頼忠はその面に深い苦渋の色を浮かべながら、今日も四条の邸の警護をしていた。
あの千歳との再会から、もう十日がたつ。
それでも、あの時の千歳の瞳は、彼の記憶から薄れる事はない。昼夜を問わず彼の心を訪れ、苦い痛みをもたらしていく。
分かったのだ、頼忠の行動に彼女がどれだけ傷ついていたか。
頼忠は彼女を守ると誓った。だが、今の彼は彼女と敵対する立場にある。頼忠の気持ちなど関係なく、双方の対立は疑いないものになってきている。
彼の意志ではないが、頼忠は彼女を裏切ったのだ。
…分かっていたはずなのに。彼女がどれだけ孤独に苦しんでいるか、知っていたはずなのに。
頼忠は出口の見つからない思考に、苦しげに目を閉じた。
このままではいけない。それは分かっている。だから、千歳に会いにいこうとした事もある。
会って、彼女の考えを確かめたかった。そのため、重い気分を抱えて院御所へ行ってみたが、千歳はその数日前に院御所を退出していた。どこへ行ったのかは分からない。いや、教えてもらえないと言ったほうが正しいが。とにかく、頼忠は彼女に会う手段を失った。
京を分断する結界の存在が、かろうじて彼女の健在を知らせる。もう、それだけのつながりしかない。
どうすればいいのだろう。花梨のやり方を間違っているとは思わない。それなのに、何故、千歳と対立しなければならないのだろう。千歳も花梨も京を守ろうと思っている事は疑いないのに。
頼忠は深く息を吐いた。その時、廊下を急ぎ足でやってくる音が聞こえた。
そちらに目を向けると、女房がひとり花梨の部屋のほうからやって来る。彼女は頼忠に気付くと、軽く頭を下げた。
「頼忠殿、神子様がお呼びでございます。至急、お部屋に来られるようにと」
「神子殿が…? 承知しました」
何の用かと思いつつ、頼忠は頷いた。しかし、何にせよ、この思考を止めてくれるのならありがたいと思った。
すぐに彼女の部屋に向かうと、そこには花梨の他に、紫姫、勝真、彰紋、泉水がいた。
「あ、頼忠さん、来てくれたんですね」
花梨が頼忠に気付き、笑いかける。頼忠は彼女に礼をしながら、部屋の中へ進んだ。
「お呼びと伺い、参上しました。いかなご用件でしょう?」
頼忠が切り出すと、花梨は急に表情を沈ませる。
「あのですね…。今、千歳の話をしていたんです」
頼忠の鼓動が高鳴った。
「…そうですか」
「彼女が何を考えてるか分からなくて。それで、皆で話してたんですけど、頼忠さんの考えも聞かせてもらいたいと思って来てもらったんです」
「……そうですか」
今度は、答えるのに意志の力が必要だった。ここでも、やはり千歳の影から逃れられないのか。
頼忠がひそかに口唇をかんでいると、勝真が不機嫌そうに口を開いた。
「考える必要なんてもうないだろ。千歳は京の時を止めている。俺たちはそれを止めないといけない。それだけだ」
頼忠の肩がぴくりと震える。その脇で、今度は泉水が言葉を発した。
「ですが、院がご信頼なさっている方を疑うのは…」
「あの白拍子だって、院の信頼を得ていた」
泉水は沈黙した。確かにその通りで、その事に反論はできない。
短い沈黙が流れた後、彰紋が顔を上げた。
「とにかく、真実を確かめなければなりません。彼女は確かに強い力を持っている。争いを避けられるなら、それが一番だと思います」
頼忠はほっとした。千歳との戦いが避けられるなら、それは自分にとっても望む事だ。
だが、それを打ち崩すように、勝真が再度口を挟んだ。
「千歳は京の時を止めている。それは、京を滅ぼす行為だ。それが真実だろう」
「勝真殿……」
皆が困ったように顔を伏せる。だが、勝真の言葉を否定しているからではない。むしろ、彼らにもそう考える気持ちがあるから困るのだ。
頼忠は黙っていられなくなり、口を開いた。
「私は彰紋様が仰られたように、千歳殿の考えを確かめてみるべきだと思います」
「頼忠さん?」
「私には…、あの方が院を裏切ったなど信じられません」
頼忠は訴えかけるように言った。それが、やはり彼の偽らざる心情。しかし、頼忠と千歳の関係をもちろん知らない勝真は馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「院が認めたからか。いいかげん、自分の頭で考えて行動したらどうだ」
