淡紫色の憂鬱 (後編)

           翠 はるか


 はあ……。
 頼久の部屋の奥で、藤姫は脇息に顔を伏せて、今日、もう何度目だか分からないため息をついた。
 『とりあえず、ここで待っていて。頃合を見て、邸を抜け出しましょう』と、あかねにここへ連れられてきてから、半刻(一時間)。一人でいると、どうしても思考が、昨日聞いたあかねの言葉に傾いてしまう。
 ………友雅殿。
 藤姫の瞳が、切なげに細められる。
 ―――――彼が、ある姫君のもとへ通っているという。
 彼に、浮いたうわさが多いのは知っていた。けれど、それは女房相手の一時のものばかりで。
 でも、今度の相手は姫君。妙齢の。しかも、彼らしからず、かなり熱心に通っているという。
 友雅殿は今度こそご結婚なされるつもりなのかもしれない。そもそも、今まで独身でいるほうが不思議なのだから。
 ………悔しい。
 藤姫は無意識のうちに、拳をきつく握り締めた。
 せめて、もう少し早く生まれていたら。こんな子供じゃなかったら。
 そうしたらきっと、もっと神子様のお役に立つこともできた。京の崩壊を感じながら、歯噛みをしていることもなかった。そして、友雅殿も、もっと私を―――――。
 藤姫はそこまで考えて、かあっと赤くなった。
 私は、なんてはしたない事を考えているのでしょう。
 起こりえないことを想像して、自分の至らなさをごまかして、その上……。これだから、自分は子供だというのだ。
 けれど、その考えを捨て去ることができない。
 彼は、藤姫が心を許せる数少ない男性。そう、あの野分(嵐)の夜以来。
 藤姫は顔を上げて、部屋と廊下をしきる御簾を見つめた。
 あの夜、私は一人で鳴神におびえていた。そのとき、御簾がめくれて、友雅殿が現れた。そして、一晩中ついていてくれた。
 それ以来、度々私のところへ来てくださって………友雅殿。
 藤姫がぼうっと御簾を見つめていると、不意に御簾がめくれた。あの夜のように。
 ―――――え?
 藤姫は、自分が夢を見ているのだと思った。
 そこに現れた人物は、今までずっと自分が考え続けていた人だったから。
 「友雅……殿…」
 「…良かった。なにも変わられていないね」
 友雅が、藤姫の髪が豊かに波打っているのを見て、にっこりと微笑む。
 そして、彼女のほうに歩み寄ってくる。
 その確かな存在感に、藤姫はようやくこれが現実であると気づいた。
 「友雅殿、どうして……」
 「『どうして?』それを貴女が聞かれるのかい? 理由は、貴女が一番良くご存知のはずだが」
 「私が…? 私は何も……」
 戸惑う藤姫に、友雅はやさしく微笑んで、その頬に手を当てる。
 「私に『幸せに』と書き残されたでしょう? そのためには、姫が必要ですからね」
 「え?」
 藤姫が大きな瞳をますます見開いて、友雅を見つめる。その可愛らしい様子に、ついつい友雅の悪癖が頭をもたげた。
 「それにしても、私のうわさにそれ程心を痛められるとは。そんなにお嫌でしたか?」
 「え? あ、あの…っ」
 藤姫がぽんっと赤くなる。
 「ふふ。仕方のない姫君ですね。愛らしい藤花に慕われるのは嬉しいが、このように皆を困らせるような事をするのはいけませんよ」
 「………………」
 さとすように言われて、藤姫は傷ついたような表情になり、顔を伏せる。
 「……だって、私は子供ですものっ!」
 小さく叫んで、すくっと立ち上がる。そして、壁際に置いてあった頼久の小刀をがっと掴んだ。
 「姫っ!」
 友雅が顔色を変え、小刀を掴んでいる姫の腕を急いで押さえる。
 それでも藤姫がもがこうとするので、友雅は、姫のもう一方の腕も掴んで、自身のほうを向けさせた。
