待宵の桜  ――― 3 ―――

         翠 はるか


 ―――連れてきてくださったのですね……。
 少女の口唇がうっとりと笑みを形作る。
 幼い姿には不釣合いなほど艶めかしい笑みだ。
 その視線の先からは、男の声が二人分聞こえてきていた。

 「ほら、こっちに来い!」
 天真は時間を見つけては朱雀門を見張り、数日後、ようやく右馬寮頭を捕まえた。用がない時にはちょろちょろしているくせに、いざこっちから会いに行こうとすると、思いがけず時間がかかった。
 「は、放せえっ。何をするのじゃ、この狼藉者!」
 「うるせえ。お前が大人しくついてくりゃあ、こっちだって引きずる手間がはぶけたんだ!」
 言葉通り、天真は右馬寮頭の襟首を掴み、ずるずると鳥の姫のいる廊下に向かって引きずっていた。じたばたと暴れる男をどうにか母屋まで連れてきて、鳥の姫の前に突き出す。
 「嬉しい。ずっと、お会いしたかったのです」
 鳥の姫が右馬寮頭を見て、嬉しそうに両手を胸の前で握りしめる。だが、その顔を見た右馬寮頭は、逆にひっと悲鳴をあげた。
 「や…、やはり、まろに付きまとっておる鳥というのはお前の事かっ」
 「今日は、何をして遊びましょうか。貝合わせ? それとも絵巻物でも見ましょうか?」
 「ひいい〜。お、おそろしやっ!」
 「……お前ら、本当に付き合ってんのか?」
 しばらく二人の様子を見ていた天真が、呆れたように問う。頭を掻きかけて…、はっと硬直する。
 全身に震えが走るほどの強い力の奔流。それを感じた。
 何だ? 一体、何が…!
 辺りを見回していると、すぐにその元は姿を現わした。風が巻き起こり、奔流となってその場を襲う。
 「―――逢瀬の邪魔をするとは、地の青龍は無粋だな」
 「うあっ!?」
 「ひいい〜。な、何じゃ、これはっ! ひいいいい〜〜」
 庭中の花びらや草が竜巻となって、舞い上がる。天真はかろうじて立っていられたが、右馬寮頭は奔流に耐えられず、風の切れ端と共に邸から吹き飛ばされていった。
 「く…っ」
 これはただの風ではない。冷気のような力が混じっているのを感じる。
 天真は腰を低く構えて、その力に耐えた。どれだけ持つかと思ったが、意外と短時間でそれは終わった。
 「我が力の奔流によくぞ耐えた」
 それと共に、聞き覚えのある声が降ってくる。
 はっとして顔を上げると、鮮やかな緋の衣をまとった金の髪の男が立っていた。
 「お前は…、鬼の一族の首領!」
 「我が名はアクラム。だが、名乗るほどの相手でもなかったか。生者と亡者の区別もつかぬとは…。八葉も所詮愚かな人間か」
 その言葉に、天真は目を見開く。
 「何だ…と。亡者? こいつが?」
 そんな馬鹿な、と天真は鳥の姫に視線を移した。血の気を感じる肌。表情のある顔。死者だなんて思えない。
 だが、鳥の姫は変わらぬ笑顔のまま、アクラムに寄って行った。
 「ひどいですわ、アクラム様。せっかく来てくださったあの方を飛ばしておしまいになるなんて」
 「鳥…の姫……」
 天真の表情が強張る。そんな天真に、アクラムは侮蔑の眼差しを向けた。
 「女の持つ深い念は、怨霊を生み出すのに良い媒体となる。この邸に宿る男を待つ女の魂に、私が力を与え、甦らせてやったのだ」
 その言葉に応え、鳥の姫がにこりと笑う。残酷とも言える無邪気な顔で。
 「アクラム様から頂いたお力で、鳥さんにあの方を探してもらったのです」
 「その力を以って、私に生け贄を差し出せと命じたのに、邸を整え、若返って男を待ちつづけるとはな。所詮、女とは弱きものだな」
 アクラムが鳥の姫にも同様の眼差しを向けた。鳥の姫は小さく首を傾げるようにすると、静かに目を閉じた。
