待宵の桜  ――― 6 ―――

         翠 はるか


 「はあっ!」
 天真は庭で素振りをしていた。髪も服も汗でぐっしょりと濡れており、呼吸も相当乱れているが、彼は手を止めようとしない。
 木陰に座ってその様子を見ていた頼久は、眉をしかめて、先ほどから何度も繰り返している言葉をかけた。
 「少し休憩を取れ。朝から剣を振り通しだろう」
 「いいんだ。おい、もう休憩終わったんなら、打ち込みの相手しろよ」
 天真は言い放って、頼久に向かって木刀を向けた。彼の言う事を聞く気はまったくないようだ。このまま体力が尽きて倒れるまで、続けるつもりなのだろう。
 ここ数日、ずっとそうだ。
 頼久は眉を寄せる。
 自分の力不足で誰かを失う辛さは頼久とて良く知っている。だから、下手な慰めなどかけられない。だが。
 「無茶な稽古はお前の身体を損ねる。…天真」
 物言いたげに天真を見る頼久に、彼は小さく笑う。
 「お前の気持ちは分かるが、神子殿を守る使命を忘れるなって言うんだろ? 分かってる。…分かってるんだ。だから……」
 「天真……」
 頼久がひとつ息をついて立ち上がった。自分が出来る事といったら、これしかない。
 木刀を構えようとして…、近づいてくる人影に気付く。
 「泰明殿」
 「え?」
 その言葉に、天真は頼久の視線を追った。いつの間に来たのか、泰明が庭に立って天真たちの様子を見ている。
 「何だよ…。こんな所で何してるんだ?」
 「鳥の怨霊が甦った」
 「…何だって?」
 淡々と告げられた言葉が、すぐには理解できなかった。
 「先ほど、師匠の命で東市に赴いた際、近くで怨念が増していくのを感じた。気配からして、あの鳥に間違いあるまい」
 天真の目が、大きく見開かれる。
 「そんな馬鹿な。だって、あいつは…、この間、俺、が……」
 「そうだ、お前が斬った。それで一旦は消滅したが、女の念までは消せなかった。それで……」
 「…また、あの男が甦らせたのか!」
 「そうだ」
 木刀を握る天真の手にぐっと力が入った。
 「それは、どこだ?」
 「決まっている、鳥の姫の邸だ。行くならば早くしろ」
 「ああ……」
 既に門へと身を翻した泰明を追おうとして、天真は一瞬ためらった。鳥を斬った時の嫌な感触が手に甦り、それが天真をひるませる。だが、すぐに天真はそれを振り払うと泰明の後を駆けていった。
 残された頼久は、その後ろ姿をじっと見つめる。
 「天真…、逸るなよ。他人の言葉に惑わされるな。それに、お前はまだ間に合う。お前の妹御は生きているのだから」
 呟き終えると同時に、天真の姿は見えなくなった。頼久は身を翻し、事の報告をするため、藤姫の部屋へ向かった。



