花嵐

翠はるか


 土御門邸は慌ただしさに包まれていた。
 先送りになっていた神子たちが帰る日が決まったのだ。
 二人の神子は完全に回復し、障害となるものはもうない。後は龍神と日の相性などを考慮して、藤姫と泰明で日取りを決めた。
 一週間。
 それがこの地で過ごす事のできる残された時間だった。

 天真は廊下を早足で歩いていた。
 身ひとつでやって来たのだから、別に大した支度もないと思っていたのだが、この地で作り上げたものは意外にも多かったらしい。帰る日が決まってから倍増した客の来訪の相手や、この邸にいる間に使っていた道具の整理などに思いがけず時間を取られる羽目になっていた。
 「いろいろ手土産をくれたりすんのはありがたいんだけどさあ…」
 こぼしながら、ふと庭に目をやる。
 盛りの過ぎた花々がゆっくりとその身を散らしている。その様子に、ふと先日の怪異を思い出す。
 「結局何だったんだろうな、あれは……」
 京人を翻弄するかのように京を巡った後、突如として消えた花嵐。
 原因どころか、一度も目にすることもないまま幻のように消えてしまった。
 頼久に言われたように、あまり気にする必要はないとは思う。それより、帰った後の騒ぎや煩雑な手続きのほうを考えるべきだろう。だが、どうにもすっきりしないのだ。
 やっと全てが終わったと喜んでいたところに、冷や水をかけられたような気分だ。
 だが、確かに気にしても仕方のない事だと分かっている。もう、気持ちを切り替えたほうがいい。
 天真は軽く頭を振ると、自分の部屋へと急いだ。
 その途中、廊下を幾つか曲がったところで、ぼんやりと歩いている少年を見つける。
 「詩紋、何してんだ?」
 「あ、先輩…っ」
 声をかけると、詩紋はびくっと身体を震わせ天真を振り返った。その反応の大きさに、天真は首を傾げる。
 「どうかしたのか? なんか様子が変だぞ」
 「う、うん……」
 「なんか悩み事か? まあ、帰る日が決まってから、いろいろごたついてるしな。その辺りでなんかあったか? なんなら力貸すぜ」
 天真が屈託なく笑う。その様子に、詩紋は困ったように眉根を寄せた。
 「違うんだ、僕の事じゃなくて……」
 「それじゃ、なんだ?」
 「先輩、…僕、変な噂を聞いたんだ」
 詩紋が切り出す。そう言われて、咄嗟に天真の脳裏に浮かんだのは、先日の怪異だ。
 「まさか、また変な事件が起こったのか?」
 「え? あ、違うよ。そうじゃなくて…、妹さんの事」
 「蘭の?」
 天真の表情がかすかに強張る。
 「あいつがどうしたんだ?」
 「うん…。でも、この話を変な噂って言うのは、失礼かもしれない。でも、ちょっと驚いて」
 「なんだよ、はっきり言えよ。蘭がどうしたんだ」
 詩紋はまだ迷うようにしていたが、やがて思い切ったように口を開いた。
 「女房さんたちが噂してたんだけど…、その…、友雅さんが……」
 「……友雅?」
 「その…最近、蘭さんに通ってるって……」
 「え?」
 天真の思考は一瞬空白になった。
 その言葉の意味がしみ込んでくると、今度は一気に感情が爆発する。
 「通ってるって、あいつが、蘭に!?」
 大声を上げながら、詩紋の両肩を強くつかむ。
 「う、うん…。それで、僕、女房さんたちに蘭さんの事とかちょっと聞かれて…。天真先輩、知らなかったんだ」 
 「嘘だろ…」
 天真の手から力が抜ける。頭の中で詩紋の言葉を反芻する。
 確かに、友雅に艶聞が絶えないのは知っていたし、実際蘭に近づいてほしくないと色々画策したりもしたが、まさか本当にそんな事になるとは思っていなかった。
 「そんなの…、一体、いつから」
 天真は苛立たしげに髪をかき混ぜた。
 いつもの友雅のクセだと思った。蘭はもうすぐ京からいなくなる身だ。一時の相手にちょうどいいとでも思ったのかもしれない。
 友雅が本気で蘭に惚れてるなんて考えは浮かんでこなかった。
 一緒に戦う内に仲間としての信頼は育っていたが、男としての信頼は別だ。
 天真は今さらながら、もっと蘭の様子を見ているべきだったと思った。毎日顔を合わせていたのに、全然気付かなかったなんて。
 「天真先輩……」
 詩紋が心配げに声をかけてくる。
 「ああ…。教えてくれてありがとよ」
 「うん…。どうするつもりなの?」
 「友雅に確かめてみる。今日、あいつ来てるか?」
 「ううん。でも、確か明日は来るはずだよ。あかねちゃんに届け物だって」
 「よし…」
 天真は決意をこめた表情で頷いた。


