻な顔をしているようですよ」
 さらりと切り出された言葉に、その場の三人は困ったように視線を見交わし合う。
 「今、そのお話をしていたのですわ。蘭殿は、やはり黒龍がお呼びになったようですの」
 「なるほど、黒龍がね」
 友雅が頷くと、鷹通が思いついたように口を挟んだ。
 「神泉苑を調べてみてはどうでしょう。また入り口が開いているやもしれません」
 「いや、何もなかったそうだよ」
 「え?」
 思いがけない言葉に、視線が友雅へと集中する。
 「人に調べさせたが、少なくともその時には、何も変わった様子はなかったそうだ。ついでに、陰陽寮のほうにも行ってみたが、特段、京で霊的に変わった事が起こったという事実も報告されていなかった」
 「それを調べていたのですか……」
 鷹通が感心したように呟く。てっきり、蘭を自分に任せたのは、仕事から手が離せないためだと思っていた。
 「しかし、確かに”今頃、何故”という思いがありますね。何か意味がある事のはずですが」
 「さてね。それは、ここで顔をつき合わせていても、答えの出る事ではなかろうよ」
 「そうですね。少し、京の情勢に気を配ってみる事にしましょう」
 鷹通の言葉を聞きながら、蘭も己の身に降りかかった出来事に思いを巡らせた。
 本当に、今頃、何故私が呼ばれたのだろう。戦いの末に、ようやく平安が訪れたこの京に、また何者かの思惑が絡みだしているのだろうか。
 いいえ、それは考えても分からない事。それよりも、何のために。何の意図で、私を呼んだ。
 不意に、藤姫がすっと立ち上がった。
 「それでは、私は、占いをしてみますわ。龍脈に何か起こっているならば分かるはず。鷹通殿、文献などにも当たってみたいと思いますので、お手伝い願えますか」
 「もちろんです、藤姫。京に大事が起こる可能性があるとなれば、放ってはおけません」
 藤姫は感謝を込めて頷き、友雅に視線を向けた。
 「友雅殿、お構いできずに申し訳ありませんが、せめて、ごゆるりとなさっていってくださいませ。女房に、菓子なども用意させますゆえ」
 「こちらこそ、面倒を持ち込んでしまってすまないね」
 「いいえ。龍脈を見守るのは、星の一族の役目。当然の事ですわ」
 藤姫は微笑むと、足早に部屋を後にした。鷹通もその後を追って、去ってしまう。急な成り行きに、蘭が戸惑っていると、友雅がくすくすと笑った。
 「相変わらず、気を回しすぎる姫だ。あまりあからさまだと、こちらも困るというものだが」
 その言葉で、蘭も気付く。藤姫は、彼らを二人きりにしてくれたのだ。蘭と友雅が特別な関係だった事を、少なくともここに暮らしていた人たちは知っている。鷹通が知っているかは分からないが。
 「最初に会った時は驚いたわ。成長した姿なんて、想像した事もなかったから」
 「そう。…私は、考えていたな。今頃はどんな女性になっているのかと」
 「え?」
 几帳に映っていた影が、不意に大きくなる。
 「失礼するよ」
 言葉とともに、几帳の帷子が上げられ、友雅が几帳の内にするりと入ってきた。
 「あ……」
 彼は、先ほどまで藤姫が座っていた場所に、膝を進める。蘭は糸に引かれるように、その動きに従って、上体を彼のほうに向けた。
 久し振りに見る彼の顔は、記憶の中のものとは、少し違っている感じを受ける。