 「おやめなさい、藤姫」
 「離してください! 私は尼になるのです、止めないでくださいませ!」
 いつも大人しく怜悧な藤姫が、今はすっかり取り乱してしまっている。
 言い過ぎてしまったかと、友雅の胸をちらりと後悔がかすめたが、もう遅い。とにかく、藤姫を落ち着かせようと、口を開きかけたとき、入り口のほうからガタッという音が聞こえた。
 何事かと視線だけそちらに向けた友雅は、ぎょっとした。
 御簾の陰から、他の八葉全員とあかねが、こちらを覗いていたのだ。
 中でも、頼久は刀のつかに手をかけ、今にも飛びかかってきそうな体勢をとっている。「邪魔をするな」と言いつつ、天真やイノリや事もあろうに鷹通と永泉も、それをとめようと頼久の体を必死に押さえていて、先ほどの音は、彼らがもみ合った音らしかった。
 ………全く。
 友雅は頭が痛くなったが、今は藤姫が優先だ。彼は藤姫の手から強引に小刀を奪うと、それを部屋の隅に放り投げた。
 「あ……っ」
 「姫、おやめなさい。私に対して、心にためている事がおありなら、まっすぐに私にそう言えばいい。出家なさる必要などないでしょう」
 「…だっ、だって……」
 藤姫の瞳に、じわりと涙が浮かぶ。
 「友雅殿は他の方とご結婚なさるのでしょう? 私、友雅殿以外の方の北の方になどなりたくありませんもの。他の殿方に嫁ぐくらいなら、仏門に入って、女ではない者として生きていきます」
 「藤姫……」
 そのいじらしい言葉と、うるうるとうるむ大きな瞳に、友雅の心がぐらぐらと揺れる。思わず、その小柄な身体を抱きしめそうになったが、外にいる見物人たちのことを思い出して、寸前で手を止める。
 「…ですから、手をお放しください。お願いですから、私を止めないでくださいませ」
 一旦、やんでいた藤姫の抵抗が再び始まる。友雅ははっとして、藤姫の腕を掴みなおした。
 ……仕方ない。
 友雅は、藤姫の前にかがみこんで、目線を合わせた。
 「なんて残酷なことを言うんでしょうね、この口唇は」
 「…え? 残酷……?」
 藤姫が驚いたように友雅を見つめる。
 「そうですよ。貴女が大人になられるのをずっと待っている私に向かって、『大人にはならない』と言うんですからね」
 「……待っている? 友雅殿が?」
 「ええ。後、いくばくかの月日を経れば、晴れて貴女に妻問いできる。その日を楽しみにしているというのに……、それも許してくれないとは」
 「……友雅殿」
 藤姫が耳まで真っ赤になる。それは。その言葉は……。
 「…で、でも、友雅殿はもっと大人の女性がお好きなのでしょう?」
 ずっと望んでいたはずの言葉が、にわかには信じられなくて、藤姫はそう問うた。
 友雅が苦笑交じりに答える。
 「貴女は、ご自分が私に何を言わせたのか、分かっていないようだ」
 「え?」
 「貴女は私に『誓いの言葉』を言わせたのですよ? 貴女を待つ、とね。そんな事を私に言わせたのは貴女が初めてだというのに……。それを疑うのですか?」
 「……友雅、殿…。だ、だって、そのような事、今まで、少しも……」
 袖で口元を覆ってしまった藤姫に、友雅はやさしく微笑みかける。
 「できれば、口に出したくなかったのですよ。健気に咲き誇ろうとしているつぼみを摘み取ってしまうような無粋な事はしたくなかったのでね」
 「……………」
 「姫。出家など致しませんね?」
 友雅の問いかけに、藤姫はこくりと頷く。
 「では、部屋へ戻りましょう」
 「……はい」
 小さく答えて、藤姫はぎゅっと友雅の束帯の胸にかきついた。
 「ごめんなさい……」
 友雅が、そっと藤姫の頭を撫でる。
 「謝られることはありませんよ。可愛い私の姫君」

