暁に咲く花 ――― 4 ―――
翠 はるか
「……う、ん…」
それまで身じろぎもせずに眠り続けていた蘭の口唇から、かすかな声が漏れる。
すぐに、その瞳がゆっくりと開かれ、潤んだ視界に周囲の景色が飛び込む。
「ん……」
頭がすっきりしないまま、蘭は身を起こす。頭がぼんやりして、まだ夢の世界にいるようだった。だが、何気なく辺りを見回し、いつもと違う景色にはっとする。
…ここ、は…?
すっと、蘭の身体が冷える。
大学からの帰り。自分を呼んだ声。この見覚えのある部屋のつくり。
「あ……」
蘭は起き上がり、寝かせられていた褥から飛び出した。
周りに立てられていた几帳を押しのけると、視界に広がったのは、決して自分の家ではありえない部屋。ずい分前に、一時期だけ過ごした事がある、これは京の貴族の邸宅。
「私……」
これは夢なのだろうか。いや、夢であって欲しい。願いながら、蘭はふらふらと廊下に出る。
見事に整えられた庭。頭上を覆うのは深い青。それ以外は、何も見えない。ここが日本ならば見えるはずだ、高いビルや電柱といったものが。
ここは…京。
蘭はめまいを感じた。思わず柱にすがりついた時、衣ずれの音が背後から聞こえてきた。
「まあ、お気付きになられたのですね」
はっと振り返ると、青鈍色の袿をまとった女が、柔らかな笑顔を浮かべて蘭を見ている。
「あなたは…」
尋ねながらも、蘭はその答えを知っている。ここは誰かの邸で、彼女はここに勤める女房なのだ。
「私は大江と申します。姫様より、あなた様のお世話を申し付かりました」
「姫様…?」
蘭は戸惑うが、女は気付かずに、側の部屋へ呼びかけた。
「誰か、誰か来てちょうだい」
すぐに、その声に応えて、若い女房がやって来る。
「何でしょう、大江さま」
「藤姫様に、お客人が目を覚まされたとお知らせして。私は、この方のお召し替えを手伝うから」
「はい、分かりました」
若い女房は頷いて、すぐに去っていった。そのやり取りを、蘭は驚きに目をみはりつつ見守る。
「さ、どうぞお部屋に。申し訳ありませぬが、御名はなんと?」
「え? あ、あの…森村蘭です」
「蘭様ですか。それでは、姫様がいらっしゃる前に、お召し替えを済ませましょう。こちらへどうぞ」
大江は、そう言って、蘭を部屋へ導こうとする。だが、蘭は思いがけず耳にした名に、それどころではなかった。
「ま、待ってください。藤姫って言いましたよね。それは…星の姫の事?」
藤姫という名を持つ人を、他には知らない。白龍とその神子に仕える星の一族の姫。鬼との決戦が終わった後、一時期、世話になったこともある。
大江は、はんなりと笑って答えた。
「さようでございますよ。お分かりでなかったのですね。こちらは土御門邸の藤姫様の離れ。私は藤姫様に仕える女房でございます」
「土御門の……」
ここは、星の姫の邸。
無意識の内に強張っていた蘭の身体から、力が抜ける。京でも、彼女の邸ならば、とりあえず安心できた。
「さ、どうぞお部屋に」
「はい……」
導かれるまま、蘭は自分が寝ていた部屋に戻る。
とりあえず、自分の居場所は分かった。けれど、すぐに新たな不安が湧き起こる。何故、自分がまたこの地に在るのか。黒龍が自分を呼んだ。それは覚えている。けれど、何のために呼んだのか。
それに…。
蘭は目を伏せる。
ああ、また何も告げられずに、こちらへ来てしまった。あちらでは、私は行方知れずになっているのだろう。遥雅は? 遥雅はどうしている? お母さんもお兄ちゃんも、きっと心配している…。
「…あらあら、ずい分と慌てられたようでございますね」