 二人が駆けつけた時、鳥の姫の邸は一目でそれと分かるほど、まがまがしい気配に満ちていた。
 塀の破れ目から中に入り、庭に抜けると、鮮やかな緋が目に入る。
 「アクラム!」
 その声に振り返ったアクラムは天真と泰明を見遣り、くっと口唇をゆがめた。
 「ほほう、さっそく嗅ぎつけてきおったか。鼻はよくきくと見える」
 そう言って笑った彼の手の中には、鈍く輝く珠がある。
 「鳥の姫……」
 「たった今、復活が完了した。残念だったな、例え何度引き裂こうとも、この女の念が消えぬ限り、この怨霊はいくらでも甦る」
 アクラムは珠を持った手を、天真に見せつけるように前に差し出した。珠が光り、輪郭が崩れ、人の形を取っていく。やがてその姿を顕わにした鳥の姫はひどく陰鬱な表情だった。乱れた髪が頬にまとわりつき、その表情を更に増している。
 「見よ。妄執と恨みに取り付かれ、狂った者の姿を。みにくいものだな」
 侮蔑も顕わにアクラムは笑う。他人の心などつゆとも思っていない倣岸な男。天真はアクラムを睨みつけた。
 「そいつに怨念なんてない。全部てめえのしわざだ。ありもしない恨みをでっち上げて、鳥の姫を利用した!」
 「まだ、そのような事を言うか」
 「ああ、何度でも言うさ。そいつに恨みなんてない。そいつは決して自分から誰かを傷つける事を望まなかった!」
 「しかし、この女は男を襲い、お前はそれを斬った」
 「く…っ」
 天真が口ごもる。
 そうだ。あの時の事は、きっとこれからも忘れない。
 だから、今度こそ。また同じ事は繰り返さない。繰り返したくない。
 「ふふふ。悔しいか?」
 「……なに?」
 「悔しいであろう。この女は再び私の駒となった。お前のした事は、全て無駄だったのだ」
 その言葉に天真は戸惑った。
 鳥の怨霊が甦った時、悔しいという感情が湧かなかった事に、その時初めて気づいた。鳥の姫を助けられず、今またこいつによって甦らせられるのを止められなかった。悔しいと思って当然だ。なのに、俺は……。
 「違…う……」
 「違う? 何が違うと言うのだ。まだ、己の脆弱さが分からぬか」
 「そうじゃねえ。俺は……」
 天真は鳥の姫に視線を向けた。視線を受けた彼女は、自らを恥じるように俯いてしまう。
 構わず、天真は言葉を続けた。
 「鳥の姫…。お前は苦しいだろうけど、俺は…実を言うと、嬉しいんだ。もう一度、俺の前に現れてくれた。お前を二度も辛いまま逝かせた事、俺はずっと後悔してた」
 舞散る桜と鳥の羽音。あの日、鳥の姫の邸で見た幻影。
 あの時、俺が流した涙は、きっと鳥の姫のもの。
 「すまない、鳥の姫。痛かった…だろ?」
 鳥の姫が驚いたように、ゆるゆると顔を上げた。
 口唇が震えるように動き、けれど、言葉は発せられず、途方にくれたような表情になる。
 「何を言う、地の青龍? 神子に仇なす怨霊にまで情をかけるか。まこと、愚かよの。では、これはお前にくれてやろう。好きにするがいい」
 アクラムが天真に向かって、鳥の姫が宿った珠を放り投げた。鳥の姫はその瞬間、辛そうに身体を震わせた後、尖った爪を天真に向けてかざした。
 「鳥の姫!」
 空を滑るように突進してきた鳥の姫を、天真はあやういところでかわす。
 「アクラム!」
 「よそ見をしていていいのか? 私が命じぬ限り、その女は攻撃をやめぬぞ?」
 「てめえ…っ」
 天真の瞳が怒りに燃え上がる。だが、激しかける天真を遮るように、泰明が天真とアクラムの間に立った。
 「天真ゆけ。この男は私が引き受ける」
 「泰明…。すまねえっ」
 天真は怒りを消せないながらも、アクラムから視線を外し、鳥の姫に向き直った。
 いくら泰明でも、鬼の首領をそう長い事留めてはおけない。急がなければ。
 天真の背後で泰明が攻撃を始める。その途端、鳥の姫の攻撃の手がゆるくなった。ためらうように繰り出される爪の刃を天真はかわしつつ、次第に間合いを詰めていった。
 ある程度まで近づいた後、二人は牽制を繰り返す。やがて、鳥の姫は苛立ったように大きく手を振り上げ、その動作の分、天真にも時間ができる。
 その隙に天真は拳に五行の気をため、振り下ろされた鳥の姫の爪を叩き割った。
 「きゃあっ」
