淡紫色の憂鬱 (前編)
翠 はるか
星の一族の末裔。今をときめく左大臣の姫君。その特殊な能力だけでなく、類稀な美しい容貌でも知られる少女、藤姫は、部屋で一人、物思いにふけっていた。
何を悩んでいるのか、その桜桃のごとき口唇から、時折、小さなため息が洩れる。
「……やはり、それしか……」
しばらくして、藤姫がぽつりと呟く。物憂げに細められていた紫水晶の瞳が、強い決意の色をたたえた。
次の日の朝、頼久はいつもの通り、藤姫の部屋に挨拶へ向かっていた。
離れの庭を横切っていると、ちょうど自室から天真が出てくる。
「よう、頼久。お前もあかねの所に行くのか?」
「いや、藤姫様のところに挨拶に伺うところだ。神子殿のところへは、その後に参上する」
「ふーん」
だが、行く方向が同じである二人は、何となく一緒に歩き出した。
「ところで、頼久。お前、なんか顔色悪くないか?」
「あ? ああ……。一昨日の酒が、まだ少し残っていてな」
「へえ、珍しいじゃん。お前がそんなに飲むなんて。誰かと飲んでいたのか?」
「うむ。…いや、最初は良かったのだが……」
そうこうする内に、藤姫の部屋にたどり着く。
「んじゃ、俺はあかねのところに行ってくるぜ。また後でな」
「ああ。
―――――藤姫様、頼久です。何か、ご用はおありでしょうか」
天真と別れてから、頼久は、御簾越しに、中にいるはずの藤姫に声をかけた。だが、しばらく待っても、返ってくるはずの声が聞こえてこない。
「……藤姫様?」
まだ、お休みなのだろうか…? いつも、この時間には起きていらっしゃるはずだが……。
頼久は、何だか不安になった。ひどく嫌な予感がする。
もう一度、声をかけてみるが、やはり返事はない。そこで、頼久は、出過ぎた真似だと思いつつも、そっと御簾の端をめくり上げてみた。
主の性格そのままに、きちんと整頓された部屋。だが、いつも奥の座に座って、にこりと微笑みかけてくれる彼の主人の姿はなかった。代わりに、結び文がひとつ、そこに置かれている。
頼久は、ためらいつつも部屋の中に入り、その結び文を拾い上げ、中を見た。
―――――数秒後、頼久の悲鳴が、辺りに響き渡った。
「!?」
あかねの部屋に向かっていた天真が、その声を聞きつけて、藤姫の部屋を振り返る。
ほどなくして、慌てふためいた頼久が、部屋の中から出てきた。
「頼久! どうしたんだ!」
「てっ、天真! 姫が…、藤姫様が……!」
後は言葉にならない。ただ、手に持っていた文を示す。天真は頼久の所へ駆け寄って、その文を取り、開いた。『父上。頼久。八葉の皆様方。申し訳ありません。
藤は、出家することに致しました。
これより、尼寺へ参ります。御迷惑をおかけすることと思いますが、考え抜いた上での決意です。どうぞ、お許しください。
藤
叶うならば、友雅殿に、お幸せにとお伝えくださいませ』「出家!?」
思わず、天真も叫ぶ。
「おい、出家ってのは、頭丸めて世を捨てるってことだろ? なんで藤姫が?」
「私が聞きたいくらいだ! まだ十歳の身空で、髪をおろされる(切る)など……。このままでは、撫子の方様に申し訳が立たぬ。すぐに追いかけて、お止めしなければ!」
そのまま駆け出そうとする頼久を、天真は慌てて引き止める。
「待てよ、頼久。追いかけるったって、行く先が分かんねえだろ。どうやって、追いかけるんだよ」
「京中の尼寺を調べれば済むことだ! 止めるな。こうしている間にも、藤姫様の御髪が切り落とされているかもしれぬのだぞ!」
「馬鹿。そんなコトしてたら、時間がいくらあっても足りねえだろ。いいから、落ちつけ。落ちついて、ちょっと、ここ見てみろよ」
天真が、藤姫の文のある部分を示す。既に、半ば駆け出しかけていた頼久は、そう言われて、ようやく体勢を戻した。
「何だ?」
「ここだよ。友雅の名前が出てるだろ? その上、『お幸せに』ときてる。置き手紙にこんな事書くってことは、出家の原因も、このへんにあるんじゃないか? 友雅に聞けば、何か知ってるかもしれないぞ」
「友雅殿か! ……今なら、神子殿の所ヘ参上なさっているはずだな」