 「私は…、ただ幸せだった頃に戻りたかっただけです。あの方と初めてお会いした…、何もかもが光り輝いていたあの頃に」
 夢見るように呟き、鳥の姫はゆっくりと目を開く。その動きにつれて、彼女の瞳には妖しい光が広がっていった。
 「けれど…。あの方を探しているうちに知りました。…あの方の心変わりを。出世のために捨てられたのだと。それも知らずに、病の床でずっとあの方を待っていたなんて……」
 「……!?」
 天真は目を見開いた。鳥の姫の言葉が進むにつれて、彼女の体の輪郭がだんだんとぼやけてきたのだ。声も、少女のものから大人の女のものへと変わっていく。
 「恨めしい。あの方を信じて、待っていたのに。恨めしい。身分に縛られたあの男が…。京が!」
 鳥の姫が両手で自らの顔を覆って、天をあおぐ。豊かな黒髪がうねって空を舞った。それが落ちついた頃には、もうそこに少女の面影はなかった。そこにいるのは、二十歳前後と思われる一人の女だ。
 「鳥の姫……」
 これが…、これが、鳥の姫の本当の姿なのか?
 呆然とする天真の前で、アクラムが彼女にすっと手を伸ばす。
 「来い。鳥と二つに分かたれた力を合わせ、我が元へと」
 「―――はい」
 元の姿を取り戻した鳥の姫は、頷いて空を見上げた。
 翡翠色の小鳥が、空を切って鳥の姫の元へと一直線に向かってきた。鳥の姫は両手を広げて、それを待ち受ける。
 「やめろ! 怨霊になりたいのか!」
 我に返った天真は、声の限りに叫んでそれを止めた。だが、鳥の姫は寂しげな微笑を浮かべて、天真を振り返った。
 「ありがとう…。あなただけが、私の心を救おうとしてくれた。けれど、アクラム様の力によって甦った時から、私はアクラム様のものなのです」
 「ばかやろう! お前は誰のものでもない! やめるんだ、鳥の姫!」
 天真は叫んで、鳥の姫の元に駆け寄ろうとした。
 例え彼女が死者でも、アクラムのために甦らせられた存在であるとしても、彼女を怨霊としてしまうなど許せない。
 だが、天真が彼女に触れるより先に、鳥が彼女の懐へと飛び込んでいった。
 「ああああっ!」
 鳥の姫の悲鳴と、二つの力がぶつかりあう衝撃が辺りの空気を震わせる。
 その衝撃で閉じた目を天真が再び開くと、鳥の姫の姿は小鳥の中に吸収されていた。その眼差しは、今ではそれとはっきり分かるほど、おどろしい雰囲気に満ちている。
 「鳥よ、来い」
 アクラムの呼び声に応え、鳥は彼の手の上に止まり、その姿を消した。
 天真はそれを見ているしかなかった。
 「ふふ…。生贄は手に入らなかったが、得る物はあった。とりあえず、良しとしておくか」
 アクラムが満足げに笑う。その横顔を天真はきっと睨みつけた。
 「お前…、鳥の姫の気持ちを利用したんだな! 人の心を自分勝手に利用しやがって。許さねえ!」
 「吠えるな。お前ら人間どもなど、私に使われる事を光栄に思うべきだろう。この女も。強い男の物になるのは女の望みだからな」
 「ふざけるな! 使うとか使わないとか…、人間はお前の道具じゃねえんだぞ! お前のせいで、どれだけの人が傷ついたと思ってるんだ!」
 「ほう? では、聞こうか。お前は何をした?」
 「……何?」
 「この女が救いを求めているのを見て、お前は何かできたのか? できておらぬだろう。今こうして、この女は怨霊となり、私の手駒になっている」
 「く…っ!」
 「力無き者が何を言ったところで、所詮は負け犬の遠吠えよ。目の前の鳥一羽守れぬ。お前の力など、その程度のものだ」
 アクラムがせせら笑う。反論できず、天真は押し黙った。彼女の仕草や言葉を思い出し、胸が苦いものでいっぱいになる。
 ―――お兄…ちゃん。
 妹の助けを求めていた声までも耳に甦り、天真の胸に突き刺さった。
 「……っ!」