思考に沈んでいた蘭は、大江の声にはっと我に返る。何かと思って、彼女のほうを見てみると、彼女は曲がった几帳を直していた。
「あ……」
改めて見ると、蘭が慌てて飛び出したせいで、部屋の中は乱れていた。仕切りに立てられていた屏風は倒れ、几帳は曲がり、上に掛けられていたらしい衣が、床に放り出されている。
「すみません……」
「宜しいんですよ、後で直しておきますから。先にお召し替えを…、こちらの衣はお召しになりますわね?」
大江が床に散った袿を拾い上げ、蘭を振り返る。蘭は曖昧に笑顔を作って頷いた。
「私はどちらでも…、貸して頂けるなら」
「あら。この衣は蘭様の物でしょう」
「え?」
蘭の驚いた表情を見て、大江も首を傾げる。
「違うのですか? こちらにおいでになった時、蘭様がお召しになっていたものですよ」
「私が?」
蘭はその袿に視線をやった。すると、大江が渡してくれたので、手に取ってみるが、やはり見覚えがない。
けれど、受け取った瞬間、何かの香りがふわりと漂った。
この香…、覚えがある。何だったろう。
蘭は思考に耽りかけたが、大江が自分を見ているのに気付いて、はっと顔を上げる。
「あ…、ごめんなさい。それじゃ、この袿で…」
「承知いたしました。少々、お待ちくださいませ」
大江は部屋の隅から、用意してあったらしい着物を一式出してきた。着物の着付けは、さすがに自分ではできないので、大人しく着せてもらう。すると、ちょうど最後の衣を着せてもらったところで、部屋の入り口に誰かがやって来た。
「大江さま。藤姫様がお渡りになられます」
どうやら、先ほどの女房らしい。
「ええ。こちらの方の準備も済んでいます」
「それと、大丞様もおいでになります」
「あら、あちらの方も? それでは、急いで座を整えなくては。鈴鹿、手伝ってちょうだい」
「はい」
すぐに女房が中に入ってきて、二人で、畳や几帳を移動させ始める。
蘭には手出ししようがないので、黙ってその様子を見ていると、すぐに、座が三つ作られた。上座に二つ、下座に一つ。その間を几帳や屏風で仕切っている。
「さ、蘭様、こちらへどうぞ。まもなく姫様も参られますから」
「は、はい」
蘭は促されるまま、上座のひとつに腰を降ろす。大江たちは、なおも慌ただしく動き、蘭の心も落ち着かなくさせる。だが、とにかく、星の姫が来ると言うのだ。彼女に話を聞けば、何か分かるはず。
不安を抱えつつ待っていると、さらさらと衣ずれの音が聞こえた。途端に、大江や鈴鹿が床に手をつき、藤姫が来たのだと分かる。
「―――失礼いたしますわ、蘭殿」
記憶の中のものより、やや低めの声だった。幼い可愛らしさが消え、代わりに透明感のある響きを帯びている。
彼女は軽やかな動作で几帳の内に入って来ると、蘭の隣に腰を降ろした。
「…本当に、蘭殿ですのね」
藤姫が情感のこもった眼差しで蘭を見る。対して、蘭は驚きの眼差しで彼女を見ていた。
最後に見た彼女は十歳だった。あれから、現代では三年の月日が流れたが、それは京でも同様らしい。幼いばかりだった少女が、顔立ちは美しく、シャープな輪郭になり、身体つきも女のものへと成長しつつある。
「藤姫…?」
「ええ、そうですわ。まこと久し振りでございますものね。記憶もおぼろになっておりましょうが」
「いいえ。そうではなくて、とても大きくなっていたから…」
藤姫がころころと笑う。表情が幼くなり、それが記憶の中の彼女と重なって、蘭をほっとさせた。
「私も十三になりますゆえ。とは言え、まだまだ至らぬ身。大人とは、到底申せませぬが」
「いえ。ごめんなさい、おかしな事を言って。ただ、どうしてだか予想していなかったものだから。時が経てば、成長するのが当然なのにね」
