待宵の桜  ――― 2 ―――

         翠 はるか


 ―――ええっと、くそ…、あの鳥、どこに行った?
 鳥の後を追って、天真はいつしか朱雀門まで来ていた。
 だが、いくら天真が俊足でも、空を飛ぶ鳥に敵うはずもなく、ここまで来て見失ってしまった。
 「くそっ」
 舌打ちするが、どうしようもない。しばらく空を眺めた後、諦めて鳥の姫の邸に戻ってみようかと身体の向きを変えた時、ぽんと肩を叩かれた。
 「何やら見覚えのある風体の者がいると思ったら。珍しい所で会うね」
 聞き間違えようもない低い声。いつの間に来たのか、友雅が後ろに立っていた。
 「れ…、友雅? なんだ、ここ朱雀門かよ」
 そこで初めて気づいたというように、天真は辺りをきょろきょろと見回した。実際、鳥を追うのに夢中で、自分がいる位置など気にしていなかった。
 その様子に、友雅はくすりと笑う。
 「壮麗な門にも、人の賑わいにも気付かないほど、何に夢中になっていたんだい? 意中の姫君の面影かな?」
 「あんたはそれしか言う事ねーのかよ。ここで何やってんだ?」
 「私がここにいるのは、君がここにいる事に比べたら、ごく自然な事なのだがね」
 遠回しに天真が大内裏にいる理由を尋ねてくる。だが、何を説明したものか、天真はよく分からなかった。
 「んー…ちょっと。そうだ友雅、お前、鳥を見なかったか?」
 「鳥? 珍しく鳥を愛ででもしているのかい? それならば、もう少し奥のほうに行けば、雲雀が美しい声を響かせているが」
 「そうじゃねえよ。俺が探してるのは……」
 言いさした時、聞き覚えのある、甲高い声が割って入ってきた。
 「これは、左近少将殿。何をしておられるのじゃ?」
 とたんに友雅が肩をすくめて、彼には聞こえないような小さな声で呟く。
 「やれやれ。うるさいのに見つかったねえ」
 天真もそちらを見て、納得した。何かと言うと、自分たちに絡んでくるあのよく転ぶ貴族だ。右馬寮頭というらしいが、天真はいちいち覚えていなかった。
 その男は友雅を見て、何やらにやにやと笑っていたが、隣にいるのが天真だと気付くと、あからさまに眉をひそめた。
 「そやつは以前、まろに狼藉を働こうとした者ではないか。そのような乱暴者と付き合っておいでなのか、少将殿」
 「ああ? 何だよ、なんなら、あん時の続きでもしてやろうか?」
 さっそく天真が臨戦体勢に入る。嫌っているのはお互い様で、天真はこの貴族が好きではない。
 「天真、やめておきなさい。別に、騒ぎを起こしにきた訳ではないのだろう?」
 「ああ。けど、どうやら、その用事も潰れたみたいだしな。ここで、こいつを黙らせてすっきりしとくってのも悪くないぜ」
 友雅の制止もきいたふうがない。友雅がやれやれと肩をすくめていると、代わりに天真を遮るように、鳥のさえずりが上空で響いた。
 そのさえずりに天真ははっとして空を振り仰ぐ。つられたように、二人も空を見上げた。
 翡翠色の小鳥がいた。くるくると天真たちの頭上を旋回している。その視線は一点を見つめているように見えた。
 その視線を追って、天真は再び右馬寮頭に向き合う事になった。
 「…お前か、あいつが待っている男ってのは」
 天真の眼差しが、違う意味で厳しくなった。構えていた拳を解いて、右馬寮頭の襟元に手を伸ばす。
 「おいっ。ちょっと、俺と一緒に来い!」
 「なんじゃっ、気安くまろに触れるでないっ」
 「いいから、来いっ」
 「…待ちなさい、天真。あの鳥、何かを感じないかい?」
 天真と右馬寮頭がもみ合っていると、それまで黙って鳥を見ていた友雅が、厳しい声を出した。
 「あ? 何だよ、友雅」
 「心を澄ませてごらん。澱んだ風の流れ……。この気配は…、怨霊?」
 「…何だと?」
 友雅の漏らした言葉に、天真は顔色を変えた。あの鳥が怨霊? 何を言っているんだ?
 「――――いや、まだ怨霊ではない。あれは、妄執と邪気に支配された鳥だ」
 「泰明っ」
 突如、割り込んできた声に、天真は驚いてその元を振り返る。
 泰明が上空の鳥に視線を注いだまま、陰陽寮のほうから歩いてきていた。
 「不穏な気配を追ってきた。…またお前か、天真」
 「悪かったな。それより、何だって? 妄執と…邪気?」
 「ああ。…どうやら、あの鳥は、その男のもとに来たようだな」
 泰明が右馬寮頭に視線を向ける。とたんに、男はひっと悲鳴をあげた。
 「鳥がっ、鳥がまろにまとわりついておるのかっ。な、なんと恐ろしいっ」
 わめく男に、だが、泰明は構ったふうもない。
 「まだ間に合う。怨念を解放しろ」
 「ひいいっ。お、恐ろしいっ」
 ―――助けて。
 天真ははっと顔を上げた。泰明の声と右馬寮頭の悲鳴にまじって聞こえたそれは、あの少女の声だ。
 ―――早く、私を迎えに来て。
 「おい、お前、あの鳥に心当たりあるんだろっ」
 小鳥が旋回しつつ、だんだんと地上へと降りてくる。右馬寮頭はいよいよ恐慌状態となって、喚き散らした。
 「き、祈祷じゃっ。おはらいじゃっ。ひいいい〜〜」
 これではまったく話にならない。天真は苛立って、彼の襟元を掴むと、ぐいっと持ち上げて強引にまっすぐ立たせた。
 「おい、いい加減にしろっ。お前、あの声が聞こえるだろ。会いにいけよ、あの子の所に!」
 とたんに泰明が怪訝そうな表情で、天真を見た。
 「天真、声とは何の事だ?」
 「え?」
 問われて、天真は戸惑う。
 「女の声だよ。聞こえなかったのか?」
 「私には聞こえなかった」
 天真は慌てて友雅を振り返った。友雅も小さく首を横に振って、否定の意を示す。
 俺にしか…聞こえて、ない?
 驚きで、天真の手の力が緩む。その隙に、右馬寮頭は天真の手を振りほどいて、駆け出していった。
 「知らぬっ。まろは知らぬぞ、鳥の事なぞ知らぬっ」
 そのまま走り去っていく。それと共に、鳥も徐々にその姿を薄れさせていった。
 ――――これは…、一体、どういう事なんだよ。
 天真は唖然として空を見続けていた。姿を消した事で、泰明もいったん興味をなくしたらしい。右馬寮頭を追う事はしなかった。友雅が一人考え込むように腕を組んで、他の二人を見やる。
 「はてさて、また何やら面倒が起きているらしいが…。どうやらあの鳥を知らないのは、私だけらしいね」
 その言葉に振り返った二人に、友雅は微笑を向けた。
 「情報交換といこうか、天真、泰明殿。私には右馬寮頭殿と鳥の関係について心当たりがある」
 「分かった」
 泰明がすぐに頷く。天真も迷わず頷いた。
 「俺もいいぜ」
 「では、藤姫の離れにでも部屋を借りようか。ここは少々騒がしいからね」
 友雅が先導して歩き出す。その後を歩きながら、天真は先ほどの疑問をもう一度思い返した。
 ―――俺にだけ聞こえる声。
 妄執だの何だのが絡んでいるとなると、あの声も超自然の力によるものかもしれない。でも、陰陽師の泰明にも聞こえなかったのは何故だろう。
 …あの少女が、蘭がいなくなった時と同じくらいの年頃だったからだろうか。だから、俺にだけ聞こえたんだろうか。助けを呼ぶ声が。