 だが、それを振り払うように、天真は頭を激しく振る。
 「う…るせえっ! 俺は、俺はこれ以上お前の思い通りになんかさせねえ! はああ!!」
 掛け声と共に、天真はアクラムに飛びかかっていく。
 例え、彼の言う通りだとしても、どうしても諦めきれないものがある。いや、諦める訳にはいかないのだ。
 「ふん。まこと、愚かよの。この歴然とした力の差に、未だ気付かぬとは」
 アクラムが片手を天真に向かってかざす。そこから波動が発せられ、天真の身体を弾き返した。
 「うああっ!」
 天真の口から悲鳴が漏れる。強く地面に叩きつけられ、息が詰まった。
 「く……」
 「龍神の神子も気の毒にな。頼りの八葉がこの程度。私も張り合いが無くてつまらぬわ」
 「―――鬼よ、去ね」
 がさりと音がして、庭の茂みの奥から泰明が現れた。
 「泰…明……。お前……」
 天真が起き上がりつつ、泰明を見上げる。泰明は小さく頷いた。
 「大体の事は承知している。友雅から、例の女が既に死んでいたと知らせが来たからな。…あれは、怨霊となったのか」
 天真は答えずに俯いた。だが、それに構う風もなく泰明は歩みを進め、アクラムに対峙した。
 「ほう。少しは手ごたえがありそうだな」
 「問題ない。自然の理を乱す者よ。お前を排除する」
 泰明が首飾りを外し、左手に持って構える。
 「陰陽師ふぜいが大きな口を叩きおる。良かろう、私を楽しませてみよ」
 「急急如律令!」
 呪を唱え、術を発動させる。気の刃がアクラムを襲い、アクラムはそれを直前で握りつぶす。気の残骸が光を放ちつつ散っていった。すかさず、泰明は次の攻撃に移る。
 「火より生ずる土の気よ……」
 「泰明、どけ…。そいつは、俺がやるっ!」
 泰明が気を集中させている間、体勢を立て直した天真が印を組み、泰明を押しのけるようにして前に飛び出していった。
 「はああっ!」
 「はあっ!」
 ほぼ同時に繰り出された波動がアクラムに襲いかかる。だが、その力は彼の所にたどり着くまでに、ぶつかり合って磨耗し、その威力を弱めていた。
 無論、アクラムはそれを簡単に弾いてしまう。
 「ふん、この程度で私に刃向かおうなど…。やる気が失せたわ」
 アクラムが興ざめしたように息をつき、ばさりと袖を翻した。鮮やかな緋色が天真の目にちらつく。
 「八葉よ、私が京を支配する日は近い。それまで、せいぜい無駄なあがきを続けているのだな」
 嫌な笑いを残し、彼の姿が気流に包まれ、消えた。そして、それと共にあれほど美しく咲き誇っていた花々が一瞬にして枯れ果て、邸はさびれた姿をあらわにした。
 「花が…。花が、みんな消えちまった!」
 驚きに目を見開く天真に、泰明は淡々と答える。
 「かりそめの命だったのだ。術が解ければ、その命も消える」
 「…用が済んだら、とっとと切り捨てるってワケかよ。くそっ」
 「それが”道具”というものだ」
 「道具? 違う、あいつはっ。鳥の姫はただ寂しがってるだけの女の子だったんだ。それをあの男が変な風に…。絶対に許さねえ!」
 「…八葉も、神子の道具だ」
 続けられた言葉に含みを感じ、天真は泰明を睨んだ。
 「…何だよ。言いたい事があるならはっきり言えよ」
 「道具ならば、主の役に立つ事を第一に考えよ。それができないなら、せめて邪魔にならないようにしていろ」
 天真はぐっと口唇をかむ。
 「それじゃ、あの男と同じじゃねえか。八葉ってのは、そんなもののためにあるのか? 俺は嫌だ。俺は誰の事も道具扱いなんてさせない!」
 天真が拳を近くの柱に撃ちこむ。もろくなっていた柱は乾いた音を立てて、ひび割れた。


<続>


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