暁に咲く花  ――― 1 ―――

             翠 はるか



 「月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身ひとつはもとの身にして
                                    在原 業平」
 蘭が歌を読み終え、顔を上げると、教授は頷き、別の人に視線を向けた。
 「訳を、吉井くん」
 「はい」
 名を呼ばれた女生徒が、手元のノートを持ち上げる。
 「この月は昔の月と違うのか。この春は昔の春のままではないのか。いや、月も春も昔のままである。そして、私自身も昔のまま変わっていないのに、ただ貴女だけがここにいない」
 ――――ただ、あなただけが…。
 蘭はノートに書き込みをしていた手を止め、その和歌をじっと見つめた。
 月やあらぬ 春や昔の春ならぬ…。
 一人、思い出の地で、昔を偲ぶ歌。
 でも、本当にそうだろうか。時は常に移ろい、一時もとどまる事はない。季節は繰り返すけれど、同じ日は二度とやって来ない。
 月も春もきっと変わってしまっている。変わっていないのは、この”我が身”だけなのではないだろうか。
 蘭は、昔の文人の詩にとりとめもなく思いを巡らせ、手遊びにシャープペンでノートに螺旋を描いた。
 ――――我が身ひとつはもとの身にして。


 ゼミが終わると、蘭はいつものように手早く教科書類を鞄にしまい、立ち上がった。
 この王朝文学ゼミは六時限目、夜の七時半に終わる。他の曜日は全て四限に終わるように授業を取っているが、この日だけは特別。けれど、急いで帰らなければならない。
 「…森村さん、今日もすぐに帰っちゃうの?」
 鞄を肩にかけていると、隣に座っていた同じ一年の男子が声をかけてくる。
 「ええ。ちょうど電車が来る時間だし」
 「たまには、皆と夕飯食べていかない?」
 蘭は微笑みを浮かべて、彼を見た。
 「ありがとう。でも、用事があるから」
 そして、そのまま教室を出て行った。
 「…お前もフラレたか」
 扉が閉められた途端、幾人かがからかい気味の目線を、彼のほうに送った。
 標的にされた男子は、小さく肩をすくめる。
 「フラレたとかいう段じゃないだろ」
 「そうだな。でも、やっぱ、森村さんて、ちょっと雰囲気違うよな」
 いつも静かで浮かれた様子はなく、けれど地味な訳ではない。身にまとう独特の雰囲気のため、静かにしているのが、かえって人目を引く。
 「美人だしな」
 話は尽きない。色々な意味で、蘭は噂になりやすい存在だった。



 蘭は、この春から府内の大学へ通っている。
 京と呼ばれる地から戻ってきて三年。かの地で、閉ざされた時を過ごした蘭には、故郷へ帰った後も様々な壁があった。
 虐げられてきた彼女は、精神的にやはり不安定であり、他人と接するのがひどいストレスとなった。また、中学一年の途中から学校に通っていないため、勉強も遅れていた。そのため、高校に進むことは諦め、その代わり、天真などに勉強を習い、大検を受ける事にした。
 本人と周りの努力の結果、それは実り、蘭はその方面での遅れを取り戻す事ができた。
 ようやく、蘭も世間の流れに溶け込みつつある。
 また、天真は同じ大学の工学部に進学している。同じ大学でも、学部が違うとほとんど会わないが、朝、時間が合えば一緒に登校したりする。
 あかねは、やはり府内の別の大学へ通っている。天真とも相変わらず仲が良く、互いの家をしばしば訪ね合ったりしている。蘭ともよく出かける。
 詩紋は、天真たちと同じくそのまま付属高校に進み、現在三年生だ。
 皆、おかしな事件に巻き込まれる事もなく、元気に過ごしていた。



 「ただいま」
 蘭が玄関をくぐり、帰宅の挨拶をすると、すぐに中からざわめきが返ってきた。
 「おかえり、蘭」
 居間のドアを開けて、天真が顔を出す。更に、その下から、二歳過ぎくらいの女の子が飛び出してきた。
 「まま、おかえりっ」
 「ただいま、遥雅(はるか)」
 笑みを浮かべ、腕を広げた蘭の胸に、遥雅と呼ばれた女の子が飛びつく。くせのある肩過ぎほどの髪が、さらりと揺れた。
 「遅くなってごめんね。…あら、泥がついてるわね。今日は、お外で遊んだの?」
 「うん。はるか、おにーちゃんと、こうえんいったの」
 「そう」
 蘭は遥雅に微笑みかけ、ついで、天真に視線をやる。
 「ありがと、お兄ちゃん」
 「ああ。それより、早く上がってこいよ。飯の支度できてるぜ」
 「うん」
 蘭が遥雅を抱き上げ、居間へ入って行く。既に蘭の父親も帰ってきており、母親と二人で彼女を迎えた。
 失われた時間の分、家族の思いは深まり、暖かい空気が部屋を包んでいた。



 緑がきらきらしい深緑の丘の上。その風景に似つかわしくない、暗い瞳をした少女が立っている。
 ―――ここならば、都合がよい。
 少女はすっと腕を上げた。丘から見える街並みを感慨なく見下ろし、その中心に向かって手をかざす。
 白い掌から黒い気が溢れ出し、丘から吹き降ろす風に乗って、広がっていった。


 「―――――!!」
 蘭は、はっと目を開けた。
 目前に迫るようだった緑の景色が消え、外灯にうっすらと照らし出される薄暗い室内が視界に入る。
 「…………」
 蘭はゆっくりと息を吐き、強張りの余り声すら出なかった身体から、力を抜いた。
 また、あの夢……。
 蘭は布団をめくり、汗の浮き出た身体から熱を逃がした。
 今なお、時々訪れる、かの地での夢。この先も、消え去る事はないであろう蘭の記憶。
 それは仕方のない事と受け止めている。けれど、最近、その回数が増えている気がする。やっと大学にも慣れて、気分が落ち着いているというのに。
 …あの決戦の日が近いから、かしら。
 蘭は、不意に肌寒さを感じ、めくっていた布団を戻した。
 今日は六月の四日。いや、もう五日になった。天運が決し、蘭の呪縛が解かれたあの日はもうすぐ。
 蘭の身体が冷える。
 もう済んだこと。過去のこと。自分なりに整理をつけたこと。けれど、時々、こうしてたまらなくなる事がある。
 「………ん〜ん…」
 不意に夜に響いた幼い声に、蘭の意識は引き戻された。我に返って隣の布団を見ると、遥雅が寝返りを打って、布団をはねのけてしまっている。
 「あら……」
 蘭は起き上がり、布団をきれいに重ねてかけ直した。ついでに乱れた髪を直してやりながら、ほっと息をつく。
 …もう済んだこと。だから、今できる事のほうを考える。そう決めて、そうしてきたはずではないか。
 蘭はゆっくりと微笑み、遥雅の髪をそっと撫でた。ゆるやかに巻いた髪が、柔らかくその頬を包み、薄明かりの中で鈍く光っている。
 ……なんだか、近頃、ますますあの人に面差しが似てきたんじゃないかしら。
 思わず我が子の顔をじっと覗き込みながら、蘭はひとりごちる。まだ二歳半ほどだが、本当によく似ている。顔の造りだけでなく、どことなく華のある雰囲気も。
 「……おやすみなさい」
 蘭は遥雅の額に軽くキスして、自分の布団に戻った。今度は、嫌な夢を見ずに眠れそうだった。

 ――――― チリン…。


<続>


 

 

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