 けれど、彼が変わった訳ではない。自分の記憶のほうが、三年の内に変化していたのだ。蘭の記憶の中で、三年の隙間が埋まる。そう、彼はこんな顔立ちやしぐさをしていた。
 蘭は、かすかに口を開いた。
 言いたい事がたくさんあるはずだった。藤姫たちがいた間も、この几帳がもどかしいとも思っていたのだ。けれど、顔を合わせてみると、ただ懐かしさだけが先に立ち、言葉など出てこない。
 二人は、しばし互いを見合っていたが、不意に友雅が前に傾いていた体勢を直した。
 「何だか、気が抜けてしまうね」
 そう言って、おかしそうに笑う。身構えていた蘭も、力が抜けてしまった。
 「ええ…。もう、会う事はないと思っていたわ」
 「そうだね。それを承知の上での事だったと言うのに。どうした悪戯だか」
 友雅が腕を伸ばし、蘭の髪に指を絡めた。一房を持ち上げ、指の合間から、さらさらとこぼす。彼が、昔よくしていた所作だと、蘭は思い出す。
 蘭の髪は、腰を過ぎるほど長い。現代に帰ってから、毛先を揃える為に、だいぶ切ったのだが、その後の三年で、また、あの頃と同じくらいに伸びていた。
 「…花影に在りし日を想う。三年は、やはり長かったようだ。だが、とても短かったような気もする。君にとっては、どうだったのだろうか」
 蘭は小さく笑った。
 「とても、長かったわ」
 失った三年間と同じくらいに。
 それでも、彼を忘れた事はなかった。時には、甘い感傷のためではなく、苦々しい傷跡として、記憶の中に甦った。もっとも、遥雅がいる限り、忘れられるはずもないのだが。
 ……遥雅。
 蘭は両手をぎゅっと握りしめた。故郷にいる間は、彼女に重なる面影が、蘭の心をたびたび溶かしてくれた。だが、今は友雅の顔立ちに、その面影が重なり、ひどく切なくて、苦しくなる。
 「私…、あなたに言わなければならない事がある」
 「…なんだい?」
 改まった蘭の口調に、友雅が首を傾ける。蘭は口を開きかけたが、切り出す言葉を考えている内に、気持ちのほうが萎えてしまった。
 「…ごめんなさい。今は、言葉が見つからない」
 そのまま、口を閉ざし、友雅からわずかに顔を背けるように面を伏せる。その様子から、友雅は、彼女が一人になりたがっていると感じた。
 「…そう。では、その話はいずれ。私は、藤姫ともう少し話してくるよ」
 「ええ。今日はありがとう」
 蘭は顔を伏せたまま、やはり引き止めようとはしない。友雅は立ち上がり、几帳の影から出て行った。
 「また来るよ」
 それだけ言い残し、部屋を出て行く。その静かな足音が消えた後、蘭はほっと息をついた。
 彼はきっと何か気付いただろう。でも、何も言わない。いつもの事だ。だから、安心していられた。そして、同時に怖かった。
 蘭は疲れたように目を閉じ、その場に身体を伏せた。
 この三年間、彼ほど会いたかった人はいない。けれど、同時に彼ほど会いたくなかった人もいない。今までは、自分の思いなど関係なく、会う事はできなかったから、ある意味、安心していられた。…けれど、会ってしまった。再び、この京で。
 「…どうして、私はここにいるの?」
 答える声はない。けれど、問わずにはいられない。
 「私は……何なの?」
 伏せられた蘭のまつ毛に、うっすらと透明な雫が浮き上がる。
 めぐる白と黒の輪は、二つの世界の運命を、再び巻き込んでゆく。