言うが早いか、頼久は、天真の手から藤姫の文を奪い取って、あかねの部屋の方へと駆け出していった。
「おーい、頼久……。…ったく、あかねと藤姫の事になると、目の色変えるんだからな。『寡黙な青年』っていう役回り、ちゃんとわきまえてんのか」
呆れたように呟いた後、天真はにやりと笑う。
「でも、ま、『親しくなった人物には、つい世話をやいてしまう』俺としては、ここは追いかけてやるのが、正しい行動だよな。……友雅と藤姫か。おもしろそうだ」
天真は愉快そうに笑うと、頼久の後を追いかけていった。
「友雅殿! いらっしゃいますか!?」
あかねの部屋の隣にある、八葉のための控え室に、髪を振り乱しながら飛びこんできた頼久に、他の八葉が驚きの視線を向ける。
「どうしたのです、頼久。そのように慌てて」
「そんな事を言っている場合ではないのです。友雅殿……、友雅殿!」
部屋の端のほうに腰を下ろしていた友雅を見つけ、頼久は胸倉を掴まんばかりの勢いで、彼に詰め寄った。
「どうしたんだい、頼久? 言い寄ってくれるのなら、もっと時と場所を選んで欲しいが」
「お戯れをおっしゃっている場合ではありません! これをご覧ください!」
頼久が、友雅の眼前に、藤姫の文を突きつける。それに目を通した友雅の顔色が、さすがに変わった。
「藤姫が?」
「そうです! 友雅殿、一体、藤姫様に何をなさったのですか!? 藤姫様は、どちらにいらっしゃるのです!」
「おいおい、一体、何事だよ」
「藤姫に何かあったみたいだね」
イノリと詩紋がぼそぼそと囁き合う。すると、天真が部屋に入ってきた。
「あっ、天真先輩!」
「よお、詩紋。…おーおー、予想通りな事になってるな」
愉快そうに、頼久と友雅の争いを眺める天真に、詩紋がきょとんとした顔になる。
「天真先輩、何か、知ってるの?」
「ん? ああ、実はな……」
天真は、簡単に事情を説明した。
「藤姫が出家!?」
イノリと詩紋が同時に叫ぶ。横で話を聞いていた鷹通と永泉も、目を見開いた。
「あのような幼く愛らしい方が……。その原因が友雅殿にあるというのですか?」
「多分な。まあ、しばらく見てよーぜ。いくら友雅でも、今の頼久をあしらうのは難しいだろ」
天真が、人の悪い笑みを浮かべながらそう言うと、イノリも身を乗り出して頷いた。
「そうだよな。忠犬 対 古狸か。いい勝負になりそうだな」
「お。お前も結構言うな」
「何を言ってるんです、二人とも」
鷹通が、呆れたように二人の間に入ってくる。
「藤姫が出家すると言っておられるのですよ? 面白がっている場合ではありませんよ」
「まーまー、鷹通。そんなカタい事言うなよ。お前だって、普段、友雅に散々からかわれてるだろ? 一緒に、友雅の困った顔、見物しようぜ」
とたんに、鷹通がぴたりと言葉を発するのをやめ、ちらりと友雅に視線をやる。
「……まあ、出家を思い立った原因が分からなければ、お止めすることもできませんね」
「そうそう」
男共が、確信犯的な笑みを浮かべたとき、騒ぎを聞きつけたあかねが部屋に入ってきた。
「どうしたの? すごい声が聞こえたけど」
「あ、あかねちゃん。今、大変なことになってるんだよ」
詩紋があかねに状況を説明する。
「藤姫が? そっか、それは頼久さん、怒るよね」
あかねが、友雅を厳しい目で睨み付けている頼久に目を向ける。
「あ、あかね、まだ止めるなよ。今、面白いとこなんだから」
「えー、ひどいなあ」
そう言った時、あかねは皆に背を向ける格好になっていた。だから、その時、彼女がほくそ笑んだことに気が付いた者は、誰もいなかった。
「友雅殿! お答えください!」
「まあ、待ちたまえ、頼久。今、考えているところだ」
「や、やはり、心当たりがあられるのですねっ。一体、何をっ」
しばらく、そのやり取りを見た後、あかねは頼久に近付いて行って、その肩に手をかけた。
「頼久さん」
頼久が、はっとして振り返る。
「神子殿っ」
興奮して真っ赤になっていた顔が、すっと冷める。
あかねはにっこりと笑って、頼久の隣にかがみ込んだ。
