藤花の咲く季節に (前編)

                翠 はるか


 あいつの事を思い出す時、決まって浮かぶのは最後に見たあいつの泣きそうな顔、そして、不安に満ちた声だった。
 けれど、今は違う。
 凍った瞳、抑揚の無い声、無造作に投げかけられた脅しの言葉。
 それだけが、俺の心を占めていた。


 「……え?」
 その話を聞かされた藤姫は、元々大きな瞳を、これ以上ないというほど見開いて、目の前のあかねの顔を見つめた。
 「それは本当ですの? 神子様」
 問い返されたあかねは、沈痛な面持ちで頷き、もう一度、先ほどの言葉を繰り返した。
 「うん。本人がそう言ってた。この間から、時々現れていた黒髪の鬼の女の子。その子が天真くんの妹なんだって」
 「まあ……」
 藤姫はあまりのことに、袖で口元を覆った。
 ―――――今日の昼のことである。あかねは自分にしか聞こえない不可思議な鈴の音を追って将軍塚へと向かった。そして、そこで鬼の少女ランと出会った。
 あかねは、それまで何度かランに会ったことがあったが、その度ごとに様子を変える彼女に戸惑いを感じていた。
 ぞっとするような冷たい事を言うかと思えば、次には哀しい瞳をしていたりする。一度だけだが、笑顔も見たことがある。だが、今日のランは明らかに、自分たちを妨害する鬼の顔をしていた。
 じりじりと迫ってくるラン。その時、一人で出かけたあかねを追って、天真がやって来た。
 そして、ランを一目見た彼は言ったのである。「あれは俺の妹だ」と。
 「……そんな。どうして、天真殿の妹君が鬼などに……」
 あかねが困ったように眉を寄せる。
 「私にも分からない。それに、ランは天真くんのことが分からなかったみたいなの。天真くんが必死に呼びかけたんだけど、何の反応もしないで消えちゃった」
 「そんな……」
 藤姫が辛そうに目を伏せ、次いで、はっとした表情になる。
 「それで天真殿は? 天真殿は、今どちらにいらっしゃるのですか?」
 あかねが、ますます困ったような表情になる。
 「私をここまで送ってくれた後、一人になりたいって、どこか行っちゃった。すぐに戻るとは言ってたけど……」
 「そう、ですか……」
 一体どちらへ……、お一人で……。
 藤姫の表情が哀しげに沈んだのを見て、あかねは慌ててフォローするように言った。
 「大丈夫だよ。天真くん、そんな馬鹿なことする人じゃないし。すぐ戻ってくるって言ってたんだから。ランの事は、明日になったら皆で考えよう。ね?」
 「……はい。そうですね」
 藤姫は、あかねの言葉に自分への気遣いを感じ、努めて明るい表情を装った。
 「天真殿は強い心をお持ちですものね。あ、そうですわ。そのような事があって、神子様もお疲れになられたのではありませんか? 今日はもう、部屋でゆっくりなさってくださいませ」
 まだ陽は高かったが、やはりかなりの衝撃を受けていたらしいあかねは、素直に頷いた。
 「そうだね。じゃ、そうさせてもらうね。お休み、藤姫」
 「はい。ゆっくりお休みくださいませ」
 あかねが部屋から出ていった後、藤姫は再び表情を曇らせた。
 妹君が鬼の一族のもとにいる。
 天真が受けた衝撃を思い、藤姫の胸がずきりと痛んだ。
 ――――藤姫は一度だけ、天真からランの話を聞いたことがあった。
 彼らが京に来て、少し経った頃。天真がいつも胸にかけている石を綺麗だと言った時のことだ。
 彼はちょっと複雑な顔をして、妹と対のペンダントなのだと言った。
 まだ事情を知らなかった藤姫は『妹君はどんな方なのですか?』と無邪気に聞いた。天真は言いたくなさそうな顔をしていたが、一言だけ答えてくれた。
 「生意気で、口うるさい奴だよ」
 その言い方は素っ気なかった。けれど、藤姫はその一言に、とても深い情がこめられていると感じたのだった。
 ……天真殿は、妹君をとても大事に思ってらっしゃるのだ。
 藤姫は思わず立ち上がった。
 彼の所ヘ行きたい。
 きっと、傷ついているであろう彼。自分に何ができるとも思えないが、じっと座って待っているなど耐えられない。
 とはいえ、彼がどこにいるのか藤姫には分からない。それに分かったとしても、藤姫は外出する事のままならない身だ。
 ……こんな時にも、私は何もできない。
 藤姫はぺたんと座り込んで、脇息に身体を預けた。
 情けない。天真殿にはいつも励ましたりしていただいているのに。お力を貸していただいてるのに。……ずっと、探していた妹君が見つかられたのに、どうして……。
 藤姫は物憂げに俯きかけ、ふと気付いた。
 ……けれど、どうして天真殿の妹君が京にいらしたのかしら。
 鬼の仲間になっていたという事実に気を取られていたが、よく考えるとおかしい。京の住人ではない彼女が、何故京にいるのか。
 藤姫の背筋がぞくっと震えた。
 考えられる理由はひとつ。あかねや天真と同じく召喚されたのだ。
 誰に?
 時空を超える術が使える者など、この京に一人しかいない。
 「……アクラム」
 龍の宝玉を奪い、今なお龍神の神子を奪おうとしている鬼の首領。彼が召喚したのだとしか考えられない。…そして、彼女に何かをして…?
 藤姫はやおら立ち上がり、書庫へと向かった。
 鬼の一族の力に関する事ならば、星の一族に伝わる書物を調べれば、何か分かるかもしれない。もう一度、よく調べ直してみよう。


