朝露に消える

―― 2 ――



 『あなたは、八葉じゃありませんか?』
 所用で出かけた先で、頼忠はその少女と会った。そして、言われたのがその言葉。
 言葉の意味が分からずにいると、少女は続けて自分は龍神の神子だと名乗った。
 これには驚かされた。龍神の神子とは千歳のことだ。これは院も認めていること。それに反逆するとも取れることを口にするとは。
 嗜めようと口を開きかけた時、ぴしりと切り裂かれたような痛みが左耳に走った。そして、そこから何か熱いものが頼忠の中に入り込み、体の中に細波が立ったような感覚が走り抜けた。それが全身を巡り、ようやく熱が収まった時、頼忠の左耳には青い石が埋まっていた。
 それは、少女の言によれば八葉の証らしい。だが、院への裏切りともなるかもしれない事を信じるわけにいかず、頼忠はその言葉を否定した。結局、その少女は『協力してくれる気になったら、四条の邸に来てください』と言い残して去っていった。
 その出来事を、頼忠はすぐに棟梁に報告した。棟梁は難しい顔になり、後で指示すると言って、頼忠を下がらせた。
 それが一昨日のこと。
 棟梁からの指示はまだなく、頼忠は兵舎の脇で剣の鍛錬をしていた。
 今日は、離れの警護は必要ない。千歳は、京の西のほうで祈りを捧げる必要があるとかで、三日前から洛西にある院の別荘にこもっているのだ。あと二日ほどで戻るらしいが、それならばと、頼忠は空いた時間を鍛錬に費やしていた。
 そして、昼を過ぎた頃、先輩である武士が頼忠に棟梁が呼んでいると告げた。

 頼忠が棟梁のもとへ行くと、部屋は人払いがなされており、頼忠は身体を緊張させた。重要な用件だという事だ。
 頼忠が棟梁の前に控えると、彼は早速口を開く。
 「頼忠、先日お前が報告した件だが」
 「はい」
 「しばらく、その神子と名乗った者のもとへ行き、その者に協力しろ」
 「え…?」
 頼忠は驚いた。まったく予想だにしていなかった指示だ。
 そんな彼を見て、棟梁は重々しく頷く。
 「無論、その者を龍神の神子と認めたわけではない。しかし、その者は、どうやら帝方の者が後援しているようなのだ」
 「帝方の…」
 「そうだ、分かるな? その者は、こちらの神子に対抗するために帝方が立てた者かもしれん。もっとも、その者がいる四条の方は中立であるし、決め付ける訳にはいかんがな」
 「それを確かめるために、私が行くのですね」
 「うむ。帝方の者が、お前に近づいてきた理由も気になるしな」
 「分かりました」
 確かに、捨て置くにはいかない問題だ。自分が行くのが一番いいというのも分かる。
 だが、次に棟梁が告げた言葉に、そんな思考は飛んだ。
 「警護役はしばらく外れていい。できるだけ、その龍神の神子と名乗る者に接し、またその周囲の者にも当たって、その動向を探れ」
 「え? それでは、ちと――――いえ、神子殿の警護は…」
 「他の者に代わらせる。いいな?」
 頼忠は即答できなかった。
 代わりの者などいるのだろうか。千歳を恐れずに、彼女を守ってくれる者など。いや、神子としての強い力の裏に隠れた千歳の孤独な心を知る者などここにはいない。自分が離れてしまったら、彼女はどうするのだろう。
 頼忠はそう思考し、はっと顔を赤らめた。
 馬鹿な…。何を、思い上がった事を考えているのだ。私など、ただの従者に過ぎぬ。大して役にも立っていないと言うのに。………だが。
 「どうした、頼忠。なんぞ、不満でもあるのか?」
 沈黙する頼忠に、棟梁が怪訝そうに問いかける。頼忠は慌てて棟梁を見返し、無意識にきつく拳を握りしめた。
 「いえ、とんでもありません。…ご命令、確かに承りました」
 ひどく後ろ髪を引かれる思いだが、頼忠の主は武士団の長である棟梁。引いては院。その棟梁の命に逆らうなど許されない。院に敵対するとも取れる者を放っておけるはずもない。それが、彼の使命なのだから。
 「では…、明日より、さっそく四条に赴きます」
 頼忠は、乾いた声で告げた。