「彼女は院を救ったお方だ」
「それも怪しいもんだ。前に、翡翠も言ってたぞ。自分で怨霊をけしかけておいて、それを退治してみせる。取り入るには、効果的な方法だってな」
「……お前は、千歳殿を信じようとは思わないのか。妹君なのだろう」
勝真は自嘲気味の笑みで、その言葉を笑い飛ばした。
「兄妹なんて他人の始まりだ。進む道が違ったら、そこから先は離れていくだけだ」
「………っ!」
瞬間、頼忠は怒りで脳裏が真っ赤になるのを感じた。
平勝真。千歳の兄。
それを知った時は驚いた。そして、幾度か言葉を交わすうち、その言葉からも、頼忠は千歳の孤独を知った。彼は貴族社会、そして、立身出世を望む父兄を嫌う余り、千歳までもがそうだと思い込んでいる。
「ふざけるな」
「…何?」
「お前の言っている事は、あまりに偏っている。彼女が院に取り入るために神子を名乗ったのだと信じ、それが真実かどうか確かめようともしない」
勝真の声が怒りを帯びる。
「何が言いたいんだよ、頼忠」
「お前は、自分の価値観でしか物事を測っていないと言っているのだ!!」
頼忠は激昂して叫び、床を蹴るようにして立ち上がった。
その反応に、周りは呆気に取られた。言葉を叩きつけられた勝真でさえも。
頼忠は常に冷静で、感情を表に出すこともあまりしない。それが、こんな風に怒鳴り声を上げ、怒りに頬を染めるなど。
沈黙が流れる。どれほど時が経ったのか、ようやく冷静さを取り戻した頼忠は怒りに固まっていた身体から力を抜いた。それを見て、花梨たちも力を抜く。
「……あの、頼忠さん」
「…見苦しいところをお見せして、申し訳ありませんでした」
その声は、いつもの彼のものだった。だが、その胸中では、ひとつの決意が固まっていた。
「もうひとつ無礼をお聞きください。私はどうしても確かめたい事があります。御前を失礼させて頂きます」
言うが早いか、頼忠は身を翻して、花梨の部屋を出て行った。後には、衝撃が抜けきれない表情の五人が残された。
「神子姫の行く先、か?」
棟梁は、厳しい表情で訪ねてきた頼忠を困惑の表情で見つめた。
頼忠は院御所へ来ていた。千歳の居場所を聞き出し、彼女に会いに行くために。
「はい。棟梁ならご存知かと思いまして」
「…何故、そのような事を聞く?」
「それは…」
予想していた質問だが、頼忠はごくりと唾を飲み込んだ。
「四条の神子の言い付けなのです。神子姫にぜひお伝えしたい事があるとのことで」
「言い付けとな」
「はい。事は京の大事に関わること。どうぞ、お教えください」
頼忠は平静を保つよう努めていたが、内心は心苦しさでいっぱいだった。自分が言ったのはまったくの嘘。これは、単なる頼忠の私情。
こんな風に、棟梁を騙すような事をするのはもちろん初めての事だった。だが、こうでも言わなければ、すんなりと教えてはくれないだろう。
棟梁は頼忠をしばらく見ていたが、やがて伏し目がちに問いかけた。
「頼忠、お前は神子姫と親しいのか?」
「え…?」
思いがけない質問に、頼忠の鼓動が跳ねた。
「いえ、親しいなどとは言えません。私はただ…、この身が龍神の神子の役に立てばと願うのみです」
「…そうか。頼忠、京はまこと救われると思うか?」
「棟梁?」
更に思いがけない質問に、頼忠は戸惑う。
「四条の神子については、お前から報告を聞いている。だが、神子姫については、私などには分からん。京はどこへ向かっているのかもな。それが皆も感じている心情だろう」
「棟梁…」
頼忠は思わず声を漏らした。棟梁は、ずっと頼忠が主として仕えてきた人。忠誠心あつく、剛毅で、懐深く、武士団の尊敬を集めている真の武士。この方でさえ、『否定』の言葉を必要とする事があるのか。
頼忠は棟梁を見返し、はっきりとした口調で言い切った。
「神子姫も四条の神子も、ともに京のために奔走しておられます。そして、必ず、この京を滅びからお救いになられます。間違いございません」
「そうか…」
棟梁は目を閉じ、深く息を吐いた。
「神子姫は嵐山近くにある院の別荘に移られている。私の命だと言えば、そこの警備の者も通してくれるだろう」