「ええ、蘭殿も少し面差しが変わりましたわ。お元気そうで、嬉しく思います」
「え、ええ……」
蘭の表情が、不意に沈んだ。
「…私、どうしてここにいるのかしら」
切り出すと、藤姫の顔からも笑顔が消える。
「私も驚きました。まさか、またお会いする事があろうとは思っておりませなんだ。蘭殿は、お一人でこちらへいらしたのですか?」
「ええ……」
呟くように答えた時、部屋の外から、足音が響いた。藤姫がはっとして、そちらへ目を向ける。
「ああ、蘭殿。鷹通殿がいらっしゃいました。蘭殿をこちらへお連れしたのは、鷹通殿なのですよ」
「えっ?」
意外な言葉に、蘭も顔を上げ、部屋の外に目を向ける。すぐに人影が中に入ってきて、最後の座に腰を降ろした。
「お久し振りです、蘭殿」
実直そうな声に覚えがある。蘭は記憶をたどり、その人の顔を思い出した。
「久し振り…です、鷹通、さん」
「お加減はいかがですか? ずい分と眠っておられましたが」
「ええ、大丈夫です。あの…、あなたが私をここへ連れてきたと聞いたんですけど」
気が急いて、性急に切り出すと、彼がゆっくりと頷く気配がした。
「はい。友雅殿に頼まれまして。あなたを見た時は、驚きましたよ」
「えっ…」
蘭の鼓動が高鳴る。もう聞く事はないと思っていた、彼の名も。
「どうして…」
「ああ、すみません、きちんと順序だててお話ししましょう。ですが、まず貴女がなぜこちらへ来る事になったか、伺ってもよろしいですか?」
「は、い…」
蘭はあの時の状況を思い出しながら、ゆっくりと言葉を押し出した。
「三年前に、この地を去った後、私たちは元の生活に戻りました。本当に変わった事もなく…。けど…」
「けど?」
「私は家に帰るところでした。その時、急に…呼ばれて…」
蘭が口ごもる。鷹通と藤姫はその続きを待ったが、彼女はなかなか口を開かなかった。
「蘭殿?」
「……黒龍に、呼ばれて…」
促されて、蘭がようやく言葉を紡ぐ。その名を口にするのも辛かった。それは、三年の長きに渡り、蘭を支配していた黒い獣。
「黒龍? それは……」
藤姫と鷹通の顔に驚きが走る。
「そのまま、黒龍の力に吸い込まれて…。そして、目を覚ましたらこの部屋に」
「そうだったのですか…」
二人にとっても、その名は衝撃だったのだろう。二人ともに俯いて、考え込んでしまう。
「…あの、それで、私はどうして……」
「え? ああ、失礼しました。私も話を伺っただけですが、あなたは、突然、衛門府に現れたそうです。ちょうど、そこへ友雅殿が居合わせて、私にあなたをここへお連れするよう頼んだのです」
「………それで、彼は?」
「友雅殿は内裏に残っておいでです。後でこちらへ来ると言っていましたが」
「そう……」
落胆と安堵を覚えつつ、蘭はもう一度、黒龍に呼ばれた時の事を思い出した。
…そう。あの時、意識を失う前に、私は彼の名を呼んだ。
自分の思惑など関係なく引きずり込もうとする強い力に、怖れ、咄嗟にすがりついた。
だから、なのだろうか。私が現れた所に彼が居合わせたのではなく、私が彼のいる所に現れた。
そこまで思考し、蘭は身にまとう袿に思い当たる。
…ああ、そうか。覚えがあるはずだ。彼の香りだったのだもの。
蘭が、そっと袿の襟をかき合わせる。
その時、ぎしりと部屋の入り口がきしんだ。
「ご歓談中、失礼いたします、藤姫様」
女房らしい女の声が響き、それぞれ思考に耽っていた三人は、はっと顔を上げた。
「ええ、構いませんわ。どうしたの?」
「―――橘少将様がいらっしゃいました」
<続>
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