 その日以来、頼忠はもう一人龍神の神子を名乗る少女、高倉花梨に協力する事となった。だが、彼はあくまで院に仕える武士であり、龍神の神子は院が認めた千歳だけ。何も変わらない、そう頼忠は思っていた。

 「白河への供ですか。承知しました」
 頼忠は取次ぎの女房の言葉に頷き、花梨を待つため、控えの部屋を出た。
 ここ数日、頼忠は青龍にかけられた呪縛を解くために、花梨と行動していた。
 四神の力を使って、院を呪詛する者がいるという。頼忠は院御所で、院へ呪詛が行なわれている気配があると聞いていたし、この頃は特に『八葉の勤め』に力を尽くしている。
 もう、頼忠が花梨と行動を供にするようになって半月ほどが過ぎていた。その間、頼忠は彼女や周囲の言動を見ていたが、幸いというべきか、残念な事にというべきか、花梨の力は確かなもののようだった。
 五行の気を操る力を持ち、その力でもって京の穢れを祓う。院の呪詛解除にも力を尽くしてくれている。一度、『帝方のあなたが、何故、院のために戦うのか』と尋ねた事もあるが、彼女はにっこり笑って『苦しんでいる人を放ってはおけません。院も帝も関係ありませんよ』と答えた。
 少なくとも、彼女が院に反逆する者とは思えない。いや、このまま、院にかけられた呪詛を祓ったなら、彼女は院を救う者。千歳と同じく。
 頼忠は小さく息を吐いた。脳裏に浮かんだその名に、苦い痛みが胸に広がる。
 千歳殿…。お元気になさっておいでだろうか。
 頼忠は空を見上げ、久しく会っていないその面影を思い浮かべた。
 彼は、花梨に協力するようになってからも、院御所には度々訪れていた。棟梁に報告するためもあるし、時間があるときは武士団の用をこなす。
 しかし、その内に、頼忠は変化に気付いた。
 院御所へ行っても、千歳の姿を見かけない。離れの近くへ行っても、部屋の扉は固く閉ざされ、以前のように彼女が顔を覗かせることはない。
 もともと気軽に出歩く姫ではないが、無性に不安にかられ、会いに行こうかとも思った。だが、用事もなく彼女の部屋を訪れれば、他の者に不審に思われる。千歳は京の為に祈る神乙女であり、頼忠のような武士が簡単に声をかけられる姫ではないのだ。これまで近しく話せたのは、彼女のほうから話し掛けていたため。
 どうすればいいのか迷っている内に、月日だけが無情に流れていた。

 「頼忠さん、お待たせしました!」
 弾むような声がかかり、花梨が庭にいる頼忠のほうへやってきた。その後ろには泉水がいる。控えの部屋にはいなかったから、一足先に花梨を訪ねていたのだろう。
 「おはようございます」
 「おはようございます、頼忠さん。今日もよろしくお願いしますね」
 彼女は、相変わらずの明るい笑顔だ。対照的に、頼忠は曖昧な表情で会釈をした。
 もう一つ問題がある。彼女たちが千歳に不信感を持っている事だ。頼忠たちが花梨に不審を抱いたように、花梨たちも千歳に不審を抱いている。何より、龍神と龍神の神子に仕えるという星の一族の姫が、龍神の神子は花梨だけだと言っているのが大きい。
 だが、そんなはずはない。千歳が龍神の神子でないなど。あの清らかな姫が、院をたばかったなど。
 頼忠はそう言いたかった。だが、あまりに千歳よりの発言をすれば、花梨たちの動向を探ると言う任務に支障をきたす可能性がある。
 『彼女は院を救った方。敵だとは思いません』
 そう弁護するだけで精一杯だった。
 しかし、事態は頼忠の望まぬ方向に進んでいた。