 「天真が会ったというのは、おそらく鳥の姫だ」
 天真と泰明の話を聞き終えた後、友雅はおもむろに話し出した。
 「鳥の姫?」
 「庭に美しい花々を丹精し、遊びに来る鳥を慈しむ事で有名でね。受領の娘で身分こそないが、風流な人として敬意を込めてそう呼ばれている」
 「風流な人ねえ。それが、なんであんなおっさんと付き合ってんだか」
 天真が首を傾げながらぼやく。どうにも、あの男と鳥の姫が仲良く並んでいるところなど想像できない。
 「ふふ。謎めいていたほうが恋は楽しいだろう?」
 友雅は艶っぽく微笑んだ後、表情を改めた。
 「右馬寮頭殿は、近頃さる高貴な姫君に通い出したと聞いている。離れてしまった男の心を取り戻そうとして、邪気を呼び込んだのかもしれないね」
 「なるほど、問題は女のほうか」
 泰明は納得したように頷く。そのまま、「その女を調伏しに行く」とでも言いかねない風情だ。天真は慌てて反論した。
 「ちょっと待てよ、違うだろっ。あの男が反省して、もう一度鳥の姫に会いに行けば済む事じゃねえか」
 「そうは言っても、恋は移ろいやすいものだからね。まして、強制や正論で人の心が動くとは限らないよ。特に、恋に関してはね」
 友雅ののんびりした口調に、天真はますます苛立ったように叫んだ。
 「じゃあ、どうしろって言うんだよ。このまま、鳥の姫を放っておくのか!?」
 「いや。このままゆけば、遠からずあれは怨念へと変わる。放ってはおけぬ」
 「そういう問題じゃねえだろ、泰明っ!」
 天真が怒鳴る。異常なほどむきになっているように見える。泰明は怪訝そうに天真を見やり、友雅はおもしろそうに手にした扇をはためかせた。
 「天真、何をそんなに苛立ってるのかな?」
 「かな、じゃねえだろ。あんたらが変なんだ。一人の女も大事にできない。そうやって、女泣かしていいと思ってんのかっ」
 天真は勢いよく立ち上がり、出口へ向かった。
 「おや。どこへ行くんだい、天真?」
 「もういいよ。俺の事はほっとけ」
 友雅がくすりと挑発的に笑う。
 「放っておけと言われてもね。あの鳥の持つ邪気にも気付かなかったほどの君を?」
 ぴくりと天真の眉が震える。
 「何だと?」
 「君の純粋さはまぶしいほどだけれどね。だが、同情なんかで人の恋路に踏み込めば、怪我をするよ。覚えておくといい」
 「……っ。じゃあな」
 天真は悔しそうに口唇をかんだ後、足音も荒く、部屋を出て行った。