「…棟梁、ありがとうございます」
頼忠は深く頭を下げると、足早に兵舎を出ていった。
その背をじっと見送っていた棟梁は、彼の姿が消えた後、小さく苦笑を漏らす。
「相変わらず実直で、生真面目で…、嘘の下手な男だ」
彼は、頼忠を元服する前から知っている。頼忠が誰より尊敬していた彼の師匠を、断罪の為に差し出すように説得したのも彼。以来、感情を封じてしまったかのような頼忠が、千歳の警護をするようになってから、柔らかな表情を浮かべるようになった事に気付かない彼ではなかった。
「…お前なら大丈夫だろう。自分を信じろ、頼忠」
頼忠は馬を駆り、嵐山に向かう通りを走り抜けていた。
途中、出会う人々が驚いた顔で彼を見る。よほど自分は鬼気迫る顔をしているのだろうと、頼忠は他人事のように思った。
不安はまだ残っている。千歳に会ってどうするのか、何を言うのか。だが、それを凌駕する激情が頼忠を突き動かす。
自分に勝真を責める資格などなかった、と頼忠は馬上で思った。勝真の言った事のほうが、ずっと理性的だ。いいや、それどころか、本来は自分が言わなければならない事だったのだ。千歳を取り巻く状況は、あまりに疑わしい。院に仕える者として、院をたばかった疑いのある者を真っ先に糾弾しようとするのは自分の役割のはずだ。
だが、頼忠にはできない。
彼女と共にあった記憶がそれを否定する。脳裏に残る彼女の笑顔が、言葉が、涙が、彼女を疑うことを頼忠に許さない。
頼忠は爪が食い込むほど強く手綱を握りしめた。
ここまで来てようやく、彼女に対して神子としての信頼だけではない、もっと特別な感情を抱いている事に気付いた。
「千歳殿…」
頼忠は湧き上がる感情のままに呟き、馬をいっそう早く走らせた。
嵐山についた頃、辺りはすっかり暗くなっていた。院の別荘があるため、それなりに整備されているが、やはり山道は暗く、荒れている。だが、途中で手に入れた松明を手に、頼忠は器用に馬を走らせていった。
やがて、日が完全に没した頃、別荘の生垣が見えた。
頼忠は安堵の息を吐いて、馬の速度を緩める。門の前に武士がいるはずだから、とりあえず彼らに取次ぎを頼もう。
そう思い、馬首をめぐらせたとき、頼忠はふわりとした感覚が肌を通り過ぎるのを感じた。
「え…?」
覚えがある感覚だと思った。そう、千歳の元へ向かう怨霊が身体をすり抜けた時に似た。
「千歳殿…」
頼忠は素早く辺りを窺った。神経を研ぎ澄ましてみると、ぼんやりと光を放つ霧のようなものが、道の脇の林に流れていくのが見える。物理的な存在ではない。きっと、八葉となる前なら見えなかったもの。
頼忠は近くの木に馬をつなぐと、林の中へ入っていった。
千歳は林を抜けた先にある広い草原の中にたたずんでいた。
辺りから集まる光の霧が彼女を包み、闇の中にその姿を浮かび上がらせている。千歳は目を閉じて、その霧に身を委ねていた。きっと、力の補充をしているのだろう。
頼忠はため息を漏らす。
光に包まれた彼女は、まるで幻想のように美しかった。
やがて、頼忠は意を決して彼女に向かって歩き出した。草を踏む音が響き、千歳がはっとしたように目を開ける。
「誰っ?」
振り返った彼女は、頼忠を見て、大きく目を見開いた。
「頼忠…殿……」
信じられない、とその瞳に書いてある。無理もない事だ、頼忠ですら、自分の行動が信じられないのだから。
「千歳殿……」
頼忠はゆっくりと千歳に近づいていった。彼女はまだ呆然としているのか、その場から動こうとはしなかった。
頼忠が間近に迫り、その姿がはっきりと見えるようになった時、ようやく口を開く。
「どうし、て……」
その声は震えていた。
「…貴女にお会いしたくて参りました」
「私に?」
「はい」
頼忠は頷いて、千歳を見つめた。千歳は戸惑いを隠せないようだったが、次第に落ち着いてきたのだろう、不意に表情を消した。
「何のために?」
「それは……」
頼忠は言いよどんだ。やっと自覚した己の想い。だが、それを告げる事までは思い切れていなかった。
黙ったままの頼忠に、千歳はふいと目をそらした。