 悲鳴をあげる鳥の姫に、天真は更に近づく。
 「お前の望みはなんだ。言ってみろ!」
 天真は拳を降ろして、鳥の姫に呼びかけた。これ以上の攻撃はできない。
 「俺は…、もうお前を斬りたくない。どうすればいい? どうすれば、お前の寂しさが消せる?」
 天真は懸命に叫んだ。斬りたくはないけれど、実際攻撃を続けられたら応戦しなければならない。それがどんなに辛い事でも、自分はまだ死ぬわけにはいかないのだから。
 けれど、そうせずに済むのなら、なんとか他の方法を探したい。彼女には心が残っている。まだ、間に合うはずだ。気にかけている者がある事は、彼女を少しでも救わないだろうか。
 かなりの間、天真と鳥の姫は互いを見合っていた。互いに、心のゆく先を探しながら。
 やがて、鳥の姫のまぶたが痙攣し、透明な涙があふれ出した。
 ――― 一人はいや。
 震える声が天真の耳に届く。
 ――― お願い、一人にしないで。
 鳥の姫の双眸から、はらはらと涙が尽きることなくあふれ出る。悲しげな表情が胸に痛い。けれど、鳥の姫が心で流したその涙は、ひとつこぼれるごとに、彼女の瘴気を洗い落としていった。
 「あ……」
 ひとつ、またひとつと清めの涙はこぼれる。鳥の姫の姿が最初に会った頃のように邪気のないものに変わってゆき、それを綺麗だと天真は思った。
 そうだ…。友雅は俺が怨霊の気配に気付かなかったと言ったけれど。だって、俺には怨念になんて見えなかった。俺が会った時の鳥の姫は、幸せそうに装って、たった一人の人を待っていた。寂しい思いをしながら死んでも、信じる事をやめなかった彼女の心を、妄執だなんて思えなかった。
 天真は胸が締め付けられるような想いを感じながら、ゆっくりと鳥の姫の前に立った。
 「俺はお前とは一緒にいけない。誰かを連れていく事もさせられない。けど、ここでお前をずっと見てる。一人ぼっちでなんか逝かせない。ずっと見守ってるから……」
 天真は心の内を必死に言葉にしようと努めた。だが、鳥の姫の切なげな表情を見て言葉が自然と途切れた。
 「違う、鳥の姫! お前を拒絶してるんじゃない!」
 思わず手を伸ばし、天真は鳥の姫を抱きしめた。肉体を失っている彼女を、本当に抱きしめる事はできないが、両腕で包み込む事で、せめて自分の存在を伝えられるように。
 「一人で行かないといけない道なんだ。けど、道に迷ったり、寂しくなったりしたら振り返ればいい、俺がここに立ってるから」
 人は死ぬ時はみな一人だ。「死」についてまだ深く考えた事などない天真には、それがどれだけ怖い事かなんて分からない。けど。
 「お前が逝っちまっても、俺はお前が生きていた事を忘れたりはしない。こんな事、お前には意味のない事か…?」
 天真はもどかしい気持ちを抑えながら、言葉を紡ぎ続けた。
 誰かを救うというのは、なんて難しい事なのだろう。
 何かしたいと思っても、かけるべき言葉ひとつさえ、ままならない。
 天真が悔しそうに眉を寄せる。しかし、その時、鳥の姫の身体からふっと力が抜けた。
 「……ずっと、こうして欲しかった」
 はっとして天真が彼女の顔を覗き込む。彼女は穏やかに目を閉じて、天真の胸に顔を寄せていた。
 「私は死んでゆく時、たった一人でした。この地で果てた時聞こえたのは、鳥の声と葉ずれの音だけ。けれど、今はあなたの鼓動が聞こえます。あなたの腕はとても暖かい……。私、もう寒くありません」
 そう、それだけで良かったのだ。寒くて寒くてたまらなかったこの身体を抱きしめてくれれば、それだけで、もう良かったのだ。
 彼女の姿が次第に光に包まれていく。
 「私、一人でゆきます。もう平気です、私には進むべき道が見えましたから」
 「そうか…。気をつけていけよ」
 死者を送り出すにはおかしな言葉かと思ったが、鳥の姫はこくりと頷いた。
 「…あの男は、俺が責任持って、二、三発ぶん殴っといてやるからな。それで勘弁、て事にしといてくれ」
 クス…。
 天真の胸元の空気が揺れ、鳥の姫が笑ったのが分かった。
 「いえ、もういいのです。ただ、幸せな時をありがとうと……」
 言い終えると同時に、鳥の姫の身体が天真から離れ、ふわりと浮き上がった。