 朝まだきの冷たい空気が友雅の頬を撫でる。その感触で友雅は目を覚ました。
 同時に腕の中に暖かい重みを感じ、ふと笑みを漏らす。
 一人寝の気楽さと引きかえに得られるそれは、いつも、一瞬でも虚ろを忘れさせてくれる。
 天真も詩紋も今日は友雅は来ないと思っていたが、実際には、その夜のうちに訪ねてきていた。蘭の部屋へと。
 最初の夜を除いては、いつも彼は夜陰に潜んで彼女の部屋を訪ねてくる。そして、夜を過ごし、朝を迎える。
 周囲の憶測とは無縁に、二人は穏やかな逢瀬を重ねていた。
 友雅はそっと蘭の頬を撫でた。
 蘭はまだ四つ辻への散策を続けている。だが、その気の乱れは明らかに小さくなっていた。友雅の霊力のおかげというより、受け入れてくれる人が出来て、蘭自身の心が落ち着いたせいだろう。
 だが、予想外と言うか…。
 それにつれて、時折、蘭からは神気を感じるようになった。彼女の気が高まった時だけだが、取り込んだ邪気に混じって、明らかに清浄な神の力を感じる。元々それが本来の力なのだろう。それがまとわりついた邪気の合間に見え隠れする様は、危うげで心を高鳴らせる。
 最初、自己にのみ向けられていた彼女の心も、次第に友雅のほうを向き始め、時々友雅をもはっとさせるような受け答えも見せるようになっていた。
 友雅は指先を滑らせると、蘭の髪を手ですくい、指の間からさらさらとこぼした。
 月夜ならば、この髪は月光を孕んで絹糸のように艶やかに輝く。
 彼女には本当に月が似合うと思う。
 「この花が咲き誇る様を見られないのは、少々残念だね……」
 友雅が小さく呟く。すると、その声に反応するかのように蘭のまぶたが痙攣した。
 「……ん……」
 「ああ、起こしてしまったかい?」
 「あ……」
 蘭の目が開き、間近で自分を見つめている瞳と出会う。
 蘭は身を起こしかけ、素肌に袿をかけているだけの自分を思い出す。咄嗟にくるりと友雅に背を向け、袿で身体をくるんだ。暗がりでは見えないが、おそらく頬を染めている。
 そんな彼女を、友雅は背中越しに抱きしめた。
 「あ…」
 「まだ陽の光は遠い。恥じ入る必要はないだろう。それとも、明く(飽く)る空に、既に君の心は隔てられてしまったと言うのかい?」
 友雅が楽しげに、かすれるような低い声で囁きかける。言葉遊びをしたい時の、彼の癖だ。
 「月明かりだけの暗い林でも、あなたは私を見出して(乱して)しまったもの。こんな薄衣など隔てにはならないでしょう?」
 友雅は笑って抱きしめる腕に力をこめた。蘭の額や髪を彼の口唇が撫でる。
 蘭はくすぐったそうに身を縮ませながら、友雅に玩ばれて乱れた髪を直した。
