待宵の桜  ――― 1 ―――

         翠 はるか



 今年の桜も、もう終わりです。
 花びらがひらひらと、そよ風に乗って舞い散ってゆきます。
 一人で眺める桜はいっそう儚げに見えて、私は時々泣いてしまいそうになります。
 幾度、季節が巡れば、あなたは私の元へ来てくださるのでしょう。
 この桜が散り終わる頃でしょうか。それとも、卯の花が咲いたら? 紅葉の錦に庭が染まったら?
 どうか、早くいらしてください。
 寒さで私が凍えてしまう前に。



 「退屈だな、イクティダール」
 ねぐらである洞窟で、鬼の首領アクラムは傍らの副官にぽつりとこぼした。
 「京もまもなく我が手に落ちる。他愛もなくて張り合いがないわ」
 「は。しかし、龍神の神子と八葉は日に日に力をつけております。いつお館様に刃を向けてくるやもしれません」
 「ほう? 私が人間ごときに負けるというか?」
 アクラムが形の良い眉をすっと上げる。
 「いえ、そういう訳では。申し訳ありません」
 「ふふ、まあよい。では、少し試してみようか。神子どもの力とやらをな」
 アクラムはくくっと喉の奥で笑いを漏らし、虚空から水晶球を取り出した。



 その日、藤姫は浮かない顔で離れの廊下を歩いていた。
 昨夜の占いで、凶兆を表わす徴が出たのだ。
 また、鬼が何か……。いずれにせよ、京に波乱が起きる。神子様にもまたご負担をおかけする事になる。
 藤姫の顔が次第に俯き加減になっていく。
 「よ、藤姫」
 「…あら、天真殿」
 不意に声をかけられて顔を上げると、天真が廊下の手すりに腕をかけて藤姫を見ていた。
 「何だよ、暗い顔して。また何か考え込んでるのか?」
 笑いながら尋ねてくる。見られていたと知った藤姫は、何だか恥ずかしくなってかすかに赤くなった。
 「ええ…。天真殿はお出かけですか?」
 「ああ、ちょっとな」
 「そうですか、お気をつけくださいませ。実は…、昨夜占いで良くない徴が出ましたの」
 藤姫が神妙な顔になって言うと、つられたように天真も真面目な顔になった。
 「良くない徴? どんなんだ?」
 「京に…、黒き穢れが広がり、全てを覆い尽くすと。先日広まりました流行り病の影響で、京の町は今乱れておりますし。鬼がまた何か企んでいるのかもしれませぬ」
 「ふうん。今度は何やらかすつもりだか。まあ、気をつけてはみるけどさ。邸でじっとしててもしょうがないよな。じゃ、出かけてくるぜ」
 あまり気にした様子のない天真に、藤姫は慌てて彼を引き止めた。
 「天真殿、夕刻にはお戻りくださいませ。夕刻は逢魔が時とも申します。魔に魅入られやすい時分でございますから」
 「逢魔が時、ね。ああ、できるだけそうするよ」
 「できるだけではなく、必ず―――…ああ、行ってしまわれた」
 既に遠ざかってしまった天真の背を見つめながら、藤姫は小さくため息をつく。
 彼も力のある八葉だから、めったな事はないと思うけれど。
 …けれど、最近の天真殿のご様子もおかしいですわね。何か…焦っておられるような。
 藤姫は心配げな視線を、見えなくなった天真に送った。


 天真は、藤姫が案じた通り、夕方遅くになって左大臣邸に向かっていた。
 その表情は、日が沈んでいるためではなく暗い。
 彼はあかねと出かけない時は、大抵京の町に出る。
 少しでも、妹に関する手がかりが得られるのではないかと。だが、今日もそれは徒労に終わった。
 蘭……。一体、お前どこにいるんだ?
 天真は苛立たしげに、足元の小石を蹴った。
 焦ってはいけないと何度も自分に言い聞かせてはいる。けれど、二年を経てようやく居場所の手がかりが得られたのだ。逸る心はどうしようもなかった。
 ふう、と天真が小さくため息をついた時、どこからか鳥の鳴き声が聞こえてきた。
 それは、やけに耳につく鳴き声で、天真はその元を探して視線をさまよわせた。
 もう一度、鳥が鳴く。今度は、その声に少女の声が重なって聞こえた。
 ―――早く、私の元へいらしてくださいませ。
 切なげな呼び声。天真はどきりとした。
 なんだ、今の声は? 蘭じゃない、でも……。
 不意に羽音が天真の後方で響く。天真ははっとしてそちらを振り返った。
 翡翠色の小鳥が弧を描き、京の西のほうへと飛んでいく。天真は反射的にその後を追って走り出していた。

