樺桜 (前編)

             翠 はるか


 うららかな春の光が心地よい午後だった。
 薫りを含んだ風がかすかにそよぎ、道行く人にとても優しい。
 だが、その温かな風景には全くそぐわない仏頂面をした男が、土御門大路を歩いていた。
 年の頃は二十歳前後。顔立ちは少し幼さが残るものの、なかなかに整っており、明るめの青藍色の狩衣に、すらりとした長身を包んでいた。
 彼の名は森村天真。
 三年前、友人と共にこの京に召喚された彼は、鬼との決戦後、妹と共にそのままこの地にとどまっていた。
 無論、帰ることも出来た。だが、彼はそうしなかった。そうしたくない理由が出来てしまったから。
 京に残ることを決めた彼は、親しかった土御門邸の武士団の者から仕事を紹介してもらい、郊外の小さな家を借りて、妹と二人で住んでいた。
 今日も一仕事終えたばかりである。珍しく予定通りに終り、報酬もしっかりともらった。
 だが、天真の気持ちは鬱々として、一向に晴れなかった。
 ……ふう。
 天真は小さくため息をついた。
 ――――昨日、天真の住む家に、今は武士団の棟梁の奥方におさまっているあかねがやって来た。
 あかねが来ると蘭も喜ぶし、天真自身もあかねと話すのは楽しい。
 だが、昨日に限っては、彼女の訪問はあまりありがたいものではなかった。
 天真の顔を見るなり、彼女は不満そうな顔で言った。
 『ねえ、天真くん。最近、私のところにも、藤姫のところにも来ないよね。そんなに仕事が忙しいの? でも、週一の休みは絶対に取るって言ってたよね。今度、遊びに来てよ。藤姫も寂しがってるよ』
 言葉上は遠慮しているようだが、目と口調は「次の休みには、絶対に来い」と訴えていた。しかも、そこで蘭が「そういえば、明日は午前中で終わるって言ってたよね」と口を挟んでくれたものだから、あっという間に土御門邸を訪問することを約束させられてしまった。
 天真は、もう一度深いため息をつく。だが、ついたところで状況が変わるはずもなく、十数分後、天真は土御門邸の門の前についていた。
 ここへ来るのは、およそ二ヶ月ぶりのこと。その時には咲いていなかった桜の花が、通りにも散りつもっていた。
 ……行くか。
 顔見知りの門番に声をかけて、邸の中へ入る。勝手知ったる庭を歩きながら、さてどうしようかと思っていると、不意に庭の奥から声をかけられた。
 「天真、来ていたのか」
 「頼久」
 天真は振り返る。頼久が微笑を浮かべながら、彼のほうに近づいてきていた。
 「よ。久し振りだな」
 元同じ青龍として働いていた源頼久は、一年前父の後を継ぎ、土御門邸の武士団をまとめる棟梁となっていた。
 「ああ、元気そうだな。あかね殿から息災にしているとは聞いていたが、顔を合わせるのは……二月ぶりくらいか?」
 「お前とはそんなもんかな。ところであかねは? 自分の部屋か?」
 「ああ。今日はお前が来るというので、朝から何事かやっておられたぞ。だが、先に藤姫様の所に行くのだろう? 私が先に行って知らせてこよう」
 「あ、いや……」
 ちょっと待て、と言おうとした時には、頼久の姿は庭の奥に消えていた。
 残された天真は、頭をかきながら目を閉じる。
 ……まあ、ここまで来て、寄っていかない訳にはいかねえんだしな。行く…か。

 天真が藤姫の部屋の近くまで来た時、一人の女房が廊下を歩いていた。
 その女房の顔を見た天真が、思わず「うっ」と呟いた時、向こうも天真に気付いて、みるみる険しい表情になった。
 「おや、いらしていたのですか。また、姫様に挨拶しに参られたので? 姫様からは、何も伺っておりませんが」
 あからさまにトゲのある言い方だ。だが、天真はできるだけ表情を変えないように努めながら頷いた。
 「ああ。さっき、頼久に先触れに行ってもらった」
 「……そうですか」
 女が落胆した表情になる。おそらく天真がいきなりやって来たのであれば、何のかのと理由をつけて、追い返すつもりだったのだろう。
 追い返す訳にはいかなくなった女は、今度は天真の服装に目をとめた。
 「時に、またそのような略装で参られたのですか? あれ、しかもすこし汚れておられる。仮にも大臣家の姫君に会われるのですから、もう少し気をつけていただかねば、姫様の名誉にも関わると以前にも申し上げたはずですが」
 毎回毎回、言ってるだろーがよ。
 天真は心の中で毒づいたが、やはりそれを表に出すような事はしない。そんな事をすれば、相手の思うツボだ。
 「……悪かった、気をつけるよ。それじゃ、もう行かせてもらうぜ。藤姫を待たせるわけにはいかないからな」
 「……分かりました」
 藤姫の名前を出すと、女は不承不承といった感じで頷き、母屋のほうへ去っていった。
 天真はやれやれと呟いて、近くの階から廊下に上がっていった。