 「あれは…、白拍子」
 泉殿の西端。奥まった林の近くにたたずむ女を見て、頼忠は呟いた。
 ある日、泉殿に不審な気配がするという話を聞いて、花梨たちはその地を訪れていた。そこにあるのは、院への呪詛と関わるもののはず。しかし、そこにいたのは。
 もう一人の同行者、イサトが頼忠の呟きを聞きつけて、彼を振り返った。花梨も同じく頼忠を見る。
 「頼忠、知ってるのか?」
 「…近頃、院のご寵愛を受けている白拍子だ。彼女が何故ここに……」
 「何故って、オレたちは呪詛の気配を追ってきたんだぜ。決まってんじゃねえか」
 イサトが呆れたように言う。だが、頼忠が言いたかったのはそういう事ではない。彼女はここにいてはならない者なのだ。なぜなら、彼女は…。
 「イサトくん、頼忠さん、とにかく、近づいてみましょう」
 「馬鹿、危ないだろ。お前はオレたちの後からついてこいよ」
 イサトが慌てて花梨の肩を掴む。すると、その声を聞きつけたのか、白拍子が振り返った。
 白拍子――シリンは花梨を見て、くっと嘲りの笑いを浮かべる。
 「神子殿のおでましかい。相変わらず何人もの男に守られて、いいご身分だね」
 そう言って、ゆっくりと花梨のほうへ近づいてくる。頼忠は、初めて正面から彼女を見た。見下すような目つき。殊更に豊満な肉体を見せつけるかのような動き。男を従僕としか考えない傲慢な美しさ。
 「おい、お前が院を呪詛しているのか!」
 イサトが近づいてくるシリンを睨みつつ叫んだ。
 「そうだと言ったらどうする?」
 「決まってんだろ、そんな企みはぶっつぶしてやる!」
 「おお、威勢のいいこと。うるさくてかなわないよ」
 シリンが癇にさわる笑い声をあげた。その声音には、侮蔑の色しか感じられない。
 「あんたに何ができるって言うんだい。京の人間など、いずれは、皆あの方に跪くのさ」
 「何分かんねえこと言ってんだ。いいか、これ以上、お前の好き勝手にはさせねえからな」
 「ふふ、だったら、せいぜい無駄なあがきをするがいいよ」
 憎悪と侮蔑に満ちた応酬が続く。そのやり取りを、頼忠は半ば呆然としつつ見つめていた。
 本当に呪詛を行なったのが、この白拍子だというのか?
 頼忠は、シリンの言葉を聞いてさえ、にわかには信じられなかった。
 彼女は千歳を院に引き合わせた者だ。いわば千歳側の者。とはいえ、彼女は院の側に侍っているか、ふらりと出かけている事が多く、千歳の側にはほとんど寄りつかなかったが、それでも千歳に付く者に違いない。
 その彼女が、院への呪詛を?
 「お前が…、本当にお前が院を呪詛しているのか!」
 頼忠はたまらず叫んだ。シリンがそんな彼に目線を移し、口唇の端をつり上げる。
 「だから、何だと言うんだい? あんな愚かな男、さっさと死んでしまえばいいんだよ」
 「なんと…いう事を」
 頼忠の胸をひどい衝撃が襲う。
 犯人が彼女であってはならない。それなのに。
 「さ、あたしはあんた達の相手なんかしてる暇はないんだ。仕掛けはもう済んだ。そんなにあの老いぼれが大事なら、せいぜい頑張ってみるんだね」
 シリンが再び高笑いをする。袖を広げ、舞うようにくるりと旋回し、その次の瞬間には彼女の姿は消えていた。
 「な…っ!」
 イサトが目を見開く。
 「なんだよ。あいつ化け物か!?」
 「化け物…?」
 確かに、今の業は人間技ではない。白拍子が化け物で、院を呪詛していて、彼女は千歳殿の…。…いや、違う。たとえ、あの白拍子が呪詛を行なったのだとしても、千歳殿は関係ない。
 「とにかく、この辺りを調べましょう。呪具が埋められているかもしれません」
 頼忠は気を取り直して、花梨にそう進言する。賛成した二人と共に周囲を調べながら、頼忠はひどい不安が胸を覆うのを感じていた。

 そして、その不安は当たった。

 イサトは知らなかったが、あの白拍子が千歳を院に引き合わせたというのは、わりと知られている話だ。
 シリンが呪詛の犯人である事はすぐに他の八葉や紫姫に知らされ、それはひとつの疑問を彼らの脳裏に焼き付けた。
 『あの白拍子が関わっているとなると、彼女が連れてきた院の神子も疑わしいのではないか』、と。