 その後、藤姫が懸命に書物を読み直していると、しばらくして書庫の扉が開いた。
 この書庫は、一部の者以外は立ち入りが許されていない。誰だろうと思って顔を上げると、入り口に、休んだはずのあかねが立っていた。
 「まあ、神子様。お休みになられたのではなかったのですか?」
 「…うん。今まで横になってたんだけど…。藤姫、調べ物?」
 あかねが、何だか歯切れの悪い口調で答えながら、藤姫の隣にやってくる。
 「はい。あの…、天真殿の妹君のことで、何か分かるかもしれないと思いまして」
 「そっか。さすが藤姫。頼りになるね」
 「えっ。そ、そんな事ありませんわ。何にもできていませんのにっ」
 藤姫が慌てて否定すると、あかねはくすくす笑った後、ふっと真面目な表情になった。
 「……天真くん、戻ってきたよ」
 びくっと、藤姫の指が震えた。
 「本当ですか? いつ?」
 「ついさっき。物音がしたから外に出てみたら、ちょうど帰ってきたところで。声かけてみたんだけど、『もう寝るから』って部屋に戻っちゃった」
 「そう…ですか……」
 とりあえず、何事もなく戻って来たらしい。藤姫はひとまずほっとした。
 「それで…、どんなご様子でしたか?」
 次に気になるのはそこだ。藤姫が尋ねると、あかねはひょいと肩をすくめた。
 「まあ、元気でないことは確か。戻って来たってことは、とりあえず落ちついたんだろうけど…」
 やはり、衝撃は残っているらしい。藤姫はそれを聞いて、眉根を寄せて俯いた。
 様子を見に行ってみようかと思う。けれど、「もう休む」と言っているのだし、訪ねていったところで、何と言えばよいのか。
 先ほど話を聞いた直後は、すぐにでも訪ねていきたいと思っていたのに、そうやって色々な事を考え出すと、藤姫はつい後込みしてしまう。
 じっと考えこんでいると、そんな彼女の心情を読み取ったかのように、あかねが小さく微笑んで言った。
 「藤姫、天真くんのところに行くの?」
 「えっ、あ、あの、いえ……。私など、お会いしても何のお慰めにもなりませんし、かえってお邪魔になっては……」
 「そんな事ないよ」
 狼狽して、しどろもどろになる藤姫に、あかねは強い口調できっぱりと言った。
 「神子様……?」
 「あのね、藤姫」
 再び表情を和らげて、あかねは諭すような口調になる。
 「藤姫、さっき言ったよね。天真くんは強い心を持ってるって。でも、本当はね、人一倍意地っ張りで、何でも我慢しちゃうだけなの。もちろん、強い面だっていっぱい持ってるよ。けど、人に頼れない分、とっても傷つきやすくて脆い面もあるんだ」
 「え……」
 「今の天真くんには、誰かが側にいることが必要なんだと思う。まあ、自分の弱みを絶対に知られたくないって人だから、嫌がるとは思うけど。出ていけって言われるかもしれない。…藤姫、それでも行ってくれる?」
 藤姫は、困惑した表情であかねを見返した。
 「私でお役にたつのでしょうか…?」
 「うん、もちろんだよ」
 「私は、良いお慰めの言葉も知りません。神子様のように、天真殿のことを良く存知あげているわけでもありません。そんな私でも……?」
 「藤姫が、いいんだよ。だって、藤姫は少なくとも私よりずっと、天真くんのことを大事に想っているもの。そうでしょ?」
 「み、神子様っ」
 藤姫がぽっと赤くなる。その愛らしい表情に、あかねはくすくす笑った後、じっと藤姫を見つめた。
 「行ってらっしゃい、藤姫」
 「……はい」
 藤姫はこっくりと頷くと、立ち上がった。


<続>


 また天真が出てないなあ(笑)
 藤姫ちゃんてば健気っ(^^。

 

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