 さっきの女は、藤姫の母親が生きている頃から、ここに仕えている女房だ。最古参の女房の一人として、この離れの切り盛りをしている。
 家庭は持っておらず、幼くして母を亡くした藤姫を、実の娘のように大事にしている。藤姫も彼女の事を、女房たちの中でも特に信頼している。       
 だが、彼女は天真に良い感情を持っていなかった。
 天真が八葉として、この邸に住まっていた間は良かった。しかし、彼が役目を果たした後も京に留まり、藤姫と個人的に付き合うようになってくると、彼女の態度は変わった。
 天真が藤姫に近づくのをひどく嫌い、彼に辛く当たる。
 その裏には、娘を取られる寂しさ、というのも少しはあるだろう。だが、彼女が何より気に入らないのは、天真に身分がないことだった。
 八葉として龍神の神子を助け、京を救ったとはいえ、今の彼は無位無官の者にすぎない。時には放免らに交じって仕事をする事もあるし、平安貴族が重んじる詩歌や管弦などの教養も身につけていない。
 そのような者が、特殊な生まれとはいえ、左大臣の姫である藤姫に近づくのが、彼女は許せないのだ。
 しかも、当の藤姫が、彼に思いを寄せているとあっては。

 女房たちのまとめ役である彼女がそんな風であるから、離れの女房たちは、どこか天真によそよそしい。藤姫の父左大臣は何も言ってこないが、実際どう思っているのか。
 その事を、天真は重々承知していた。土御門邸に来るのが憂鬱だったのは、そのためだ。
 当初は、訳が分からず腹立てていた。訳が分かった時は、更に腹が立った。けれど、ここの常識からすれば、確かに自分が大臣家の姫君に直接会えるというのは、一種異常なことなのだろう。年を重ね、京の生活に馴染んでいくにつれ、さすがにそう納得せざるをえない。
 けれど、だからといって、あっさり引き下がるという訳にはいかない。そうするには、少し深く関わりすぎた。
 結局、自分にできるのは、これ以上藤姫の周りの者と折り合いを悪くしないことくらいだ。彼女らと争えば、また自分の評価を下げるだけだし、何より身近な者同士の争いは、藤姫を悲しませる。
 けれど……、そうしてみたところで……。
 「……………」
 天真が小さくため息をついたところで、藤姫の部屋にたどりついた。
 天真は心持ち姿勢を正して、中に声をかける。
 「藤姫、おれだ。入るぜ」
 反応は、すぐに返ってきた。
 「天真殿。お待ちしておりました」
 奥の座の御簾の向こうから、鈴の音のように美しく、弾んだ声がかかる。
 「……よっ。元気だったか?」
 御簾の向こうにうっすらと見えるシルエットに、天真は複雑な気持ちで挨拶した。
 それから、庇の間に用意されていた円座に腰を下ろす。
 「はい。天真殿はいかがお過ごしでしたか?」
 「ん? まあ、大して変わらねえよ。仕事して、飯食って、蘭に怒られたり、あかねに怒鳴られたり」
 「まあ」
 おどけたような天真の口調に、藤姫がくすくすと笑う。
 「本当にお変わりなさそうで安堵いたしました。近頃とてもお忙しくしていらっしゃるようなので、お身体でも壊されていては、と」
 「…ああ、なんともねえよ。見ての通りだ」
 天真が両手を広げて見せると、藤姫は微笑みながら頷いた。
 「ええ、本当に。元気なお姿が見られて嬉しいですわ」
 小さくふふっと笑う。その声がいつもより低く耳に響いて、天真は一瞬どきりとした。
 「あ…、まあ、な。そんな心配するなよ。そう簡単に壊れるような身体はしていないから」
 「ですから、心配なのですわ。いつもそう言って、無茶な事をなさるのですもの」
 「え…、いや……」
 天真は口ごもった。そんな事はないと否定できないほどには、本人も自覚している。
 「うふふっ。ですから、お身体には充分気をつけてくださいませね」
 「……………」
 天真が、わずかにむくれて藤姫を見る。
 「なんか、お前、口がうまくなったな」
 「…えっ? ど、どういう意味ですの?」
 藤姫の口調に戸惑いが混じる。その反応に、天真の口元に笑みが戻った。
 「いや。大人になったなってこと」
 「え? そんな…、そんな事ありませんわ。まだ至らぬところばかりです」
 「最初に会った頃からそう言ってるよな、お前は」
 天真の笑みが深くなる。
 最初――――天真たちが、こちらの世界に来たばかりの頃。
 藤姫は、まだ十歳だった。
