暁に咲く花 ――― 2 ―――
翠 はるか
「それじゃ、行ってきます」
「あ、今日は、俺、夕飯いらねーから」
朝の支度を終えた天真と蘭は、ばたばたと玄関へ向かった。それを、彼らの母親は微笑ましげに見送る。
「はいはい。ほら、遥雅が気付かない内に、早く行きなさい」
二人は頷き、今更ではあるが足音をひそめた。
蘭が学校に行っている間は、母親が遥雅の面倒を見てくれる。遥雅も、最初は蘭について行きたがって大泣きしていたが、今では出かけるところを見せなければ、大人しく遊んでくれるようになった。
「…行ってきます、遥雅」
玄関から出る時に、蘭が家の中に向かって呟き、天真はそれを見て優しく微笑んだ。
「…お兄ちゃん、今日はサークルの集まりか何かあるの?」
駅に向かう道の途中、蘭が出掛けの天真の言葉を思い出し、そう問うと、天真はああと呟いた。
「いや、あかねと約束してるんだ。何て言ったか忘れたけど、東京のほうで有名な、イタリアンカフェのチェーン店ができたから行きたいってよ」
「ああ。あかねちゃん、そういうお店好きだもんね」
「あいつ、ミーハーだからな。どうせ、雑誌か何かにのってたんだろ」
天真が肩をすくめる。ついで、ふと思いついたように蘭を見た。
「お前もイタリアン好きだよな。良さそうなとこだったら、今度行ってみるか」
蘭はくすりと笑った。手軽に、誘う場所を流用しようとする兄に、からかうような視線を向ける。
「お兄ちゃん、デートの場所くらい、自分で考えてよ。そんなだと、その内、あかねちゃんに愛想つかされちゃうから」
とたんに、天真が渋い顔になる。それを見て、蘭はくすくすと笑っていたが、ふと通りがかった家の塀に気付いて、足を止める。
「あ、紫陽花の色が変わってる」
その言葉に、天真もそちらを向いた。塀から顔を出すように、紫陽花が幾つも咲いていて、それらはうっすらと紫に染まっていた。
「ここの紫陽花、紫だったんだ」
そう呟きつつ、蘭は花の側に寄っていった。少し前に、この通学路の紫陽花に気付き、何色に変わるか、楽しみにしていたのだ。
紫陽花は姿をめでるだけでなく、そういう楽しみもあっていいと思う。
「おい、電車に遅れるぞ」
「いいじゃない。一本くらい遅らせたって」
そう言って、動こうとしない妹に天真は苦笑し、踏み出しかけていた足を戻した。
「好きだよなあ、お前」
彼女は、花や自然を観賞するのが―――もっと広く言えば、芸術が好きだった。小さい頃は楽器なんかを習っていたし、昨日のゼミもそうだ。王朝文学と聞いた時は、これもかの地の影響かと複雑だったが、悪い影響ではないのだからいいのだろう。
「ええ。これから雨が降ったら、どんどん色鮮やかに変わっていくでしょうね。…ふふ、遥雅みたい」
「ん?」
「子供って、どんどん成長して変わっていくんだもの。いつも戸惑ってしまうわ。こっちは、そんなに急には変われないのに」
「あー、そうだよな。最近は、チョコくらいじゃ言うこと聞いてくれねえし」
天真が実感を込めて頷く。元気で、うるさくて、しつこくて。時々、放り出したくなるのに、やっぱり可愛いのは、子供の魔力という奴だろうか。
「本当に。これからも、きっと変わっていくわ」
蘭は愛しげに、紫陽花の花に手を添えた。
「子供を育てるのって、本当に大変。頭で考えてたのとは大違いだわ。甘く考えすぎてたなって、いつも反省するの。やっぱり、あの頃の私は子供過ぎたのよね」
「蘭……」
天真が、背を向けた彼女を切なげに見る。彼の脳裏にも、当時の事が甦ってきた。幼かった彼女は、子を産む事すら簡単ではなかった。
「でも、やっぱり頑張って良かったって思ってるの。遥雅がいてくれて良かった。…頑張らせてくれてありがとう、お兄ちゃん」
蘭が振り返って微笑んだ。穏やかで幸せそうな笑みに、天真の心もじんわりと和む。
蘭は、きっと、まだ色々と抱えている。でも、こんな風に笑ってくれるようになった事が、何より嬉しい。
何か言葉をかけたかったけれど、いい言葉がさっぱり浮かんで来なくて、天真は代わりに蘭の隣に立ち、その頭を抱き寄せて撫でた。
「お兄ちゃん…」
蘭は、もう一度微笑んで、しゃんと姿勢を正した。
「それじゃ、もう行こうか」
「ああ」
二人は歩き出す。何かを吹っ切った、自信を感じさせる足取りだった。
―――けれど。いいや、だからこそ、その影は蘭に迫っていた。
……遅くなっちゃったな。
夕闇の気配が感じられるようになる頃、蘭は小走りに帰り道をたどっていた。
