待宵の桜 ――― 5 ―――
翠 はるか
「イクティダール。お前に、これを授けよう」
暗い洞窟に、鬼の首領の愉悦に満ちた声音が響く。
「これは…、鳥の怨霊ですか」
「上賀茂神社へ行け。そやつの望む生贄が来る。それで、上賀茂神社を穢してまいれ」
「……は」
イクティダールは短く答え、すぐに上賀茂神社へと向かった。アクラムの側にいる事が辛かった。
北へ向かいながら、イクティダールは手の中の珠を見つめた。この中には、アクラムによって力を与えられた怨念が眠っている。
彼女は、これから愛した者を引き裂かねばならない。
イクティダールは、そっと壊れ物を扱うように優しく珠を布で包み、懐にしまった。
それは、いずれは自分も同じ運命をたどる事になるかもしれないという同情のためかもしれない。彼が去った後、アクラムは愉しげに目を閉じ、己の中の宙を見つめた。
「―――思い知らせてやるといい。己が力の無さを。信じるなど幻想であることを」
―――どこだ? どこにいる鳥の姫。
上賀茂神社に着いた天真は、一気に境内へ駆け込み、彼女の姿を探した。
境内の雰囲気は穏やかで、穢された様子はない。だが、静かすぎる。人ひとり見当たらないとはどういう事だろう。
「地の青龍か」
辺りの奇妙な様子に気を取られていた天真は、声をかけられ、はっと身をすくませた。そちらを振り返ると、見覚えのある銀髪の男が立っている。
「お前…、イクティダールとかいったな。ここで、何をしているんだ」
「お前が止めにきた事をしに。お前の探し物はこれだろう?」
イクティダールはそう言って、懐から珠を取り出した。
「それは…っ!」
「鳥の怨霊。私はこれでこの神社を穢す」
天真がぎりっと口唇を噛みしめる。
「そんな事はさせない!」
「お館様の意志は絶対だ。…来たか」
淡々とした口調でイクティダールは告げ、不意に天真の後ろに視線を向けた。
それに気づいた天真が同じようにそちらへ視線を向けると、鳥居のほうから男が一人ふらふらと歩いてくるのが見えた。
それが、右馬寮頭である事に気付いて驚く。
「お前…。なんで、ここに……」
尋ねようとして、天真は途中で言葉をとぎらせた。今の右馬寮頭の様子はどう見てもまともではない。足取りが覚つかず、瞳は何も映していないかのように虚ろだ。
「お館様の術がかかっている。その男は儀式のために必要なのだ」
「儀式?」
「鳥の姫はその男を生贄として差し出さねばならないのだ」
「何だと?」
天真の眼差しがきつくなる。それを受け止めながら、イクティダールは言葉を続けた。
「そのために鳥の姫は甦った。その男を引き裂き、流した血でこの地を穢すために」
「馬鹿な! こいつはひでえ男だけど、それでも鳥の姫は好きだったんだ!」
「そうであればこそ。想いが深いほど、その念は強い力を持つ。より強い穢れとなる。地の青龍よ、これは鳥の姫の運命なのだ。彼女は甦った時からお館様のもの」
「ふざけるな。そいつは誰のものでもない。そいつ自身のものだ!」
天真は叫びながら、イクティダールを真っ直ぐに見据えた。守る者がある者が持つ、強い光を放つ眼差し。その色にイクティダールがフッと微笑む。
「では、お前がその手で変えてみるか? 鳥の姫の運命を……」
イクティダールは渾身の力をこめて、鳥の怨霊を放った。