 どっちだ? …ちくしょう、見失ったか?
 しばらく走った後、天真は足を止めた。
 ここまで追ってきたが、鳥の姿が急に見えなくなった。
 天真は周囲を見回したが、辺りはすっかり暗くなっている。小鳥一羽を見つけ出すのなど不可能に近かった。
 「ちくしょうっ」
 だが諦めきれず、天真は小さく叫んで再び走り出した。とりあえず、鳥の向かっていた方向へ進んでみれば、また姿を現わすかもしれない。
 ところが、突き当たりの路地を曲がった途端、天真はそこに立っていた男とまともにぶつかった。
 「うわっ。…な、なんだよ、こんな所にぼーっと突っ立ってんじゃ……。…れ? 泰明?」
 急にぶつかられたというのに、相変わらず能面のような顔でそこに立っていたのは泰明だった。同じく表情の窺えない視線で、黙って天真を見返す。
 「何してんだよ、こんな所で…。あ、そうだ。お前、この辺で鳥を見なかったか?」
 「鳥?」
 泰明が怪訝そうな顔になる。
 「ああ。緑色の小鳥だよ」
 「知らぬ。私はかすかな邪気を感じて、ここへ来たのだ」
 「邪気?」
 今度は、天真が怪訝そうな顔になった。
 「ああ。怨霊ほどの瘴気はないが、良くない気だ。ここ数日でどんどん膨れ上がっている」
 「……そういえば、藤姫が占いで良くない徴が現れたとか言ってたけど、関係あんのかな」
 「藤姫が? ふむ、では一度話を聞きに行ってみるか。天真、お前はまだ鳥とやらを探すのか?」
 「いや、さすがにもう見つかんねえだろ。今日は邸に戻るよ」
 「そうか」
 泰明は頷くと、さっさと歩いていった。天真はしばらくそれを見送った後、ひょいと肩をすくめて自分も歩き出した。

 ―――早く、私の元へいらしてください…。



 女はゆっくりと手を伸ばした。
 寒い……。
 指先が何かを求めるように蠢く。だが、その指はむなしく空を切るばかりだ。
 「誰…か……」
 女は呼んだ。いや、呼んだつもりだったが、張り付いた喉からはかすれた声しか出なかった。
 喉が…渇いた。
 誰か来て。
 心の中で必死に叫ぶものの、それに答える者は誰もいない。
 お願い、私のところへ来て。
 苦しいの。
 寒いの。
 とても…、寂しいの。



 …え、と、昨日鳥を見失ったのはこの辺だったよな。
 次の日、天真は再び鳥を探しに来ていた。
 耳につく鳴き声と、切なげな呼び声がどうしても耳から離れなかったのだ。ただの空耳だったのかもしれない。けれど。
 天真は鳥を探して、辺りを歩き回った。だが、鳥はたくさんいたが、目当ての鳥は見つからない。そもそも、小鳥一羽見つけ出そうというほうが無茶なのだ。さすがにそう認めざるを得なくて天真が立ち止まった時、不意に一陣の風が天真の側を通り抜けていった。
 「わ…っ?」
 その風に乗って、ふわりと甘い香りが天真の鼻孔をくすぐる。花の香りのような優しくみずみずしさを感じさせる香りだ。
 …近くに花でも咲いてるのか?
 香りに惹かれて、天真が風上のほうを見ると、ちょうど小さな邸があった。古い建物なのか、生垣で囲われていたが、ところどころ穴が開いていて、人ひとりくぐり抜けられるような大きさの物もある。
 「誰…の邸だろ……」
 天真は呟きながら、その邸に近づいていった。この場所と邸の大きさからして、あまり位の高くない貴族といったところだと思うが。
 とりあえず生垣の穴から中を覗き込んでみる。だが、生垣近くに植えられている木の幹が邪魔をして、よく見えなかった。
 どうしようかと思っていると、鳥の鳴き声が天真の頭上で響いた。はっとして顔を上げると、昨日の鳥がゆっくりと旋回しながら邸の中へと入っていった。
 この中かっ。……よし。
 天真は小さく頷くと、生垣をくぐり抜けて、そっと邸の中へと入っていった。