「話は聞きました。でも、落ちついてください。藤姫が出ていったのって、そんなに前の事じゃないんでしょう? だったら、まだ間に合いますよ」
「は、はい……」
頼久の顔が、先ほどまでとは違う意味で赤くなる。
「申し訳ありません、神子殿。神子殿を守るべき私が、取り乱してご心配をおかけするなど……。あるまじき事です」
「そんな事いいんですよ。頼久さんは、藤姫が赤ちゃんの時から側にいるんですから、取り乱すのも当然です。それに、私、頼久さんの事好きだし。力になれるなら嬉しいもの」
「み、神子殿っ!」
頼久の顔が、完全に真っ赤になった。
「……やれやれ、二人とも若いねえ。こんなに間近で見せられると、まぶしすぎて身体にこたえるよ」
友雅がつまらなさそうに呟くと、頼久ははっとして友雅を見た。
「も、申し訳ありません。そ、それで、友雅殿。何か、お分かりになりましたか?」
「無駄ですよ、頼久さん。友雅さんは心当たりが多すぎて、どれが原因か分からないんですって」
「こらこら、神子殿。これ以上、彼をあおってどうするんだい。それに、藤姫のことなら分かったよ」
「本当ですか!?」
「ああ。たった今ね」
友雅がすっと立ち上がる。
「神子殿、ちょっと」
あかねが、ちらっと友雅を見る。
「何か?」
「外へ出よう。ああ、他の者はついて来ないようにね」
友雅が、頼久と見物人たちの顔を見回しながらそう告げると、頼久が不安そうに彼を見る。
「神子殿を、どちらに連れて行くおつもりなのですか?」
「なに、すぐそこまでだよ」
「何か分かったんでしたら、頼久さんに教えてあげたほうがいいんじゃないですか?」
あかねが素っ気無く言うと、友雅が小さく微笑む。
「場を変えたほうが、お互いのためだと思うけど?」
あかねの眉がぴくっと震える。しばらく無言で友雅と視線を見交わした後、あかねは立ち上がった。
「分かりました。行きましょう。
――――頼久さん、ちょっと待っててくださいね」
二人は、部屋を出て行った。
「―――――藤姫は、どこにいるんだい?」
廊下をしばらく歩いたところで、友雅が不意にそう言った。
「え? 私が知ってるはずないじゃないですか」
「いや、君は知っている」
友雅が足を止め、あかねを振り返る。
「この件には、君が関わってるんだろう?」
「……どうして、そう思うんですか?」
「理由は二つ。一つ目は、君が落ちつきすぎている事。君は、誰かさん以上に感情的だし、藤姫のことを可愛がっているからね。本当に、姫の行方が分からなければ、真っ先に飛び出して行くはずだ。
もう一つは、姫の置き手紙に君の事が一言も書かれていなかった事。あの一途な姫なら、真っ先に君の名をあげるはずだ。それが無かったのは、既に、君が承知しているからということになる」
あかねは黙ってそれを聞いていたが、しばらくして、くすりと微笑んだ。
「さすが友雅さん。最愛の君が行方不明になっても、目が曇ったりはしませんか」
「…一体、何をしたんだい?」
友雅が問うと、あかねはひょいと肩をすくめた。
「別に。ただ、『友雅さんて、結婚しないのかなあ。そういえば、妙齢の姫君の館に通ってるとか言ってたな』って、言っただけです」
「……もしかして、それは随心院のことかい?」
あかねはにっこりと笑う。
「間違ってはいないでしょ?」
ただ、すでに亡くなっていると言わなかっただけで。
友雅はため息をついた。
「それで、藤姫は今どこに?」
「ああ。頼久さんの部屋です」
「え?」
「意外と盲点でしょ? 藤姫がいないとなったら、頼久さんは不眠不休で捜し回るだろうから、部屋になんか戻らないし。部屋の主がいなければ、他の人も、そう近付かないだろうし。今朝、頼久さんが出かけるのを見計らって、こっそり連れていったんです」
「……全く、君という子は…」
友雅は、深い深いため息をついた後、くるりと身体の向きを変えた。
頼久の部屋のある、武士団の離れへと。
友雅が去っていった後、あかねは再びほくそ笑んで、皆の所へと、小走りに戻っていった。
<続>
まだまだ、あかねちゃんのお腹立ちはおさまりません(^^;。