「ここは、あなたが来るべき所ではないわ。あなたは白龍の神子の側にいるべき者。もう帰って」
「千歳殿…。貴女は何をなさろうとしているのですか?」
頼忠はやっとそれだけを聞いた。だが、千歳は答えない。
「こんな寂しい所で、一人で」
今度は反応があった。
「いいえ、ここももう移るわ。もっと、力の強い土地に移らなければならない」
「移る? どこへですか?」
「…もうあなたには関わりのない事でしょう。あなたは白龍の八葉だもの。私の邪魔をしないで」
「邪魔、とは何を指すのですか? 私には分かりません、何故貴女と―――」
「今だって、あなたは私が地力を取り込むのを邪魔しているわ」
千歳は頼忠の言葉を遮るように、強い口調で言った。
「帰って。私は白龍の神子とは相容れない。その八葉であるあなたとも。だから…、早く帰って」
頼忠は目を伏せた。
千歳は、この短い会話の中に、頼忠を『白龍の神子の八葉』だと三回言った。頼忠と自分に言い聞かせるように。自分を傷つけながら。
「……申し訳…ありません」
沈黙の後、発した言葉には、苦渋の色が満ちていた。千歳も気付き、戸惑ったような表情が浮かぶ。
「頼忠殿?」
「私は貴女に誓った言葉を違えました。私は、確かに四条の神子の八葉。その使命を果たさねば…なりま…せん」
語尾が震えて消える。
どんな言い訳もできない。彼女を裏切り、傷つけたのは確かなのだから。けれど、けれど。
「ですが、貴女をこんなに悲しませるのなら、いっそ八葉になど選ばれなければ…!」
頼忠は昂ぶる思いを、そのままに言葉にした。だが、言いかけた言葉の意味に気付き、はっと口をつぐむ。
何と言う事を口走ったのだ、私は。
これでは、あの時と同じだ。武士の道に背き、師匠をも失ったあの時と。
あれほど悔やみ、二度と私情には引きずられぬと固く誓ったはずなのに、自分はまた同じ事を繰り返そうとしている。
なんと愚かなのだろう。
「私は…、貴女を……」
「頼忠殿…?」
千歳が頼忠に視線を戻し、その顔を覗き込んだ。彼を満たすのは苦しみの気配。悲しみの色。そして、寂しい色。
千歳は目を伏せた。
「…いいわ、もう。始めから、私は一人でゆくつもりだったのだもの。あなたのせいじゃない。これが私の生まれついた星……」
千歳は寂しげな、けれどしっかりとした口調で言い、くるりと背を向けた。
「さようなら。もう会わないわ、どうか息災で」
そのまま別荘へと歩き出す。頼忠はその背を見つめていたが、彼女が離れるにつれて増す痛みに耐えきれず、渇いた喉から声を絞り出した。
「お待ちください!」
千歳の足が止まる。
「貴女はこれからも…お一人で泣かれるのですか」
長い沈黙があった。
「……いいえ、もう泣かないわ。私は強くなるのだから。そうでなくては、あなたたちに対抗できない」
その声は震えていた。泣かないと言いつつ、その声には、既にかすかな涙が交じっている。
「…千歳殿っ」
頼忠は駆け出した。千歳の前に回りこみ、膝をつく。
「今宵は私を側に置いてください。私が貴女をお守りします。一陣の風さえも、貴女には近付けさせません。せめて今宵は…、貴女だけの為に在ります」
頼忠は強い口調で請うた。
ひどく勝手な願いをしているのではないかと思う。けれど、このまま別れたら、彼女は暗い夜の中、一人で悲しむ。それはさせたくなかった。この姫が自分を必要としない道を選んだのだとしても、せめてもの気持ちを彼女に捧げたい。
頼忠は千歳をまっすぐに見上げた。彼女の瞳はひどく揺れている。驚き、戸惑い、…涙に変わった。
「ひどい…事を……」
言葉と共に透明な雫が彼女の双眸から溢れる。黒曜石のような瞳が涙で濡れ、きらきらと輝いた。
「今宵だけの事なのでしょう? 明日になれば、私はまたあの思いを味わうのだわ。あなたが…、白龍の神子の八葉だと知った時の思いを」
また、一滴涙がこぼれる。あの日を思い出すだけで、今でも胸が締め付けられる。
頼忠が千歳の警護についていたのは、それほど長い期間ではない。けれど、千歳にとって、院御所にいた時の大半を占めるほどの重みを持っている。
