待宵の桜 ――― 4 ―――
翠 はるか
その後、二人は左大臣邸へと戻った。新たな怨霊の出現について話し合わなければならない。
そこで、訪ねて来ていた友雅、鷹通そして藤姫を交えて報告がてら話をする。
「―――まあ、鬼の首領にお一人で向かって行ったのですか? 天真殿、あまり無茶はなさらないでくださいませ」
話を聞いた藤姫は、幼い面に心配げな表情を満たして、天真を見る。
「どうせ、あの男とはいずれ決着をつけなきゃなんねーんだろ。早いか遅いかの違いだ」
それに、天真は軽い口調で答えた。意外とダメージは残っていないように見える。
「ですが、神子様もご心配なさいますわ」
「ああ…。あいつには心配ないって言っといてくれよ。こうして怪我もなかったんだ。お前もそんな顔すんな」
「分かりましたわ。本当にお気をつけてくださいませね。それでは……」
藤姫がちらりと場を見渡す。その視線を受けて、鷹通が頷いた。
「さしあたって、問題は鳥の姫のほうでしょう」
鷹通の一言に、天真の表情がすっと沈んだ。
「その方は、想いが深すぎて怨念をその身に巣食わせてしまったのですね。…哀れです」
「怨霊は害をなす。早めに調伏せねばならぬ」
「ですが…、はい…そうですね。京への恨みを宣言している事ですし」
「なあ…、怨霊になっちまったら、もう救う事はできないのか?」
天真がたまらず口をはさむと、友雅が視線を向けてきた。
「神子殿と鳥の姫と、両方を守りたいと言うのかい? 天真も大人の恋が分かるようになってきたのかな」
「嫌味か、そりゃ」
「忠告だよ。その気もない相手にまで優しくするのは、果たして誠実と言えるかな」
「…俺はっ!」
「前にも言ったと思うが、同情では救えないよ。女性はそういった事に敏感だからね。それに、怨霊を放っておいて、神子殿が危険にさらされるような事になったらどうするつもりだい?」
あかねの名を出され、天真がぐっと詰まる。
「神子殿を守りたいのなら、軽率な行動は控える事だ」
「あかねを……」
呟いて、天真は拳を握りしめる。
彼女は大事な女だ。彼女に幾度助けられ、力づけられたことか。
あかねを守りたい。誰にも傷つけさせたくない。もう二度と、俺の前から誰かがいなくなるのなんて嫌だ。
でも、俺は。俺は……!
「………っ」
天真は立ち上がって駆け出した。感情の波が心をかき乱し、じっとしていられなかった。
「あっ、天真殿っ!」
引き止める声が聞こえたが、天真は足を止めなかった。そして、そのまま邸を出て行ってしまった。
藤姫が心配げに天真の去ったほうを見送る。
「お一人で…大丈夫でしょうか。まさか、鬼の首領のもとへ向かわれたという事は……」
「いえ…、おそらく鳥の姫の邸に行ったのではないでしょうか。今はむしろ、一人にしておいたほうがいいかもしれません。私たちは今後の事を話しましょう。私も鬼の首領の行為には憤りを感じます。何か方策はないか考えてみましょう」
「ええ。それが、神子様のお望みでもありますわよね」
鷹通の言葉に、藤姫も頷きを返した。
―――夢の跡、みたいだ。
天真は荒れた庭を見て、不意にそう思った。
鷹通の言った通り、天真は鳥の姫の邸に来ていた。
花も小奇麗な装飾具ももうない。けれど、面影は残っていた。
主を失って急速にさびれたのであろう邸。壊れた柱や壁が、物悲しさを倍増させる。
今では、ここに咲いていた花があったなど信じられない。
だが、確かにそれは存在した。そして、天真の目の前で消えていった。あの美しい花々も、鳥の姫の微笑みも。
また、同じ事を繰り返すのか、俺は?
もっと何か方法があったんじゃないだろうか。鳥の姫を行かせない方法が。
天真はぐしゃりと髪の毛をかきまぜた。
自分が腹立たしい。鳥の姫を捨てた右馬寮頭も、その悲しみを利用した鬼の首領もいきどおろしいが、彼女に何も出来なかった自分はもっと腹立たしい。
アクラムに言われるまでもなく、自分の無力さは嫌というほど身に染みている。
「もう…、俺にできる事は何もないのか……?」
独白して、天真は小さく首を振った。―――そして、それに気づいた。
廊下に、ぽつんと緑色の何かが落ちている。
視線を向け直した天真は、すぐにそれが何か分かった。あの鳥の羽だ。
「これは、消えなかったのか……」
天真はそれを拾い上げようと手を伸ばした。天真の指が柔らかな感触を感じ取った、その刹那。
景色が歪んだ。
「…っ!?」
ぐるぐると回転でもしているかのように周囲の輪郭がぼやける。だんだんとその速度が落ち、周囲に輪郭が戻った時、そこはさびれた邸ではなく、きちんと整えられた邸になっていた。
広めの部屋があり、その中央に女が一人横たわっている。
これ…は?