締切りが近いレポートについて質問していたら、遅くなってしまった。少しくらい遅くなっても、別に構わないのだが、今日は早く遥雅に会いたかった。
…機嫌よくしているかしら。大丈夫と思うけど、一度泣き出すと手がつけられないから。
口元に自然と笑みが浮かぶ。この頃は、遥雅も性格が出てきて、ずい分と言葉を話すようになった。時々は、どこで覚えてきたのかというような言葉も口にする。
なかなか、しっかりしているが、やはり子供で、目が離せない。
無意識に、歩調が速まる。その時、不意に、少し先の横道が蘭の目に飛び込んできた。いつもの通りで、いつも見ている道なのだが、その時は、まさしく飛び込むように、蘭の視界に入ってきた。
…近道しようかな。
この道を行くと、兄たちが通っていた高校の近くに出る。生徒も大抵使っている道だ。そこまで行く前に道を曲がれば、蘭の家がある通りに出る。
横道なだけあって、外灯も少なく、夜はほとんど暗闇になる。また、あまり兄の高校の生徒と顔を合わせたくなかったので、ほとんど通らない。けれど、ここを通れば五分は違う。
…まだ、そんなに遅くないし、大丈夫よね。
蘭はその道に足を踏み出した。何者かの糸に引かれるように。
それでも、やはり心配で足早に歩く。すると、道に入り込んでいくにつれ、蘭は、その景色に違和感を感じた。
何かと思ったが、すぐにその理由に気付く。
この通り…、どうして、こんなにシンとしてるのかしら……。
蘭は、慌てて周囲を見回した。
高校の下校時刻と重なっているはずなのに、辺りは、人っ子一人見当たらず、生きてる者が誰もいないかのように、不気味に静まり返っている。
何…? どうしたの?
蘭の胸に不安がよぎる。何かがおかしい。この道を通るのは初めてではない。それなのに、まるで、急に見知らぬ土地に迷い込んでしまったようだ。それは次第に恐怖となって、蘭の足元を這いのぼる。
…何かが起こる。
蘭は不意に確信した。これから、何かが起こる。何かが自分の身に起こる。
「何…?」
声に、泣きそうな響きが交じる。何か分からないけれど、無性に怖かった。
――― チリン…。
蘭ははっとした。何かが聞こえた。かすかなものなのに、頭の奥に響くような音。
――― チリン…。
今度は、もっとはっきり聞こえた。それと同時に、蘭の背筋が冷える。聞き覚えのある、この鈴の音は…。
硬直する蘭の脳裏に、声が響いた。
―――神子よ…。
透明感のある不思議な声に、ふと思い出す。この違和感。恐怖。声。鈴の音。
六年前と同じ。
……いや…。
蘭は咄嗟に駆け出した。呼び起こされた記憶が蘭を混乱に陥れ、既にまともな思考ができない。それでも、感覚が己が身に起こっている事を感じ取り、逃れようと身体が動く。
走るほどに、高校のほうへ―――古井戸のほうへ向かっている己に、蘭は気付いていなかった。
聞き覚えがある。あれは黒龍の声。私の身に潜んでいた、あの恐ろしい獣の声。
どうして、黒龍が? いや、助けて…。私はもう嫌…!
蘭が曲がる予定の角を通り過ぎ、そのまま走っていく。校舎が見える辺りまで走った時、その足をとどめるように、風が吹き荒れた。
「ああ…っ」
目を開ける事もできずに、蘭はその場に縫いとめられる。そして、やっと風がおさまり、恐る恐る目を開けた時、蘭の前には空間のひずみが出来ていた。
暗くて、全てを飲みこむ渦。
深淵が、口を開けて待っている。
「い…や……」
―――神子よ。今ひとたび我が元へ……。
「いやあっ!」
行きたくない。私、行きたくないっ。
蘭は荷物を放り出し、ひずみに背を向けて駆け出した。だが、呼び声は彼女を逃さず、ひずみは彼女を追って、その身を吸い込んだ。
「いや…っ」
蘭の身体が浮き上がり、時空のひずみに放り出される。一瞬、辺りが真っ暗になったかと思うと、様々な景色がフラッシュに焚かれたように、次々と映し出された。
最初に視界に捉えたのは、高校の校舎。そして、原っぱの中の古井戸。美しい池。大きな木造の建物。寺社。緑の丘。
この景色…、京の…!
確信に変わった事実に、蘭は抗った。だが、頼りもない身体は、強い力になす術もなく引きずられていく。
逃れられないと知った蘭は、恐怖に流されそうな心の中で、ひとつの面影を強く思った。
―――…ま、さ…さん……。
<続>
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