彼が義務で自分を守っている事は分かっていた。けれど、自分の力を見ても怖れず、離れていかなかったのは彼だけだったのだ。けれど、少し院御所を空けているうちに、警護の者は変わっていた。その理由を知った時、衝撃で言葉を失ったことを覚えている。その時、どれだけ自分の中で彼の存在が大きくなっていたかを知ったのだ。
白龍の神子。もう一人の龍神の神子。八葉が与えられ、光に満ちた力をふるう娘。
どうして、よりによって彼女だったのだろう。
私には彼しかいなかったのに、あの人はそれすらも奪ってしまった。
あの時ほど、白龍の神子という存在を憎んだ事はない。
やめて、と何度も祈った。
その人を私から取り上げないでと。けれど、その祈りは叶えられなかった。八葉を望んだ時と同じに。
辛くて、苦しくて…。最近になって、ようやく、その思いを振り切る決意をつけたところだったのに。
「ひどいわ……」
千歳は泣き続けた。もう、自分で止める事ができなかった。
「千歳殿……」
頼忠はどうすればよいか分からず、ただ彼女を見つめた。思っていた以上に彼女の傷が深かったこと、この涙は自分のせいなのだという思いが、心にずしりとのしかかる。
「申し訳…ありませんでした。貴女の心も考えず…、自分勝手な願いでした」
のろのろと立ち上がる。もう、自分にできる事はないのだと、深い絶望が心を占める。
頼忠はもと来たほうへと歩き出した。草を踏む音も、風がそよぐ音も、何も耳に入らない。だが、林の入り口近くに来たところで、高い声が夜気を切って、頼忠を引き止めた。
「…待って!」
頼忠は振り返った。千歳が流れる涙はそのままに、にじむ瞳で頼忠を見ている。
「行かないで。私を一人にしないで!」
「…千歳殿」
気付いた時には、頼忠は走り出していた。震える千歳の元へ駆けつけ、その勢いのまま、きつく彼女を抱きしめる。
抱きしめた身体は華奢で、頼忠の腕の中に簡単に収まった。熱い昂ぶりが激しく頼忠を突き上げ、壊れそうなその身体を、彼はますますきつく抱きすくめた。
ああ…、どうして今まで気付かないでいられたのだろう。
こんなにも強く惹かれていたのに。
二人の姿が草原から消える。かすかな秋風が無人の草原を吹き過ぎ、ざわざわと寂しげな音を立てていった。
*
*
*
「う…ん……」
空が夜の色を薄め始めた頃、頼忠は目を覚ました。辺りはひやりと冷たい。すぐに覚醒して隣に目を向けると、そこには誰もいなかった。
「千歳殿…?」
頼忠は身を起こして辺りを見回した。だが、人の気配はない。彼女が寝ていたはずの場所に手を置いてみるが、そこは冷え切っていた。
どこに行かれたのだろう…。
頼忠は不安にかられ、衣服を手早く着込んで立ち上がった。その時、枕元に萩の花が置かれているのに気付く。茎には、文が結び付けられている。
頼忠はすぐさまそれを拾い上げた。花は朝露を含んでいて、ひんやりとした雫が頼忠の手を濡らした。
文には、流れるような字体でこう書かれていた。
『朝露に消ゆるほだしと思ひなすべし』
”朝露と共に消えるような儚い絆だったのだと思ってください。”
千歳殿……。
頼忠は、千歳がもうこの別荘から出てしまった事を悟った。
…やはり、一人で行かれるのですか。もう、私を必要とはしてくださらないのですか。
貴女が望まれるのなら、私は己の立場を投げ打っても構わなかったのに。
頼忠は首を振った。
いいや、望まれたら、などという思いでは、あの方の側にいることは叶わないのだ。
あの方は、私が武士という立場を離れては生きていけぬ事を見抜いておられたのだろう。半端な思いは何より彼女を傷つける。
頼忠は濡れた萩の花を見つめた。
きっと、千歳殿は二度と私に会おうとするまい。そして、私ももう彼女に会いに行く勇気を持てないかもしれない。けれど。
…朝露の絆。露のような儚いもの。それは、忘れて欲しいという意味ですか。
だとしたら、それは無理です。忘れる事などできません。ですが、貴女がそう望むのなら、私はこの想いと昨夜の出来事を心の奥に封じ込め、決して人目にさらすような事はしないと約束しましょう。だから、これから先も、この心に貴女を住まわせる事を許してください…。
頼忠は文を手に部屋を出た。空はまだ紺色に染まっており、昨夜の千歳の瞳のように透き通っていた。
<続>