 その後、花梨は見事に院に憑いていた怨霊を祓い、帝と院の両方から龍神の神子と認められる事となった。
 それに従って、頼忠は棟梁から『四条の神子に仕え、その身をお守りせよ』という命を受けた。また、花梨の住む棟の警護も任された。そのため、院御所へ行く機会は格段に減った。
 院御所へ行っても千歳には会えないのだが、行けば、少しはその様子も知る事ができる。しかし、それすらも難しくなってきた。
 ただ、ひとつ救いなのは、院がシリンの件を知っても、千歳への信頼を変えなかった事だ。彼女はシリンにだまされただけだと言い、龍神の神子としての扱いもそのまま。頼忠はほっとした。
 そう。自分には判断できかねるが、千歳と花梨、どちらも京の為に精一杯戦ってくれている。二人ともに龍神の神子。それでいいはずだ。二人が協力するという道もあるのではないか。
 頼忠が考え込んでいると、ふと、邸の門の辺りが騒がしくなってきた。誰かがこの邸を訪れてきたようだが、それだけにしては騒がしい。
 何か起こったのか…?
 事件と見て、頼忠は瞬時に理性を取り戻し、騒ぎの元へ注意を払った。すると、ほどなくして、表情を強張らせた検非違使別当・藤原幸鷹が、廊下を彼らしからぬ乱暴さで渡ってくるのが見えた。
 「別当殿」
 頼忠が声をかけると、幸鷹ははっとしたように振り返る。
 「頼忠ですか。よいところに」
 「何事かあったようですね。もしや、また呪詛でも…」
 固い表情の頼忠に、幸鷹は重々しく頷いた。
 「院に憑いていた怨霊が復活しました。すぐに神子殿に知らせ、祓いにいくところです」
 「まことですか!? ほんの数日前に祓ったばかりではありませんか」
 「ええ。常になく早い。もしかしたら、何者かの思惑が関わっているのかもしれません。…いえ、今は詮索している時間はありません。既に、泉水殿とイサトはぬえ塚に向かっています。あなたも、私と神子殿と共に向かってください」
 「は。承知しました」
 頼忠は答えると同時に、身を翻した。


