藤花の咲く季節に (後編)

                翠 はるか


 藤姫は天真の部屋の前まで来ると、そっと中の様子を窺った。
 明かりはつけられておらず、中は暗い。耳をすませてみたが、物音一つしない。
 もう眠ってしまわれたのかしら……。
 入り口の所でどうしようかと逡巡していると、不意に部屋の中でガタンという音がした。
 「誰だ!?」
 誰何する声がして、乱暴な足音が近づいてくる。藤姫が立ち尽くしていると、ばさりと御簾がめくり上げられて、中から天真が出てきた。
 「……藤姫?」
 「…あ、あのっ…っ」
 月明かりで、彼が目を見開いたのが見える。何と切り出そうか考えていると、先に彼のほうが口を開いた。
 「何してるんだ? こんな所で…」
 「あのっ、私……」
 藤姫はしばらくためらった後、意を決して言葉を発した。
 「その…、妹君が見つかられたとお聞きしました」
 とたんに、天真の表情が曇る。
 「…ああ…」
 「……天真殿、あの…。お気を落とさないでくださいませ。きっと良い方法が見つかりますから」
 藤姫はそんなつまらない言葉しか言えない自分に歯がみをした。事実、その言葉は余計に天真の心を重くしたようだった。
 「…お前が心配することじゃねえよ」
 突き放すような口調で言うと、藤姫から視線をそらすように横を向いてしまう。
 「また、あかねが余計なこと言ったんだろうけど、わざわざ気を回してもらうような事じゃない。大丈夫だよ、別にバカなことしたりしねえし、八葉としての仕事もちゃんとするさ」
 言いながら段々と顔から表情が消えていく天真を見て、藤姫は先程のあかねの言葉を思い出した。
 『天真くんは、人一倍我慢しちゃうだけなんだよ』
 『きっと、誰かが側にいることが必要なんだと思う』
 「―――だから、お前はもう部屋に戻れよ。もう遅いし、明日も早いんだろ」
 「嫌です」
 今までの迷いが嘘のように、その言葉はするりと藤姫の口唇から滑り出した。
 「私、帰りませぬ」
 「藤姫……」
 きっぱりとした口調に、天真が驚いたように彼女を振り返る。
 藤姫の大きな瞳が、まっすぐに自分を見ていた。
 「天真殿は嘘をついていますわ」
 「嘘?」
 「そうですわ。そんな風に表情を消さなければならないほどお辛いくせに、大丈夫だなんて。何故、そのようにお一人で我慢なされるのですか?」
 話しているうちに興奮してきたのか、段々と藤姫の声が大きくなっていく。
 「お、おい、藤姫……」
 ただでさえ、幼く甲高い声は、夜の空気によく響く。このままでは、誰かが聞きつけてやって来るかもしれないと思った天真は、慌てて藤姫の腕をつかんだ。
 「分かった。とりあえず中に入れよ」