 そのまま言葉なく過ごしていると、虫の鳴き声だけが耳に響く。
 「静かね…」
 「おや。夏虫たちの情熱が君には届かないかい」
 「虫の声は調和を乱さないもの。夜明けは好きよ、気が鎮まる時分だから」
 「なるほど。今のこのお邸は喧騒が増しているからね。あれやこれやと人も贈り物も溢れて、廊下を通るのもすんなりとは行かない」
 それはもちろん誇張であるが、去る者と見送る者との間で盛んに品々が行き交いしているのは事実だ。そうする事で忘却を拒むように。
 人は殊に別れの前、物に心を宿そうとする。目に見える確かな物が欲しいのだろう。友雅にはそれすらも虚ろに見えるが、そうせずにいられないのが人ならば、それはとても愛しい事のようにも思えた。
 「私も君に白い衣を…、氷の重ねを贈ろうか。冬の衣なのだが、きっとよく似合う…」
 その様子を想像でもしているのか、語尾が途切れて消える。蘭はくすりと笑った。
 「嘘でも、惜しむ言葉なんて言わないのね」
 「私は冷たい男だそうだからね。君もそう思うかい?」
 蘭はにこりと微笑んで、友雅と向き合うように身体を反転させた。
 「ええ。だからいいの。私、優しい人なんて…キライ」
 「君もなかなかに手ひどい事を言うね」
 「だから、いいんでしょう?」
 友雅は微笑み返すと、蘭を抱き起こして蔀の側に移った。半蔀を開けると、夜露に濡れた庭が視界に広がった。
 忍び込んできた冷気に肩を震わせる蘭を、友雅は腕の中に抱き込め、薄まりはじめた空の青を共に見上げる。
 「ほら、蘭。有明の月が出ているよ」
 友雅の示した先には白い月がある。
 夜明けの月は光がなく、ただ存在だけがある。
 「君の故郷はあれほどに遠い」
 「そうね。本当に遠くまで来たのね」
 蘭は目を閉じる。
 この地に来た日の事は、今でもはっきりと覚えてる。遙か昔の事のように思えるけど、記憶は薄れていない。
 「君が降臨する様はどんなものだったんだろうね」
 蘭はちらりと友雅を見上げた。
 「聞いた限りでは、あかねちゃんとそう変わらないわ。目が覚めると祭壇に横たわっていて、目の前にアクラムがいた。違うのは、龍の宝玉がなく八葉がいなかった事くらい」
 最後の言葉は、蘭がずっと気にしていた事だろう。だが、それを語る彼女の口調に歪んだものはもう感じなかった。
 「そうか。白龍の神子の降臨は楽しかったな。鬼の首領を拒んだ彼女は、神力を虹色の光として発現させ、私たちに龍神の力を分け与えた。黒龍の神子はやはり美しく降臨したのだろうか」
 蘭が拗ねたように、友雅の髪に指を絡めて引っ張る。
 「本当に冷たい人。私と彼女を平気で比べるんだから」
 友雅は小さく笑って蘭の肩を引き寄せ、優しく口唇を重ねた。


