暁に咲く花  ――― 3 ―――

             翠 はるか



 ひらりと白く小さな花びらが、風に乗って舞い落ちる。
 春に消えた白雪を偲ばせる風情に、衛門府の外廊を歩いていた友雅は、惹かれるように足を止めた。
 …もう、夏か。
 そのまま、庭の風景に見入る。ひらひらと舞う花びらは、新たな季節を祝福して、天地の神に舞を奉納しているようだ。
 見つめる友雅の肩に、風に乗ったひとひらが舞い落ちる。その花弁に視線を落としながら、彼はふと微笑んだ。
 振る花びらは、いつもある面影を思い起こさせる。
 儚げで美しく、けれど吹雪けば、道を惑わせるほどに強い。そして、時折、はっとするような光をひらめかせる。
 降りしきる花びらのような女性(ひと)。
 花弁が地に落ちるまでのような、ほんの一時の間、腕を取り合い、共に過ごした。
 あれから三年。今頃、彼女はどんな女性になっているだろうか。
 「―――少将殿」
 不意に声をかけられ、振り返ると、部下の将監(しょうげん)が慌てたような顔で、こちらへ歩み寄ってきていた。
 「こちらにいらしたのですか。すみませんが、指示をあおぎたい事があるのですが」
 「ああ、すまないね。すぐに舎に戻るよ」
 「お願いします」
 男は言い、何気なく、友雅が見ていた方向へ視線をやった。
 「…花を愛でておられたのですか?」
 男の言葉には、やや呆れた響きがあった。友雅は小さく笑って、近衛府のほうへ歩き出す。
 「花が散るのを惜しいと人は言うが、私は散り出す頃の花こそ、いっそう愛しいと思うのだよ。特に木の花はね。身に降りそそぐ花びらが、何かを語りかけているようだから」
 「そうですね…。確かに、散るからこそ花は美しいとの言葉もあります」
 「ああ、そうだね。では、行こう」
 面影を振り切り、友雅は仕事へ戻っていった。


 あの鬼の乱の後、龍神の神子のことは、その性質上、公にはされなかった。全ては伝承の中へ。しかし、京の瘴気を祓った龍神の存在は皆の記憶に刻み付けられている。神子の話は、どこからか漏れ、京中の噂になっていった。
 そして、神子を守る八葉であった者たちの存在も明らかにされた。
 その秋の徐目で、宮仕えの八葉はそれぞれ位階をひとつ上げた。友雅も、役職は近衛少将のままだが、位階を正五位上に進めた。その処遇に、蚊帳の外にされていた貴族たちには反感を顕わにするものもあったが、帝の内々の意には逆らえず、また、さほどの特権が与えられた訳ではなかったので、表立っては何も起こらなかった。
 それで、龍神降臨に関する直接の公的処分は終わりとされる。しかし、あの鮮烈な出来事は、誰の心にも影響を残さずにいられなかった。
 友雅もどこか変わった。醒めた表情が薄らぎ、仕事や人に対して突き放した感じが消えた。帝の信頼はますます厚く、次の秋には従四位下、近衛中将に昇進するだろうと言われている。
 その近衛府は、今、とりわけ忙しかった。近く、上賀茂神社へ帝が行幸する事になっており、その警護の準備に追われているのだ。特に、実務責任者の近衛少将は、連日、他府との打ち合わせ等で、大内裏中を走り回る羽目になっていた。
 とは言え、帝の行幸と言えば、ある種のお祭りだ。また、久しく行なわれていなかった行幸が再開されたのは、いわば鬼の乱の後始末がほぼ終わったという事も示している。内裏にも市井にも期待感が漂っており、そう言う意味では気楽な仕事だった。


 友雅は一仕事終えた後、再び白花の木の前を通った。辺りには誰もいない。
 ここらの棟は、書庫や宿直の者が仮眠するための部屋に当てられており、普段から人があまり通らない。だから、遠回りでも、友雅はよくこの廊下を利用する。特に、最近は部下や同僚と顔をつき合わせてばかりなので、息をつける場所がありがたかった。
 友雅は、白花の木に目を向けた。風がやんだためか、舞い散る花びらは見られない。
 多少、残念に思いつつも、特に感慨を抱くこともなく、その場を去ろうとした。だが。
 ――――……。
 不意に、誰かに呼ばれた気がして、友雅は足を止めた。
 辺りを見回すが、誰もいない。もちろんそうだ。人がいない事など、最初から承知している。
 ――――さ…ん…。
 「え…?」
 今度は、確かに聞こえた。誰かが自分を呼ぶ声。かすかなもので、ほとんど聞き取れなかったけれど、それが自分を呼んでいるという事だけは、なぜか分かった。
 不審に思いつつ、友雅はその声の主を探して、視線をめぐらせる。声は、確か庭のほうから聞こえたように思う。
 「………っ?」
 友雅は、はっと目を見開いた。先ほどまで、葉ずれの様子もなかった木から、花びらが散り落ちている。それだけでなく、地に降り積もっていた花びらも舞い上がり、くるくると小さな竜巻を作った。
 これは……。
 白昼夢を見ているのかと思う。けれど、みずみずしい花びらは、確かな存在感があって、夢や幻とは思えない。
 見つめる友雅の前で、花びらは舞い続けた。次第にそれらは大きくなり、人の身丈ほどの形を作る。
 そして、夢が醒めたように、いっせいにその身を地に落とす。その時、そこには人が立っていた。
 ……馬鹿な。
 友雅はやはり夢を見ているのだと思った。いつの間にやら、夢路に迷い込んだのだと。
 そんな彼の前で、彼女がよろめき、地に倒れ伏す。夢ではない証に、どさりと重い音がした。
 …夢ではない? 夢でないのなら……。
 友雅は庭に降り、少女の元へ駆け寄った。肩に手をかけ、抱き起こすと、確かな体温と重みをもって、友雅の腕にもたれかかる。
 「……蘭」
 記憶の中の彼女とは、幾分面差しが変わっているが、間違いない。
 だが、何故、自分の国へ戻ったはずの彼女がここに?
 「…………」
 友雅は、意識を失ったままの蘭をしばし見つめた後、彼女を抱き上げて廊下に戻った。仮眠用の一室に入り、褥に彼女を降ろす。
 その間、彼女はぴくりとも動かなかった。よほど、深く昏倒しているらしい。
 状況は良く分からないが、とりあえず、友雅は自分の袿を脱いで、彼女にかけてやった。改めて見ると、彼女は見慣れない装束を身につけている。恐らく、彼女の国の衣裳なのだろう。だとしたら、自国へ戻っていなかったという訳でもなさそうだ。いや、先ほどの現れ方からして、尋常の事でないのは、明らかではないか。
 懐かしい恋人の顔を見ながら、友雅の胸中は複雑だった。彼女が再び召喚されたのだとしたら、それは、きっと良くない事だから。
 しかし、それを考えるのも、感慨にふけるのも後の話だ。とにかく、彼女をここへ置いておく訳にはいかない。
 友雅は立ち上がり、辺りの几帳を動かして、外から彼女の姿が見えないようにすると、部屋を出て行く。出て行く時に、もう一度様子を窺うが、几帳の向こうは静かなものだった。
 部屋を出ると、友雅は足早に隣の棟に向かい、そこで手近にいた官人をつかまえる。
 「すまない、君」
 声をかけると、あまり位の高くないその男は、驚いたように姿勢を正した。
 「少将様。何かご用でしょうか」
 「ああ。すまないが、冶部省へ行って、冶部大丞の藤原鷹通を呼んできてくれ」


<続>


 

 

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