「くうっ!」
天真が両腕で顔面をガードする。瘴気の風が吹き荒れて、吸い込むと吐きそうだった。
ようやくそれがおさまった時には、翡翠色の小鳥が石灯籠の上に止まって、天真をまがまがしい瞳で見据えていた。
「鳥の姫……」
呼びかけてみるが、通じた様子はなかった。やがて、その双眸が天真から右馬寮頭へと向けられる。
”イケ…ニ、エ……”
震えたような音が響く。鳥の瞳はもはや右馬寮頭しか見ておらず、両足がゆっくりと石灯籠から離れ、空に飛び上がった。
バサ…、バサリ……。
小さな羽音と共に、再び瘴気の風が発せられる。その風で右馬寮頭は飛ばされ、少し離れた場所に身体を叩きつけられた。そのまま、身動き一つない。
その彼のほうに、鳥は飛翔した。
「待て、やめろっ」
天真は素早く鳥と右馬寮頭の間に立ちはだかった。
「やめろ、鳥の姫。こいつを殺すな!」
天真は強く呼びかけた。だが、鳥は明らかに敵意を持った眼差しを天真に返す。
俺を攻撃する気か? 駄目だ、戦いたくない。けれど、このままにはできない。何か方法は……。
鳥の動きに気を配りながら、彼女を止める方法を必死に考える。その時、鳥居のほうから淡々とした調子の声がかけられた。
「天真」
天真ははっとして振り返った。泰明が周りに満ちた瘴気を祓いながら、天真のほうへと歩いてきていた。
「泰明…。お前も、あの鳥を追ってきたのか」
「ああ。ここは北の要。穢させるわけにはゆかぬ」
「待ってくれ、泰明。頼む。あの鳥は俺に相手をさせてくれ」
天真は真摯な表情で頼んだ。泰明はしばらくその表情を見つめた後、黙って一振りの剣を差し出した。
「これは?」
「呪が施してある。この剣は怨霊を斬ることができる」
「俺は…!」
「友雅が言っていただろう。お前の行動が、神子の危険につながるかもしれぬ。八葉は神子を守るための存在。忘れるな」
天真はしばらく泰明が差し出した剣を見つめた後、それを掴んだ。
「あかねの事は絶対に守る。八葉だからじゃなくて、あいつが大事だからだ。あかねを危険にさらすような事はしない。…けど、その上で、まだ俺に何か出来るなら、…鳥の姫を救えるのなら、俺はそうしたい」
「神子が無事ならば良い。ひとつ言っておくが、お前が出来なければ、私があれを祓う。自ら悪行を積んだ怨霊は、その罪によってますます念から逃れられなくなるぞ」
「…必ず止める」
天真は強い語調で告げ、剣を鞘から抜き放って鳥に向き直った。
鳥はまだ天真を睨んでいる。その周囲には邪気が満ちている。
「…今、行くからな」
怨霊が斬れる刀なら、瘴気も祓える。天真は剣を振るって、鳥の姫の周囲に満ちた瘴気を削り取っていった。
天真が前進するごとに、だが、鳥もふわりと後ろに飛ぶ。
「鳥の姫! 俺はお前に謝らないといけない事がある!」
剣を振り続けながら、天真は叫んだ。
「俺はおまえにどこか妹を重ねてた。ふざけてるよな、妹の代わりに幸せにしたい、なんて。俺は本当はお前を見ていなかったんだ。妹にしてやれなかった事をしようとして、かえってお前を追いつめた」
天真は更に鳥に近づいた。瘴気はだいぶ薄れていた。
「お前は優しい奴で…、怨霊になんかなりたくなかったのに」
”ワタシ…、ニエ…。チ…ガウ…。ヤメロ!”