 藤姫を中に招き入れた天真は、彼女を円座の上に座らせると、紙燭に明かりを灯した。
 ぼうっとした明かりが辺りを照らす。
 藤姫が緊張した面持ちで、その明かりに浮かぶ彼の指の動きを追っていると、その動きが不意に止まった。
 「………?」
 「…あかねは、なんてお前に言ったんだ…?」
 紙燭の明かりを見つめたまま、天真が問う。
 「…え、あの、先日から神子様の前に現れていたお…少女が天真殿の妹君であると…。それから、天真殿のことがお分かりにならなかったとか……」
 「……ああ。また、俺の前から消えちまった。俺が…、もっと強く呼びかけていたら……」
 「そんな…、天真殿のせいではありませんわ。鬼のしわざですもの。そのように……」
 「あいつは、鬼なんかじゃない!」
 とたんに顔を強張らせて、天真が大声をあげる。藤姫が驚いてびくりと身体を震わせると、天真ははっとして藤姫を振り返った。
 「悪い…、怒鳴ったりして……」
 「…い、いいえ。私の言葉が悪かったのですわ。申し訳ありません」
 「……そうじゃねえ」
 天真は苛立たしげに、ぐしゃりと髪をかき回した。
 「…悪い。俺、やっぱりまだ頭の整理がついてねえみたいだ。今日はもう帰ってくれ。このままいられると…、俺、お前にやな事言っちまいそうだから」
 そう言って、自嘲気味の笑みを浮かべる。
 十歳のガキにまで当たり散らしそうになるなんて……、ほんと、余裕がねえな。
 ……情けねえ。
 昼間の事や二年前の事。それらが天真の頭をぐるぐると回り、思考を暗いほうへと持っていこうとする。
 その時、それを引き止めるように、温かな感触が天真の手に重ねられた。
 はっとして顔を上げると、いつの間にか藤姫が彼のすぐ側まで来て、その小さな両手で、彼の手を包み込んでいた。
 「藤姫……」
 「…言って、くださいませ。天真殿」
 静かな声だった。
 「いやな事でも構いませぬ。それで、少しでも天真殿が楽になれるのでしたら、私は嬉しいのです。……私には、それくらいしかできませんから」
 ひたむきさが直接心に染み込んでくるような、そんな声。
 「ですから、お一人で抱え込まないでくださいませ。私も、神子様も、他の八葉の方々も天真殿のお力になりたいと思っているのですから」
 「……………」
 天真はしばらく無言で藤姫を見つめた後、ふっと小さな笑みを浮かべた。
 「……?」
 何故、そこで天真が笑うのか分からない藤姫は、怪訝そうに天真の顔を仰ぎ見る。そんな藤姫を見て、天真はますますおかしそうに笑った。
 「いや、悪い。なんか…、今のセリフどっかで聞いたことあるなって思ってたんだ」
 「そう…なんですの?」
 天真の表情が優しげなものに変わる。
 「前に、俺がお前に言った言葉じゃねえか」
 「あ………」
 ――――出会ってまもなくの頃、星の一族としての使命を果たそうと、ずっと気を張りつめていた自分。
 『お前は頑張りすぎだよ。なんでも一人で抱え込もうとするなよ。なんのために、俺とかあかねとかがいると思ってんだ?』
 そう言って、快活に笑った彼。
 「そうでした…わね」
 「ああ」
 天真が身体から力を抜き、藤姫に向かい合うように座りなおした。
 「一人で我慢するな、か」
 口の中で呟いて、天真はそのまま藤姫の肩に、ころんと頭を乗せた。
 「えっ、て、天真殿っ?」
 「……少しだけ、甘えさせてくれるか……?」
 突然の接近に驚いて身を引きかけた藤姫は、その一言に動きを止めた。
 「少し、話を聞いてほしい」
 「……はい」
 藤姫は体勢を直しながら、強く頷いた。