 その後、明るくなりきらないうちに、友雅は蘭の部屋を出た。
 車宿へ向かってしばらく歩いたところで、人影が彼を阻む。
 「おや、天真」
 友雅が相手に気付いて声をかけると、その相手はしかめっ面で彼を見返した。
 「おや、じゃねえよ。……本当だったんだな」
 「さて、何を確かめたいのか分からないが」
 さりげに答えながら、友雅は彼の身体が夜露で濡れている事に気付く。
 「まさか、昨夜からそこにいたなんて事はないね?」
 天真はばつが悪そうに顔を背けた。
 昨夜からではないが、似たようなものだ。
 明け方目が覚めて、庭で風に当たっていたら、蘭の部屋の半蔀が開いているのに気付いた。起きているのかと思って近づいていったら声が聞こえて。
 確かめるつもりではいたが、こんな確認の仕方は嬉しくない。
 「ちょっと、庭に付き合え」
 「…まあ、いずれ来るだろうと思っていたけどね」
 天真が目線で庭の奥を示すと、友雅はゆるりと笑った。

 「どういうつもりなんだよ」
 建物からある程度離れると、天真はさっそく切り出した。
 「どういう、とは?」
 「ここまで来て、とぼけるんじゃねえよ」
 「君にそんな怖い顔をされる覚えはないからね」
 やんわりと答える友雅に、天真は更に眉をしかめた。
 「俺たちはもうすぐ自分の家に帰るんだ。そしたら、二度とこっちの奴らとは会えない」
 「知っているよ」
 「だったら、どうして蘭に手を出したんだよ! すぐに別れる事が分かってて!」
 「静かに、天真。声が高いよ」
 天真が舌打ちする。
 「…あんたが、どうせすぐに別れる相手だからって、蘭に手出ししたんなら許さないぞ」
 「彼女を傷つけるものは許せないという訳かい? だったら、君はさぞかし……」
 言いかけて、友雅は途中でやめた。これは自分が言っていい言葉ではないだろう。
 彼が二年以上の間、自分を許さなかった事は知っている。
 「何だよ」
 「いいや、何でも」
 天真が不機嫌そうに眉根を寄せる。
 「だったら、さっき聞いた事に答えろ。どういうつもりだ。…いつもの遊びなのか?」
 友雅は小さく笑った。
 「本気になっても構わないのかい?」
 「…何だって?」
 「君たちは故郷へ帰るんだろう? 二度と交わる事のない遠い月の国へ。私が本気になって、彼女を帰したくないと言ったら、君は許すのかい?」
 「それ、は……」
 「君は私に何を望む? 蘭殿から故郷を取り上げる事かい? それとも今すぐに彼女を捨てる事?」
 「それは…、俺はただ…」
 天真は言いかけては、何度も言葉を飲み込んだ。友雅は密かに苦笑を浮かべる。
 そんな権利はないと思いつつ、つい意地悪をしたくなった。彼女のため、と言ったら彼女は怒るだろうが。
 友雅はまだ考え込んでいる天真を、改めて見やった。
 彼には彼女が何に怯えているのか分かるまい。もし、彼女の真実を知れば、きっと彼はこういうだろう。
 大丈夫。それは病気だ。俺が絶対に治してやる。
 だから、彼女は言えない。
 最も受け入れてほしい者が、闇を理解できない者だと分かっているから。
 そして、理解できない者である事を望んでいるから。
 「天真。もう一度言うが、私は君に目くじらを立てられるような事はしていないよ。君が言った事は、先刻承知の上だ。私も、蘭殿もね。そんなに別れの近さを哀れんでくれるのなら、残された時間を奪うような真似はしないでくれるとありがたいね」
 「友雅……」
 天真は驚いたように友雅を見返した。しばらく彼を凝視した後、複雑な表情で俯く。
 「…泣かすなよ」
 やがて呟かれた一言に、友雅も一言だけ返した。
 「心がけておこう」