 「これは治部少丞殿。相変わらず仕事熱心だね」
 数日の後、仕事を終えた友雅は治部省に来ていた。房にこもって書類の整理をしていた鷹通は、彼に気付いて、軽く眼鏡のずれを直す。
 「友雅殿…。私をからかいにいらしたのでしたら、すみませんが今度にしてください。先だっての流行り病で多くの方が亡くなりましたので、治部省はその届けの整理で追われているのですよ」
 「らしいね。おやおや、これだけの書類を全部君が引き受けているのかい? どうせ、一日で終わる仕事じゃなし。ほどほどで切り上げて、息抜きでもしたらどうだい? ちょうど、今宵は大納言様の宴がある」
 「私は書に囲まれているほうが落ち着きます」
 「やれやれ。まあ、君がそれだから、私は助かっているがね」
 言いつつ、房の中へ入って来る。すぐには立ち去る気配のない彼に、鷹通が怪訝そうな視線を向けた。
 「友雅殿。一体、何をしにいらしたのですか?」
 「いや、結果的には、ただの暇つぶしになるような事だよ」
 軽い口調で答えつつ、友雅は房の中の書類をざっと見渡す。
 「この流行り病で、京の穢れはずいぶんと濃くなったようだね。藤姫の占いに凶兆が出たそうだ。黒き影が京を覆っていると。どうやら、この病がおさまった頃から、少しずつ兆しが強くなっていったらしい」
 「…何か、関係があると?」
 「さてね。ただ、病がおさまってから強くなったというのが少し気になってね。まあ、だからと言って、私程度に何か分かるとも思えないが。実のところ、結果を待つしかないといったところだ」
 「それで、結果的には暇つぶし、ですか。友雅殿も京の事を考えておられるのですね」
 鷹通が嬉しそうに言うと、友雅は軽く手を振って笑い返した。
 「君には負けるよ」
 「いえ、私もできる事がありましたら、お手伝いします」
 「構わないよ。これ以上君の仕事を増やしたら、怒る者が出てきそうだ」
 「そのような事は…」
 「いや。君は仕事を続けてくれたまえ。私もすぐに戻るから」
 自分から話しかけたくせにそんな事を言って、友雅は何気なく手元にあった書類を拾い上げた。ここにある大方のものと同じく、死者の届けだった。
 「おや、二十歳の花の盛りにその身を散らすとは…。残念な事だね」
 「友雅殿、勝手に届けに触られては困ります」
 「ああ、すまない…。……! 鷹通、これは…、この届けは間違いのないものか?」
 「え? ええ、そこにあるのは処理済みのものですから。どうかなさいましたか?」
 鷹通が、顔色を変えた友雅を不思議そうに見る。
 友雅が手にした届けには、死者の欄にこう書かれていた。
 ――――清原為光女 恭子
 それは、鳥の姫の名だった。日付は一月も前だ。
 鳥の姫は既に亡くなっていた……。では、天真が会ったという女性は誰だ?
 ……どうやら、思っていた以上に、まずい事態になっているようだね。
 友雅は、思いがけない収穫をぴんっと指で弾いた。


<続>


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