 血によって背負わされた使命を果たそうと、背伸びしているのが、天真には痛々しく見えて、時々、声をかけたりしていた。
 けれど、彼女は決してか弱いばかりの少女ではなかった。
 力不足に悩む事はあっても、やるべき事から目を逸らしたりはしなかった。
 きっと、この少女は自分なんかよりずっと強い。そう分かった時、天真は多少なりとも少女を「かわいそう」に思っていた自分を恥ずかしく思った。
 あれから、もう三年経つ。
 天真は京にすっかり腰を落ち着けて、暮らしに困らないほどの仕事と収入を得ている。
 そして、藤姫は……。
 天真の瞳の色が、だんだんと深くなっていった。
 声から幼さが少しずつなくなって、落ちついた感じになってきている。
 受け答えも、元々利発だったところに、情趣が加わってきている。
 藤姫は、成長している。
 ふとした事からそれに気付くたび、天真の心には、先程の古参女房と相対したときとは別の苦さが満ちるのだった。
 はあ……。
 天真は小さくため息をついた。
 また、鬱になっているのがばかばかしくて、思考を追い出すように軽く頭を振った。
 その時、衣擦れの音がして、それと共にふわりとしたいい香りが漂った。
 「天真殿。やはり、どこかお加減が悪いのではありませんか?」
 突然、間近で声が響き、天真は驚いて顔を上げた。いつの間にか、藤姫が御簾のうちから出て、天真のすぐ前に座っている。
 「そのように沈んだお顔をなされて」
 言いながら、藤姫は両手で天真の頬を包み込んだ。
 「えっ? お、おい……」
 「熱は……ありませんわね」
 「べ、別に何ともねえよ」
 頬に触れる暖かみに動揺して、慌てて手を離させる。
 「そうですか?」
 「ああ。…ほら、御簾ん中戻れよ。また、姫君らしくないって怒られるぜ」
 「まあ、天真殿がそのような事をおっしゃるなんて」
 藤姫がおかしそうに笑う。
 部屋にこもってるばかりなんてつまらないと言って、最初に藤姫を外に連れ出したのは彼だと言うのに。
 「…ま、そうだけどさ……」
 ばつが悪そうにそっぽを向く天真に、藤姫はますます楽しげな表情になった。
 時折、彼が見せる子供のような表情が、藤姫は好きだった。それだけでなく、ただ話しているだけでも、藤姫には楽しい時間なのだけれど。
 彼といると、藤姫は他の誰といるより安らげる。彼は藤姫の弱さを知っているし、藤姫も彼の弱さを知っている。そして、彼は時々でも、藤姫という存在を必要としてくれる。天真の前では、心をつくろう必要がないし、隔てを置きたくないと思うのだ。
 「それでは、おっしゃる通り中に戻りますわ。…けれど、本当にお加減が悪いわけではございませんのね?」
 「ああ、大丈夫だ」
 「それでは」
 藤姫が立ち上がって、御簾の内に戻る。天真は軽く口唇をかんで、それを見ていた。
 彼女が気遣ってくれる分、彼女の笑顔がきれいな分、辛さはどんどん増していく。
 耐え切れなくなって、天真は元の席に座った藤姫に告げた。
 「悪い。俺、もう行くわ。あかねの所にも寄らないといけねえし、日が暮れる前に帰りたいしな」
 天真がそう言ったとたん、藤姫の表情が寂しげなものに変化する。御簾の内のことなので、天真には見えない。
 「そう…ですか。そうですわね」
 だが、口調からその変化を感じ取って、天真の心に苦いものが走る。その後、藤姫が努めて明るい声を出したりするから余計に。
 「今日はお会いできて嬉しかったですわ。気をつけてお帰りくださいませ。……また、お時間ができたら、いらしてくださいませね」
 「……ああ。また、な」
 天真は立ち上がり、出口に向かった。その背に、藤姫ははっとしたように声をかけた。
 「あ、そうですわ。今度は蘭殿もお連れしてくださいませ。新しい絵巻物が届きましたの。一緒に眺めながら、お話でもしたいですわ」
 天真は苦笑する。いつだって、彼女は気遣いを忘れない。
 「ありがとう、そうするよ。蘭も喜ぶだろうな。……それじゃ」
 もう一度、御簾に映るシルエットを目に焼き付けた後、天真は逃げるように早足で、藤姫の部屋を出て行った。

 

<続>


 天真くん、若いねえ(笑)
 さてさて、この二人は上手く結ばれるのでしょうか(^^。

 

 

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