 「…そうだったんだ」
 皆が起き出す時間になって、天真はあかねの部屋を訪ねていった。
 まだ気持ちが割り切れなくて、黙っていられなかった。
 話を聞いて、あかねはやはり驚いた表情になったが、さすがに天真ほど取り乱さなかった。
 「言われてみれば、最近、ちょっと蘭ちゃんの様子変わったもんねえ」
 「え? どんな風に?」
 天真がぱっと顔を上げて、あかねににじり寄る。
 「うん。…まあ、要するに綺麗になったんだよ。雰囲気がすごく落ちついた感じになって、笑顔とか、女の私でもどきっとする事あったから」
 「…気付かなかった」
 天真の口調が沈む。あかねは慌てて手を振った。
 「言われてみればって事だから。でも、天真くんも兄として複雑なのは分かるけど、こういう事はあまり騒ぎ立てないほうがいいかもよ」
 「……だって、すぐに別れないといけないんだぜ。傷つくのは分かりきってるじゃないか」
 「…うん。でも、友雅さんはそういう事考えないで動く人じゃないし、蘭ちゃんとも、ちゃんと話し合ってると思うよ」
 天真は顔を伏せた。今朝の友雅の言葉を思い出す。
 「でも……」
 天真がなおも言いかける。だが、近づいてくる足音がそれを遮った。
 「―――あかねちゃん、ちょっといい? …あれ、お兄ちゃん」
 「蘭……」
 渦中の人物の登場に、天真は驚いて目を見開く。その反応に蘭も戸惑った表情になった。
 「どうかしたの?」
 「いや……」
 天真は蘭を見つめたまま口ごもった。その様子を見たあかねが、代わりに口を挟む。
 「何か用なんでしょ、蘭ちゃん」
 「うん…。八葉の皆さんへのお返しの事で」
 「ああ、そっか。うん、大体用意できて……」
 「蘭、ちょっと」
 急に立ち上がった天真があかねの言葉を遮り、蘭の腕をつかむ。
 「お兄ちゃん、何?」
 「ちょっと、こっちに来てくれ」
 「天真くん」
 あかねが引き止めようとしたが、天真は聞かなかった。蘭の戸惑いにも構わず、蘭の腕を引いて、部屋の外に連れ出す。
 そのまま、無言で蘭の腕を引きながら、天真は廊下を進んでいった。蘭が何度目かに嫌がる動作をすると、ようやく足を止め、彼女に向き直る。
 「なあ、お前、何か悩みとかないか?」
 「え?」
 蘭はどきりとした。どうして、急にそんな事を聞くんだろう。
 「…どうして、そんな事聞くの?」
 恐る恐る尋ねる。兄のおかしな様子は、彼女にあらぬ恐れを抱かせた。もしや、変事の原因について何か知ってしまったのだろうか。
 「……聞いたんだ、友雅との事」
 「あ…」
 蘭は驚き、そしてほっとした。
 「そのこと」
 「…ちょっと、どう言っていいのか分かんねえんだけどさ。これだけは聞かせてほしい」
 天真は真面目な顔で、蘭をじっと見つめた。
 「お前…、友雅のこと好きなのか? 本当に好きで付き合ってんのか?」
 「お兄ちゃん……」
 蘭はその表情をしばらく見つめた後、くすりと笑った。
 「お兄ちゃんの中では、私は13歳のままなんだね」
 「え?」
 「私、ちゃんと分かってるよ。だから心配しないで。私、友雅さんのこと―――好きよ」
 蘭はそう言って微笑んだ。その笑みに天真は背筋がぞくりとするのを感じた。
 そして、確かに自分の中の蘭は別れたあの日のまま、変わっていなかったのだと知る。
 こんなあだめいた笑みを浮かべる娘を天真は知らない。
 「……そっか」
 天真は表情を緩めて、目線を下に落とした。
 「そうだな。お前も、もうすぐ16になるんだもんな……。結婚もできる年なんだよな」
 二年も経っているのだ。知らない内に成長もするし、変わりもするだろう。天真はやっとそこまで思い至った。
 どこか寂しげに呟いた天真に、蘭は表情を改めた。
 「…ね、お兄ちゃん。私が友雅さんに遊ばれてると思ってたの?」
 「え? いや、まあ……」
 天真はふいと横を向いた。二人の対応を見ていると、一人で騒いでいた自分が恥ずかしい。
 「ふふっ。…でも、もしその通りだったらどうする?」
 「は? お前、やっぱり…!」
 「違うの、仮定の話。もし、私が彼に遊ばれてるだけだったとしたら、お兄ちゃんはどうするつもりだったの?」
 「どうするって…。そりゃあ絶対に許さない。あいつにも世話にはなったけど、お前を傷つける奴は放っておけない」
 「…じゃあ、私のために友雅さんと決闘とかしてくれる?」
 「ああ、するぜ。ぼこぼこにして、和歌なんか似合わない顔にしてやる」
 蘭は声を上げて笑った。
 もう、充分だ。
 「ありがと。でも、友雅さんは強いからね、お兄ちゃん」
 にこやかに言って、蘭は再びあかねの部屋へ向かって行った。



 出発の日の朝。藤姫の部屋には全員が集まっていた。
 一人だけ顔ぶれが欠けていたが、総勢十人が集まった部屋は騒がしい。蘭はその人の輪から少し離れて、静かに部屋の外を眺めていた。
 蘭は周りから声をかけられても、言葉少なに答えるだけだ。何かに気を取られているように見える。
 「元気ないな、蘭」
 その様子を心配した天真が蘭に声をかけてきた。蘭は何でもないと答えたが、彼女が何を気にしているのかは分かる。
 …何やってんだよ、あの男は。
 天真がここにいない一人の男の顔を思い出しながら、心の中で呟く。その時、不意に蘭が彼を振り返った。
 「ねえ、もう一度庭を見てきていいかな」
 「え? もうすぐ出発だぜ」
 「少しだけ。すぐに戻るから」
 「…なら、いいけど」
 蘭はありがと、と言い残して部屋を出て行った。