 部屋を出た友雅は、庭に面した廊下を渡りながら、藤姫の部屋のほうへ向かっていた。
 こんなに早くに顔を出したのでは、色々と詮索されそうだが、まあ仕方ない。
 しかし、その途中、池が見渡せる場所に差しかかった所で、ふと友雅は足を止める。
 庭に視線を向けると、池が、沈みかけた陽光を受けて、赤く染まっていた。
 ―――確か、自分が蘭と初めてまともに会話をしたのは、この庭だった。
 心を遡らせながら、友雅はその日を思い返す。
 そう。日を照り返す池の、その源。赤く染まった遣り水が流れゆく、あの先に彼女がたたずんでいたのだった。

 ……おや?
 藤姫と神子へのご機嫌伺いを済ませた後、庭を散策していた友雅は、池の前でふと足を止めた。
 池の水面に、青桐の花が幾つも泳ぐように浮いている。黄白色の花弁が赤く彩られ、その様子は、美しく装飾した小舟が行き交っているようで、夕暮れ時のせつなさに、柔らかな情感を加える。
 友雅は笑み、その小舟の軌跡を辿った。花びらは、池に流れ込む遣り水のひとつから漕ぎ出していた。
 「いたずらに 過ぐす月日は多けれど 花見て暮らす春ぞ少なき…」
 友雅は歌を口ずさみつつ、遣り水に沿って歩いた。少しして、その足が止まる。
 視線の先に、青桐の木が生えていた。風が吹くと花弁を降らせ、その降り積もる先には、人がたたずんでいる。
 あれは……。
 一人の少女が青桐の側に立ち、扇を広げて、舞い落ちる花弁を受け止めている。その少女を友雅は知っていた。鬼に召喚され、先頃ようやく解放された地の青龍の妹。
 彼女は身動きする事を忘れたように、ただ扇に落ちる花を見つめる。幾枚かそれが溜まると、扇をさばき、風に乗せて、白い花弁を水面に落とした。
 花は舞い、ゆるやかな流れにさらわれて、赤い小舟となる。
 そして、少女は再び、花の舞い落ちる先に扇を広げた。
 友雅は小さく微笑んだ。
 花遊びをしているのだと思った。そして、それは、とても年若い少女に似つかわしい行動に思えた。
 「ご機嫌はいかがかな、蘭殿」
 声をかけると、蘭ははっとしたように振り返った。そこにいる友雅に気付くと、戸惑ったような表情になり、曖昧な笑顔を返す。
 「こんにちは」
 「ずい分、顔色も良くなられたようだ。天真も一安心だろう」
 「ええ…」
 蘭はやはり曖昧に頷き、友雅のほうを気にしつつも、再び青桐の花に目を向けた。
 けれど、先ほどの微笑ましい仕草とは違って、雰囲気が固くなってしまった。声をかけるべきではなかったかという思いが、ちらりと友雅の頭をかすめる。
 このまま去ろうかと思っていると、蘭が不意に口を開いた。
 「あなたは、花が好き?」
 「花? …そうだね、咲き乱れる万花の中から、心惹かれるものに出会うのは、数少ない楽しみのひとつだ」
 「…そう」
 蘭は振り返らずに答える。視線は相変わらず青桐に縫い止められたままだ。その一途な瞳に、友雅は小さく笑う。
 「君は、この青桐にそれを見つけたのかな?」
 「嫌い」
 「え?」
 反射的に問い返すと、彼女は、ゆっくりと噛みしめるように、言葉を繰り返した。
 「私は花が嫌い」
 戸惑う友雅の前で、蘭は扇を振って、辺りを散る花を払う。
 「だから、花が散って嬉しいの」
 散った花が、扇に生み出された風に乗り、巻くように辺りを舞う。蘭はそのまま腕を下ろし、花びらが水面に落ちていく様をじっと見つめた。
 友雅は、そんな彼女の様子を静かに見つめる。
 嫌い? そんな愛しげな顔で、今も花びらを見つめているくせに。
 二人の間に、無言の時間が流れる。ややして、蘭が友雅を振り返り、その時間に終わりを告げた。
 「…ごめんなさい、つまらない事を言ったわ。忘れてくれると嬉しい」
 彼女はそう言って微笑んだ。けれど、その視線は友雅を通り越して、遠いどこかを見つめているようだった。
 …何を馬鹿な事を考えたのだろう。花遊びをしている、などと。
 現を遊離したような彼女の微笑みを見ながら、友雅は彼女に対する興味が湧き上がるのを感じた。
 彼女は、三年という月日を捕らわれて生きてきた。稚い少女のままでなど、いられるはずがないではないか。
 友雅は目を細め、かすかな笑みを口元に上らせた。
 「今日は、これで失礼するよ。…また、伺わせてもらうから」


 回想から意識を引き戻し、友雅は黄昏から薄闇へと変わりつつある空を見つめた。斜陽のまぶしさに、思わず目を細める。
 あの日から、少しも変わらない空。
 あの時から、彼女は、心に大きな熱いものを隠している者だと思った。
 友雅は目線を下ろし、廊下の先へと体勢を戻す。
 …今は、あの身に、何を隠しているのだろうね。


<続>


 

 

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