 「さようなら。あなたがいてくれて良かった。私、来世ではきっと鳥に生まれ変わります。そして、今度はあなたの大事な方を探しましょう」
 「鳥の姫……」
 鳥の姫がふわりと微笑んだ。満ち足りた美しい微笑み。
 ―――そして、その姿は光の粒子となって消えていった。
 天真はしばらくその場に立って、胸に残った感情の残滓をかみしめていた。
 だが、不意に割り込んできた冷たい声が、彼の精神を現実に引き戻す。
 「くだらぬ情にほだされおって。所詮は人間か。興ざめだ」
 普段と変わらない余裕に満ちた声音に、天真は嫌な予感を覚えて振り返る。アクラムは、多少着物を砂ぼこりで汚しつつも、傷ひとつない姿で立っていた。
 では泰明は、と視線をめぐらせると、アクラムから少し離れた場所に印を構えたまま立っている。その袖がざっくりと切れていた。
 「泰明!」
 「衣を裂かれただけだ、問題ない」
 天真はほっと息をつき、アクラムに視線を戻した。彼は地から少し浮き上がったところにおり、二人を見下ろしている。
 「地の青龍に地の玄武。ともかくも、私の怨霊を退けたことは誉めてやるぞ」
 「てめえは…。必ずぶっ潰す!」
 怒りを込めた言葉に、だがアクラムは堪えた様子もなく笑った。
 「いずれ、また会うであろう」
 アクラムの身体が気流に包まれた。すぐにその姿が消える。
 「ち…っ」
 天真は舌打ちする。腹立ちはおさまらないが、天真はその後を追おうとはしなかった。どうせ、もう追いつけない。それより、自分はここにいなければならない。
 天真は空を見上げた。
 彼女は今どの辺りにいるのだろう。
 彼女からは、俺が見えるだろうか。
 目に染みるような透き通った空をじっと見続けていると、いつの間にか、泰明が隣に立っていた。
 「逝ったか」
 「ん。…なあ、泰明。俺は鳥の姫を救えたのかな」
 彼女はああ言ったけど、本当に平気だろうか。寂しくはなっていないだろうか。
 泰明が感慨なく頷く。
 「ああ。浄化の光が見えなかったか?」
 「……そっか。でも…、なんでだろうな。あいつが呪縛から解かれて嬉しいはずなのに、なんか…、胸が痛いんだ」
 鳥の姫の最後の微笑みを思い出す。もう一度見たいと願い、それは叶った。けれど、二度は叶わない。
 泰明が天真を訝しげに見た。
 「傷は見えないようだが、胸に攻撃を受けたのか?」
 泰明の的外れな質問に、天真は思わず吹き出した。久し振りに屈託なく笑い、胸に湧き上がった寂しさは、そのまま心の奥に封印する。
 ……必ず会いに来いよ。待ってる、翡翠色の小鳥が再び大空を舞う日を。
 「――――さてと、そろそろ帰るか。今回の事、他の奴らにもきっちり報告しとかねえとな」
 「そうだな」
 二人は並んで歩き出した。数歩進んだところで、天真がちらりと泰明を見る。
 「けど、お前が気を使ってくれるなんて、意外だったぜ」
 泰明が怪訝そうに天真を見返した。
 「何の事だ」
 「鳥の姫のことを教えてくれたじゃねえか」
 泰明がああと呟く。
 「お前はあの怨霊を浄化しようとしていた。それは正しい事だから知らせた」
 天真は小さく笑った。
 「やっぱ、お前とは気が合いそうにねーな。…でも、感謝してる。知らせてくれてありがとな」
 「別段、礼を言われるような事ではない」
 そっけない口調に、だが、この時は不快感を感じなかった。
 「礼を言うような事なんだよ、俺にとってはな」
 二人はまた塀の破れ目から外へ出た。そこでは、もう日常が始まっている。
 天真は最後に、一度だけ邸を振り返った。

 さようなら、鳥の姫。

 天真は形にならなかった想いと訣別するように呟き、邸を後にした。誰もいなくなった庭はシンと静まり返っている。
 その時、不意に風が巻き起こった。庭の草や木の葉をざわめかせ、ひとつの言葉を奏でる。
 ――――ありがとう…。


<了>

01.10.15up.


鳥の姫に、もう少し幸せに逝ってほしいという一心で書いた話です。
豊口めぐみさん(声優)、ほんに可愛かった(*^^*。
しかし、やはりストーリーが決まってるものをネタにするのは難しかった…。

 

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