 人目を避けて、藤姫の部屋から少し離れた庭に降りると、かすかな花の香が蘭を包む。
 蘭は庭の木々を見渡した。
 ここにいる間、ずっと彼女の心を慰めてくれた花々。これらと別れるのも寂しい。これほどに整えられた庭とは、現代ではそう簡単に出会えないだろう。
 ゆっくりと庭を廻り、そっと藤のひとつに手を伸ばそうとする。その時、背後でじゃりっと土を踏む音がした。
 振り返った蘭は口元に笑みを上らせる。
 「来てくれたんだ」
 「そこまで情のない男と思われていたとは、さすがに残念だね」
 そう言いつつも声音は楽しげに、友雅が蘭の前にやって来た。手には何か大きな包みを持っている。
 不思議そうに蘭がそれを見ていると、友雅も蘭の衣裳に興味深げな視線をやった。
 「それは君たちの国の衣裳かい?」
 その言葉で、蘭の視線が元に戻る。
 今日、蘭はこちらに来た時の服を身につけていた。濃い赤紫のワンピース。それに、丈の短い表着を一枚羽織っている。
 「ええ。少し小さいんだけど、袿姿じゃ帰った後困るから」
 「それでは、これはここでだけ……」
 友雅は手に持っていた包みを開け、白い衣を取り出した。それをふわりと蘭の身体にかける。
 色彩は白のみの簡素な装束。けれど表面の光沢がきらきらと白く輝いており、微妙な白の色合いを出していた。
 「…氷の重ね?」
 友雅が微笑みながら頷く。
 「この衣は雪に一番映える。気が向いたら、その頃に私への夢路をたどってくれ」
 蘭は少し驚いたようにした後、衣をかき寄せて笑った。
 「じゃあ、橘の木の前で。あれは常葉木だから、冬でも見失う事はないわ。常に変わらぬ木ですものね」
 「さて、君の心を誓ってくれたのか、それまでに消える志と恨まれているのか、判じかねるところだね」
 友雅は楽しげに言うと、蘭の頬に手を添えて指先を髪に絡めた。そのまま、どちらからともなしに抱き合う。
 「もう一度、口接けをくれる?」
 先に請うたのは蘭で、すぐに友雅は応えた。
 伝わる体温が心地良くて、蘭は精一杯の力で彼を抱きしめる。
 最初、蘭にとって、彼は必要な時に必要なものをくれる人に過ぎなかった。別れるのが当然だと思っていたし、その事に感傷なんて抱かないはずだった。
 でも、今確かに蘭は心の痛みを感じていて、その事が少し嬉しかった。
 一番じゃないけれど、やっぱり私はこの人が好きだった。
 蘭の中で何かが溶けた。身にまとう衣のような雪が、春に出会って凍えた身を溶かすように。



 神泉苑は龍神の神子の訪れを歓迎するかのように、透き通った風を吹かせていた。
 そこに人影は四つだけ。次元の流れに巻き込まれてはいけないので、永泉に頼んで立ち入り禁止にしてもらった。皆ともここに入る前に別れた。
 「…それじゃ、帰ろう」
 四人は池の前に歩き出した。自然、早足になっていく。
 そんな中、蘭はふと足を止めた。天真が怪訝そうに振り返る。
 「どうした、蘭?」
 「うん…」
 蘭は他の二人も振り返るのを待って、にっこりと微笑んだ。
 「帰る前に一度言いたいと思って。お兄ちゃん、あかねちゃん、詩紋君。ありがとう、大好きよ」
 天真が驚いてざっと後ずさった。
 「なっ。何だよ、いきなり……」
 あかねと詩紋がくすくす笑う。
 「照れないの。私も好きだよ、蘭ちゃん。帰ってからも仲良くしてね」
 「僕も、よろしくね」
 「うん」
 蘭たちは再び歩き出した。池の近くまで来たところで、蘭は他の三人に気付かれないよう、そっと自分の口唇に触れる。
 口唇に彼の感触が残っている。着物にも彼の香りが移っている。
 もう二度とは会わない彼を思いながら、蘭は感謝を捧げた。


 ――――その日、神泉苑に次元の穴が開き、異人たちを飲み込んだ後、消滅した。


<了>

01.11.7 up


友雅×蘭という接点のない二人ですが、考えてみると、結構はまった。
なんというか再確認してしまいました、蘭ちゃんへの愛を(笑)

 

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