自分がどこにいるのか天真は分からなかった。ただ、その場の光景を、どこからか見ている。
これは、幻影?
天真は急の出来事に戸惑いながらも、その光景に見入った。
女は死の床についていた。
頬は病のためにこけ、呼吸はしているのかも分からないほど弱々しい。それでも、女は今朝も髪を梳くのと化粧をするのは怠らなかった。
あの方が、いつ来られてもよいように。
けれど、部屋の外はしんとして足音一つ聞こえない。
まるで、邸内に女しかいないような静けさだ。
いや、もしかしたら、そうなっているかもしれない。邸の主人である女が流行り病にかかって以来、使用人たちは一人二人とやめていき、その時に女の邸の財も持ち出していった。
それでも、最初の頃は古くからの女房が女の看病をしてくれていたが、一人が同じく病にかかってからは、またやめていく者が増え、最近は部屋の外の廊下に食事が置かれる事もなくなった。
喉が…渇いた。誰かお水をちょうだい……。
女の口唇が小さく言葉を形作る。だが、やはり答える者はいない。
誰…か……。
病苦と渇きと何より耐えがたい孤独のため、女は叫びたくなった。張り付いた喉を開き、声を上げようとした時、ふと小さな鳥の鳴き声が耳に届いた。
なつかしい声に、女は目線だけそちらに向ける。
彼女がよく餌を与えていた翡翠色の小鳥が女の部屋に飛び込んできて、くるくると天井の近くを旋回した。その動きを追って、女の視線も部屋中を巡り、やがて外庭へと向けられた。
小鳥は庭を飛び回り、それから桜の木に止まった。女の目がうっとりと細められる。
お前は…、いいわね。
自由にどこへでも行ける翼を持っている。
私も鳥になりたい。そして、あの方のところへ飛んでいくの。こんな重い体は捨てて、あの方を愛しく思うこの心だけを持って、あの方のところへ行くの。
お…いで……。
女は声にならない声で、小鳥を呼んだ。すると、女の最後の願いを聞き届けたかのように、小鳥は桜の枝を離れ、女の部屋に飛び込んできた。渾身の力を振り絞って伸ばした女の指先に止まり、女をじっと見ている。
鳥さん、あなたには私の気持ちが分かるの? だったら、あの方を連れてきてくれる? 私のあの方を…。
小鳥は小さく鳴いた後、女の指先を離れ、飛び去っていった。そちらは内裏のある方向だ。
―――あの方を連れてきて。私、待っているから。この身の時間を止めて、いつまでも待っているから。
女の腕が、ぱたりと力なく床に落ちる。
その時、庭で最後の桜の花びらが舞い落ち、地に埋もれていった。
始まった時と同様に、唐突にそれは終わった。
天真は元の通り、さびれた邸の前に立っている。そして、その頬にはいつしか涙が伝っていた。
それに気付いた天真は、驚いたように自分の頬を拭う。透明な雫が天真の指を伝い、ぽつりと廊下に落ちて黒い染みを作った。
その染みを、天真は切なげに見下ろす。
……こんな風にして、死んでいったのか。
胸にわだかまっていた怒りは、いつしか消えていた。ただ、純粋な寂しさだけが天真の心を占める。
…誰に見取られる事もなく、たった一人で。こんな寂しい思いをして逝ったのか。
――――鳥の姫。
天真はきつく目を閉じ、両手を組んで額に当てた。
……何がいけないんだ。
握りしめた手に力がこもり、小刻みに震え出した。
欲張って、何が悪い。助けたいと思って何が悪いんだ。
同情? そうかもしれない。けれど、助けたい。俺はあいつを助けたい。
ここで見た花や邸が作り物でも、鳥の姫の笑顔、あれだけは本物だった。偽りで固められたこの邸で、彼女の心だけが本物だった。
……俺は、もう一度鳥の姫に笑ってほしい。
惑っていた心が、その言葉でひとつに固まる。凪いだ海のように静かになった。
今まで、心のどこかで感じていた後ろめたさが消える。
…まず、あいつを取り戻さないといけない。
どこにいる? 鳥の姫……。
天真は意識を集中する。研ぎ澄まされた精神が、声なき声を捉えた。
―――助けて。
天真ははっと顔を上げた。あたりに変わった様子はなかったが、確かに声が天真には聞こえた。
「俺を呼んでるのか…?」
まだ、自分は彼女とつながっているのだろうか。
天真は大空を見上げた。いつもと同じ空。だが、ずっと見つめていると、空に溶け込んだような薄雲の合間に、ぽつりと浮かぶ黒い影があった。
鳥が飛んでいく。あちらは確か上賀茂神社がある方向だ。
「さっそく…、って訳かよ」
上賀茂神社は北の要。そこを、鳥の姫に穢させるつもりなのだ。
「そうはさせるかっ」
天真は身を翻し、上賀茂神社へと駆けていった。
<続>
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