 その日、天真の両親は親戚の家に泊まりがけで出かけていた。
 学校のある天真と蘭は、一晩、二人で留守番することになった。
 「その日はさ……、なんか蘭の様子がおかしかったんだ。いや、今思えば、その数日前からそうだった。なんだか不安そうで……、どこか怯えているようで……」
 一人になることを、ものすごく怖がっていた。
 「あいつは昔からカンが鋭い奴でさ。なにか予感してたのかもしれないな。二人で留守番することになって……、学校に行く前に、俺に何度も早く帰ってきてくれと頼んだ。だけど俺は…、親がいないっていうんで、ちょっと浮かれててさ。あいつの言う事、半分も聞いちゃいなかった」
 結局、授業が終わった後も友人たちと寄り道したりして、家に帰り着いたのは日が暮れてからだった。
 「その時にはもう、蘭はいなくなってた。消えた、としか言いようがなかった。あいつの財布とか靴とか、全部残ってたし。……居間のテーブルには、飲みかけのコーヒーカップが置いてあってさ。…まだ湯気が立ってた。ソファにも……、温もりが残ってた」
 天真の口調が、段々苦しげになっていく。
 「……ほんの、二、三分前のことだったんだ。俺がせめてもう少し早く帰っていたら…。あいつの話をちゃんと聞いて、寄り道なんかしなかったら、蘭はこんな事にならなかったかもしれなかったのに!」
 どうして何もしなかったんだろう、俺は。蘭があんなに怯えていたのに。あんなに泣きそうな顔で頼んでいたのに。
 「天真殿……」
 「何も言わないでくれ。悔やんでもしかたないのは分かってるんだ。だけど、今でも思い出すんだ。最後に見たあいつの顔……、あいつの声。今は…、今日見た顔と声にすり変わっちまったけど」
 凍った瞳と無機質な声。昔はあんなじゃなかった。それは分かるのに。
 「あいつの笑顔を……、俺はもう思い出せない」
 天真殿……。
 いつもの明るい笑みがない彼は、本当に別人のように小さく見える。
 何も言わないでくれと言われたけれど、何か言わずにはいられなくて、藤姫は慎重に言葉を探した。
 「あの……、私、やはり天真殿のせいではないと思います。本当にいけないのは、妹君をこちらへ呼んだ鬼ですもの。……それでも、天真殿がお気になさるというのでしたら、一刻も早く、鬼の下から妹君を取り戻しましょう。私も出来うる限りのお手伝いをいたしますから」
 「藤姫、俺は……」
 「それに、神子様は妹君がお笑いになったところを、ご覧になったことがあるとおっしゃっていました」
 「え…?」
 天真の表情が大きく揺れる。
 「詳しいことは分かりませぬが、妹君はあの鬼の首領に操られているのだと思います。そして、きっと救いを求めて神子様の前に現れたのですわ。哀しそうなご様子だったとおっしゃっていました。妹君は、きっと昔と少しもお変わりになられていませんわ。ですから、鬼との戦いに勝てばきっと……、私、これまで以上にがんばります。ですから…、ですから……」
 言葉が続かない。言うべき言葉は、もっとあるはずなのに。
 藤姫が必死に言葉を探していると、天真が小さな声で言った。
 「もういいよ、藤姫」
 「あ、も、申し訳ありません……、私、またつまらない事を……」
 藤姫が落ちこみかけたとき、小さく笑う声がして、天真が顔を上げた。
 「そうじゃねえ。もう元気になったからいいって言ったんだ」
 「え?」
 よく見ると、天真は少し吹っ切れたような表情で藤姫を見ていた。
 「そうだよな。蘭は蘭だ。あいつが助けを求めてるっていうなら、助けに行けばいい。要はあの仮面の男をぶっ倒せばいいだけだ。今までと変わらねえ。
 ……それに、どこにいるかっていうのと、少なくとも元気でいるってことは分かったんだ」
 笑みを浮かべたままの天真の瞳から、涙がひとすじ滑り落ちた。
 「あ……」
 天真が、再び藤姫の肩に顔を埋める。
 「良かった、無事で。あいつが…、生きててくれて……」
 あれから、もう二年。天真の両親は既に半分、蘭の生存を諦めているふうだった。天真は諦めていなかったが、それはもしかしたら見つけ出さないといけないという責任感のためだけで、信じていたわけではなかったのかもしれない。
 でも、蘭は生きていた。例え、敵といえる立場であっても、もう一度自分の前に現れてくれた。
 「……はい」
 藤姫は、彼がもう一度顔を上げるまで、ずっと目を閉じて彼の呼吸の音を聞いていた。


 「……じゃ、な。おやすみ、藤姫」
 「はい、どうもありがとうございました」
 しばらくたったのち、二人は藤姫の部屋の前にいた。すぐ側とはいえ、夜も遅いので藤姫を部屋まで送ってきたのだ。
 「……今日は、ありがとな」
 ばつが悪そうな表情で、天真がぼそりと言う。子ども扱いしていた少女の前で、今日は涙を見せてしまったのだ。
 そんな天真の気恥ずかしさをよそに、藤姫は嬉しそうに微笑む。
 「いいえ。お元気になられて良かったですわ。送ってくださってありがとうございました。天真殿も今日は早くお休みくださいませ」
 「ああ、そうするよ。もう、お前に心配かけないようにな」
 「そんな……、私の事は構いませんわ。私は、ただ天真殿のために何かしたかっただけです」
 にこにこと笑いながら告げると、天真は少し妙な顔になって、苦笑した。
 「そういうセリフ、簡単に言うもんじゃないぜ。まあ、お前の年なら妙な誤解されることもないだろうけどさ」
 「……はい?」
 訳が分からないといったふうの藤姫に、天真はなんでもないと手を振った。
 「それじゃ、もう部屋に戻るよ。また明日な」
 「はい、お休みなさいませ」
 藤姫が部屋の中に入っていく。それを見届けて、天真はがりがりと頭をかいた。
 ああいうとこは、まだ子供らしいよな……。
 何故だか少し安心しながら、天真はくるりと身体の向きを変え、自室へと戻っていった。


<了>


 ……なんつーか…、藤姫×天真?(爆)
 最初は、「花の色」の続きを書こうと思ってたんですが、妙に天真がやり手になっちゃったので、
こんなん書けん〜とプロット最初から立て直したら、全く逆な話になっちった……(−−;ゞ。
 でもまあ、藤姫は守るべき存在だけど、守られてるだけで納得する子じゃないと思うので、こう
いうのもアリかな、と。

 

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