 「……おい、聞いたか、今の?」
 廊下から中の様子をうかがっていた天真が、隣にいるイノリに声をかけた。
 「三十男が、十歳の子供に真剣に告白してるぜ」
 イノリが興奮した面持ちで頷く。
 「ああ。これが本物の『ろりこん』ってやつなんだな。すっげー。オレ、初めて見たぜ」
 更に、その隣にいた詩紋が頷く。
 「ボクもロリコンの人を見たのは初めてなんだ。ブラコンやシスコンなら、散々見てきたけど」
 「うんうん。……って、誰のことだよ、詩紋!」
 天真とイノリが同時に叫ぶ。永泉がさりげなく詩紋の髪を一本引き抜き、袖の下に常備してあるわら人形に埋め込む。
 その時、背後に立っていた泰明がぽつりと呟いた。
 「所詮、この中にまともな者などおらぬという事だな」
 全員が、キッと泰明を睨む。
 「お前に 言われたくないぞ!」
 「あなたに 言われたくありません!」


 ――――― 一通りの騒ぎが収まった後、あかねは友雅を探した。
 ちょうど、藤姫の部屋を出て、車宿(くるまやどり)のほうへ向かっていた彼を見つけ、声をかける。
 「友雅さん」
 「…やあ、神子殿か」
 「すいません、ちょっと、話がしたいんですけど。車宿まで一緒に行っていいですか?」
 あかねがにこにこと笑いながら尋ねると、友雅は器用に片眉だけあげてから、頷いた。
 「ああ。私も君に聞きたいことがあるしね」
 二人は一緒に歩き出した。
 「とりあえず、謝っておきますね。ちょっとやりすぎたかなって思ってますから」
 あかねが、そう切り出すと、友雅は意外そうにあかねを見下ろす。
 「謝ってもらえるとは思わなかったよ」
 「やだ、そんな嫌味なこと言わないでくださいよ。本当に反省してるんです。藤姫があそこまで思いつめるなんて思わなかったから。私としては『友雅殿の浮気者!』くらい言ってくれれば、それで満足だったんですよ」
 「……そう。でも、藤姫を巻き込むなんて感心しないね」
 あかねが、しゅんとうなだれる。
 「ええ。あんなに藤姫が真剣だなんて知りませんでした。上手くだましましたね、友雅さん。まあ、とにかく、もうしませんよ、こんな事。でも、友雅さんには、一番のダメージだったでしょ?」
 本人を目の前に、平気でそんな事を言ってくるあかねに、友雅は再び頭痛を覚えた。
 「しかし…、なぜ、こんな事をしたんだい? 姫君にそれほど恨みを買うようなことをした覚えはないが」
 とたんに、あかねの眉がぴくんっと跳ね上がった。
 「覚えがないってぬかすんですか…?」
 「……まさか、と思っているものならひとつあるよ。一昨日の晩の事かい?」
 「そうです!」
 あかねは強く頷いた。