 中に入ってすぐ、天真はその邸の異常に気づいた。
 もう春も終わりだというのに、庭中に桜や桃といった春の花々が咲き乱れている。
 「なんだよ、これ……」
 呆然としつつ、天真はその光景に半ば心を奪われていた。それほどに美しかったのだ。
 言葉で表すならば、幸せな雰囲気とでも言うのか。だが、どこか不自然だ。季節が違うと言うのはもちろん、例え今が春の盛りだったとしても、この庭には何か違和感を感じただろう。
 だが、その違和感を秘めた美しさは、何とも言えず人の心を惹きつける魅力があった。
 「一体、何の呪(まじな)いだよ……」
 花びらが散って、天真の肩に落ちてきた。みずみずしい感触。それが、決して幻ではないのだと知らせる。
 そのまま奥へと進んで行くと、すぐに母屋へとぶつかった。庭に面した廊下に少女が一人座っており、自らの指を鳥の止まり木にさせて、じっと見つめている。
 「私のところに来てくれるのは、もうお前だけね……」
 …これは、夕べの声!
 天真は反射的に飛び出していった。
 「俺を呼んだのはお前か」
 「…えっ?」
 突如現れた見知らぬ男に、少女の瞳が見開かれる。
 「俺を呼んだだろ。なんで、俺を呼んだ。答えろ」
 天真は厳しい声で追及しつつ、少女へと近づいていく。それにつれて、少女の表情に怯えの色が走っていった。
 「あ、あの……」
 「どうした? 答えろよ」
 「あ、あの…、でも…。見知らぬ男性とお話するなんて……。もう、私も裳儀を済ませた大人ですし。まずはお文を頂いてからじゃありませんと……」
 「はあ? 文から? でも、もう、話してるだろ。ほら」
 「い、いや…。誰か…、お父様、お母様…!」
 近づくのを止めない天真に、少女は小さく叫び、とうとう泣き出してしまった。面食らったのは天真のほうだ。
 「おい…、泣くほどのことかよ。おいっ。あー…、ちくしょー。泣くなよ」
 泣いている女ほど手におえないものはない。天真が弱りきっていると、不意に少女の脇にあった塗り箱の紐が目に入った。
 「…そうだ。ちょっと、この紐貸せよ」
 「あっ」
 一瞬震える少女に構わず、天真はその紐を取り上げて輪を作った。それを両方の手で取り、器用にあやとりを始める。
 「ほら、これが山だろ。これが川。で、これが東京タワー…は分かんねえか。えっと、五重塔だ」
 「まあ…、一本の紐から、こんなにいくつもの形が作られるのですね」
 天真の手で次々と形を変える紐に、少女の涙は止まり、同時に楽しそうな笑顔が浮かぶ。
 その笑顔に、同じようにするといつも喜んでいた妹の面影が重なる。
 「…やっと、笑ってくれたな」
 そう言うと、少女は小さく天真に笑いかけ、軽く頭を下げた。
 「失礼しましたわ。あの方が来てくれないので、悲しくなっていたのです。ずっと一人で待っていましたから」
 「ずっと一人で?」
 「ええ…。あの方は、近頃、お文もくださらないのです。北の方にしてほしいなど分不相応な事は望みません。ただ…、私に逢いに来てほしい……」
 天真はどきりとした。その悲しげな声音は、まさしく昨夜、天真を呼んだあの声だ。
 「おい……」
 「さあ、鳥さん。今度こそ、あの方を連れてきてね」
 だが、天真が何か言う前に、少女は手に止まらせていた鳥を大空に放った。翡翠色の小鳥が弧を描いて空を飛んでいく。
 ……あの鳥も昨夜の…。やっぱり、こいつが……。
 天真はどんどん小さくなっていく小鳥と、祈るようにその姿を見送っている少女を、ずっと見比べていた。


<続>


[次へ]

[戻る]