鳥の喉が震え、悲鳴のような音を発する。癇癪を起こしたように、身体をばたばたとのたうたせ、そのまま右馬寮頭のほうへ飛んでいこうとする。
天真は剣を横なぎに払って、その動きを止めた。
「もうやめよう、鳥の姫。お前、寂しかっただけだろ?」
ぴくんと鳥の体が揺れた。暗いばかりだった瞳に光が差す。
「一人が嫌だっただけなんだろ。幸せだった頃に戻りたいだけだって言ったじゃないか。お前が望んだのは復讐じゃないはずだ。お前を甦らせたのがアクラムの力だとしても、心まで怨霊になるな!」
「……私は」
今度は震えたような音ではなく、女性の声が聞こえた。鳥の周りの空気が揺らぎ、鳥に鳥の姫の姿が重なって見える。
「た…すけて……」
たどたどしい口調で呟き、鳥の姫が悲しげな面を、天真に向ける。
「その方を…、お願い、連れて行って。もう二度と…お会いしない……」
「鳥の姫……」
悲痛な声音と言葉に、天真が目を伏せる。
その時、倒れていた右馬寮頭が正気に返った。
きょろきょろと辺りを見回し、鳥の姫の姿を認めると、顔を引きつらせて後ずさる。
「ひいいっ、怨霊じゃ。お、恐ろしやっ」
男の悲鳴に気付き、鳥の姫は悲しそうに俯く。
「確かに、今の私はそのように言われても仕方のない者。ですが、これだけは信じてください。私がこのようにあさましい姿となったのは、あなた様を想うゆえだと」
「ひいっ。ち、近寄るな!」
「お願いでございます!」
鳥の姫は堪えきれずに右馬寮頭のほうへ足を踏み出した。とたんに、彼は怯えて手元にあった石を鳥の姫に投げつける。
「受領の娘ふぜいがまろに手をかけようなどっ。お前など、あ、遊びだったものをっ」
「……ひどい」
「もうやめろっ」
天真はたまりかねて叫び、右馬寮頭に駆け寄って黙らせようとした。
が、それより先に、泰明が右馬寮頭に向かって呪を唱えた。とたんに、男の口が縫いつけたように開かなくなり、彼の喉がもごもごとくぐもった音を立てた。
「泰明…」
「うるさいので、声を封じた」
天真は泰明に小さく頷いた後、はっとして鳥の姫を振り返った。彼女は頭を抱え、心を抉られた痛みにその身を震わせている。
「…悔しい。やはり助けるのではなかった。信じたりしなければ良かった」
その身からは、新たな念から発した瘴気が漂ってくる。
「鳥の姫、やめろ!」
彼女は顔を上げた。暗い視線が右馬寮頭を捉える。
「やめてくれ!」
「許さない!」
鳥の姫は跳躍した。一瞬の内に鳥の姿へと戻り、鋭利なくちばしが右馬寮頭を狙った。
「天真、止めろ!」
泰明が鋭い声で叫ぶ。天真は反射的に剣の柄を握り締めながら、彼女の動きを追った。
数瞬の出来事だったはずだが、天真にはスローモーションを見ているように長く感じられた。
尖ったくちばし。あのくちばしが右馬寮頭の喉笛をかき切る。鮮血が飛び散り、命を奪われた者の怨詛が場を満たし、神社を穢す。そして、それは鳥の姫の心までも穢す。
―――鳥の姫!
「ちくしょおおお!!」
天真は震えながら叫び、剣を振り上げた。向かってくる鳥を正面に捉え、確実にその身を両断する。
”きゃああああ……!!”
耳を裂くような悲鳴を残し、鳥は消滅した。それと共に神社を満たしていた瘴気も消え、神社は静寂を取り戻した。
その痛いほどの静けさの中、天真は荒い呼吸を繰り返しながら立ち尽くす。
その彼に、泰明は視線を向けた。
「お前はよくやった。これで、京の穢れがひとつ減った」
「うるせえ!」
どなりつけ、天真は切れるほどにきつく口唇を噛みしめた。
「俺は…、俺は絶対に忘れない。俺は、助けを求める鳥の姫を、この手で斬ったんだ!」
血を吐くように叫び、天真は剣を捨てて、上賀茂神社を飛び出して行った。
その背を見送った後、泰明は境内を見渡した。イクティダールは天真が鳥を斬ったと同時に姿を消しており、その場には泰明しかいない。
「まだ…機会はある」
不意に泰明が呟く。その呟きは、念ではなく自然の巻き起こした風に溶け込んでいった。
<続>
[戻る]