 ぬえ塚は、ひどい瘴気がたち込め、昼間だと言うのに、うっそうとした雰囲気をかもし出していた。
 ひどく気分が悪い。嫌な感情を取り出して固めたらこうなるのではないかと思うような。
 そんな黒々とした霧の中を駆け抜け、彼らはそこで待っていた泉水とイサトと合流した。
 「泉水さん、イサトくん!」
 花梨が声をかけると、ぬえ塚の様子を窺っていた二人はほっと微笑んで振り返る。
 「神子、お待ちしていました」
 「遅くなってごめんなさい。怨霊の様子は?」
 「私たちだけで近づくのは危険ですので、ここで見張っておりましたが、まだ動き出した様子はありません。ですが…、以前より力が増しているように感じます」
 「そうですか…」
 イサトが焦れたように瘴気の元を指す。
 「早く行こうぜ。さっきから、どんどん瘴気が強くなってて、やべーんだよ」
 「…分かった。行こう」
 花梨が駆け出す。もちろん、八葉たちも後に続く。『京に仇なすもの』を倒すために。
 走るにつれて、怨霊がその黒い姿を顕わにする。そして、その怨霊の前には人が立っていた。
 え…?
 頼忠の鼓動が高鳴る。その人物は、彼らに背を向けており、顔は見えない。だが、それは間違いなく――。
 その人が、彼らの足音を聞きつけたのか、ゆっくりと振り返った。
 はっと、その目が見開かれる。
 「あなたたちは……」
 千歳、だった。
 千歳殿が、何故ここに…。
 頼忠は困惑した。だが、同時にほっとしていた。久し振りに見る彼女は変わりない様子に見えた。だが、表情は強張っている。そして、駆けつける彼らに同じく強張った声で言葉を発した。
 「白龍の神子…。何をしに来たの?」
 冷たい声音だった。彼女らしからぬ――いや、幾度かこんな声音を聞いた事がある。家族や己の力について話す時の、ある意味達観した、諦めたような声音。
 「あなたは……院の龍神の神子だよね」
 今度は、花梨が言葉を発した。彼女は千歳の顔を知らない。だが、状況と千歳の様子から悟ったらしい。
 「初めまして、だね。あ、あのね、私、あなたに会いたかったんだ。話したい事がたくさんあって…」
 「私には話す事などないわ」
 千歳はすげなく言い放った。その冷たさに、花梨が驚いたように身じろぎする。
 更に千歳は続けた。
 「来ないでほしかった。邪魔されたくないのに」
 これには、全員が反応した。邪魔をされたくない、とは何を指しているのだろう。
 頼忠も不安が胸を覆うのを感じつつ、千歳を見つめた。いいや、それまでもずっと見つめていた。
 彼女が自分を見てくれる事を期待していた。だが、彼女の眼差しは頼忠に気付かないかのように、花梨一人に注がれている。
 その時、幸鷹が口を開いた。
 「もしや、あなたが、この怨霊を復活させたのですか?」
 また全員が反応する。
 これは、院を呪っていた怨霊。
 もし、彼女が肯定したら、それは院を呪っている事を肯定したも同じ。
 しかし、息を呑む彼らに対し、千歳は逆に問い返した。
 「…分からないの? この京がどれほど歪んでいるか。どれほどの絶望が、この地を覆っているか」
 「何を…言っているの?」
 花梨が戸惑い顔で問う。だが、千歳はそれきり口を閉ざした。代わりに答えるように、彼女の後ろの怨霊が不気味な唸り声を上げて、その身をくねらせた。
 「神子殿、怨霊が!」
 怨霊は今にもその牙を剥こうとしていた。花梨は頷き、怨霊のほうへ駆けていった。
 「そこをどいて! 怨霊を封印するから!」
 「やめて! この怨霊はここにいなければならないのよ!」
 千歳が叫ぶ。だが、その脇をすり抜けて、花梨は怨霊の前に飛び出していった。怨霊がそれに応じて彼女に襲いかかってくる。
 頼忠はそれを見て刀を抜き放った。花梨を守るという使命のために。
 「やめ…て……」
 だが、戦闘に飛び込む瞬間、千歳の悲しげな声が頼忠の耳に飛び込んできた。
 はっとして彼女を見ると、千歳はひどく悲しい顔をしている。
 …どうして、そんな顔をなさるのですか。怨霊を封印する事は、その怨霊に功徳を積ませることになるという。ならば、それは貴女のお心にかなうはずではないのですか。
 千歳の悲しげな顔に、頼忠の胸がずきりと痛む。何か、自分は悪いことをしているのではないかという思考が脳裏を走る。しかし、戦闘が始まると、そんな事を考えている余裕はなくなった。
 怨霊は、泉水の言葉通り、以前戦った時より力を増していた。花梨の五行の力を借り、少しずつ打撃を与えていくが、なかなか動きが鈍らない。
 それでも、他の者と力を合わせ、攻撃を繰り返しているうちに、とうとう怨霊の動きが止まった。
 「花梨、今だ!」
 「うん!」
 花梨の手の平から光が溢れ出す。龍神の神子にのみ許される封印の力。
 怨霊は光に包まれ、しばらく苦しげにのた打ち回っていたが、やがて一枚の札に変じた。
 「よおし! これで、この怨霊は悪さできねえぜ」
 イサトが嬉しそうに声をあげる。頼忠もほっとしつつ顔を上げ――、千歳の姿が見えない事に気付いた。
 はっとして辺りを見回すと、千歳が森の中へ駆けていくのが見える。
 気付いた時には、彼は走り出していた。
 「おい、頼忠!?」
 「すみません、神子殿をお願いします!」
 頼忠は木陰に消えた彼女を追い、必死に駆けて行った。

 「お待ちください、千歳殿!」
 森に入って少しのところで、頼忠は彼女を見つけた。千歳も必死に走っていたが、頼忠の足に敵うはずもなく、次第にその距離が詰まっていく。
 あと少しで追いつけるという所まで迫った時、千歳が不意に足を止めた。
 「……私を追うのね」
 「え?」
 頼忠も足を止める。千歳がゆっくりと振り返り、眼差しが彼の瞳を射抜いた。
 
「白龍の神子を守るために、あなたまでが私を追うのね」
 頼忠が硬直する。
 それは、非難と、何よりも深い悲しみが混じった瞳。
 頼忠が動けないでいると、その隙に、千歳は再び駆け出した。だが、頼忠はもはや追いかける事ができず、その場に立ち尽くしていた。


<続>


 

[前へ]   [次へ]