 ――――― 一昨日の晩。京散策の後、あかねを送ってきた友雅は、そのまま藤姫の離れのある一室で、酒をたしなんでいた。
 なんとなく一人でいたい気分だったので、手酌で飲んでいたが、すぐに飽きた。そこで、ちょうど通りかかった頼久に声をかけて、付き合わせたのだ。
 「今宵は月が美しいね」
 「はい。月夜は見通しが利くので、警護が楽になります」
 相変わらずの固い答えに、友雅が微笑をもらす。
 「ふふ。君らしいと言えば、らしいがね。たまには、自然の美しさに目を向けてみてはどうだい? ……それとも、君には『あかね』という名の花しか目に入らないのかな?」
 「なっ、何を…っ!」
 からかうような口調に、頼久が真っ赤になる。
 「おや、正直なことだ。本当に君は可愛いねえ」
 「からかうのはおやめください、友雅殿! そういう事は女房方におっしゃることでしょう」
 「うーん、それなんだが……」
 友雅が軽く首を傾ける。
 「近頃、女人との駆け引き事にも飽いてきてね」
 そう言って、頼久に意味有り気な視線を送る。
 「え…?」
 「ああ、頼久。今宵の月も美しいけれど…、君もなかなかきれいな顔をしているね」
 そして、そっと頼久の頬に触れる。
 「!!!?」
 「ああ。やはり、美しい肌だ」
 すっと指を滑らせて、頼久の頬から首筋を、肌の感触を楽しむようにゆっくりと撫でる。
 「な、な、な、何をなさるのですかっ!」
 頼久が顔を引きつらせ、ずざざーっと、壁際まで後ずさる。その予想通りの反応に、友雅はくつくつと喉の奥で笑いを立てた。
 その時、廊下から軽い足音が響いてきた。
 ほどなくして、二人のいる部屋の前に、あかねが現れる。
 「おや、神子殿」
 「え? あれ、友雅さん、帰ったんじゃなかったんですか? 何し……、え、頼久さん?」
 あかねが壁際で固まっている頼久に気づき、盃を片手に機嫌よさそうに微笑んでいる友雅と彼を見比べる。
 「えー…っと……」
 「さて、今宵はこれまでのようだね」
 友雅が、あかねの戸惑った表情にくすりと微笑みつつ、立ち上がる。
 「では、私は失礼するよ。また明日、頼久。おかげで楽しい時間が過ごせたよ」
 友雅が立ち去った後、あかねは室内に残された頼久に目を向けた―――――。

 「あの時、二人の様子がおかしかったから、私、頼久さんに何があったのか聞いたんです。そうしたら話したがらないから、いよいよおかしいと思って。……苦労したんですよ、聞き出すの。瓶子(へいし)三本分飲ませて、やっとしゃべってくれました」
 「瓶子三本!? …それで、彼はあんなに気分悪そうにしていたのか。大して飲ませていないのにおかしいと思った。…しかし、それは…、下手をすれば死ぬよ?」
 「今はそういう話をしてるんじゃありません」
 あかねがぴしゃりと言い放つ。
 「あの時の事。頼久さんから、全部聞きましたよ」
 「やはり、あれが原因なのか。だが、私は頼久を少しからかっただけだよ? 何も、君の頼久に本気でちょっかいを出そうと思っていたわけじゃない」
 困惑気味の友雅の言葉に、あかねの眼光が更に鋭くなった。
 「それだけでもダメです! 頼久さん遊んでいいのは私だけです!」
 友雅は軽いめまいを覚えた。
 「……まったく。天真といい、君といい、真面目な顔でヒドイ事を言うね。…頼久も気の毒に
 ぼそりと呟いた最後の言葉をあかねは聞きとがめ、にっこりと微笑んだ。
 「あら。頼久さんは、私に仕えられて心底幸せそうですよ?」
 「………………」
 「あ、車宿に着きましたね。それじゃ、気をつけて帰ってくださいね」
 「ああ……」
 脱力しきった友雅をよそに、あかねは元気いっぱいに、元来た廊下を駆け戻っていった。が、途中で足を止め、くるりと振り返る。
 「そうだ、友雅さん」
 「……何だい?」
 「今回やりすぎちゃったお詫びに、今後、友雅さんが浮気したとき、一回だけごまかすの手伝ってあげますよ!」
 「……それはどうも」
 「いいえ。また明日。友雅さん♪」
 あかねが今度こそ走り去っていく。それを見送った後、友雅は盛大にため息をついた。
 「たくましいというか何というか…。きっと、神子殿の世界は、ここなどより、よほど物騒な所なのだろうね。私は生まれなくてよかったよ……」
 友雅はしみじみと呟いた後、疲れた身体を引きずりながら、自分の牛車へと乗り込んだ。


<了>


ふうう、打ち終わった(- -;。なんか、やたら長くなっちゃいましたねえ。

一応、「断髪」をテーマに遙かギャグというキリリクにより、書いてみたんですが、相変わらずですな(^^;。
なんか友雅が一番マトモかも(ロリコンという以外は)。
そこで、マトモじゃないおまけの四コマをつけてみました(よせばいいのに^^;)。

どいうわけでまあ、ノルマ達成! 楽しんでいただけたら嬉しいです。ほんとに。

 

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