朱 ――あけ―― (後編)
翠 はるか
「……ねえ、イクティダール」
ある日、話し途中で不意に黙り込んでしまったセリが、彼の顔を覗き込んで言った。
「なんだ?」
「私と会う日は、被衣を取ってくれない?」
「うん?」
イクティダールは、被衣の下から、彼女の顔を見返した。
彼は、外出の際には必ず被衣をする。彼女と会っている時も、どこに人目があるか分らないので、いつもよりめくりはするが、取り去ったりはしない。
「どうした、急に?」
「うん……。だって、あなた、ただでさえ表情をあまり変えない人だから、被衣なんてしてると、余計に何考えてるか分からないんだもの」
つまらなさそうに言う彼女に、イクティダールは微笑を漏らす。
「そうか? だが、外してしまう訳にはな」
「ここには人なんて来ないわ。それに、あなたは自分の一族と京の人たちとの間の垣根を取り払いたいんでしょう? だったら、京人の私に顔を見せないなんておかしいわ」
ずいぶんと乱暴な論理だ。彼女もそれは分かっている。
だが、彼女はイクティダールが被衣の下に、苦悩や悲しみの表情ですらも隠してしまうのが嫌だった。
今では、セリは自分が彼に好意を持っている事を、はっきりと自覚している。
彼が世間で言われているような、悪虐な存在ではない事も分かっている。そう言われている事に、彼が心を痛めている事も。
だから、自分といる間だけは、心を置かずに、振る舞って欲しかった。
その思いが表情からひしひしと伝わってきて、イクティダールは小さく微笑んだ。
「……分かった、そうしよう」
危険なことだと分かっていた。けれど、彼女の望みのままに、今はしたかった。
彼女の心遣いが何より嬉しかったし、頷けば、きっと彼女は微笑んでくれるだろう。
実際、彼が被衣を取り去った時、彼女はとびきりの笑顔を見せてくれた。
自分も甘くなったものだと、イクティダールは思った。そして、それはやはり甘かったのである。
★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★
「……………」
イクティダールは、いつもの待ち合わせ場所に座っていた。
いつもは待っている間も、暖かで穏やかな気持ちが満ちるのだが、この日は焼け付くような焦燥感がイクティダールの中を駆け巡っていた。
セリが来ない。
彼女が遅れることは珍しい事ではない。病状が悪くなったり、家族の世話をしたりとか、そういう理由で。
遅れてきた彼女は、申し訳なさそうな、でも嬉しさの混じった表情で駆け寄ってくる。それを待っているのも、楽しみのひとつだった。
けれど、今日は違う。とても―――何故だか、とても嫌な予感がする。
まるで、石つぶてを受けたような、鈍い痛みをあちこちに感じる。
セリは……、まだ来ない。
イクティダールは立ち上がった。セリの家がある村の方向へ足を向ける。
セリの家の場所は知っていたが、今まで人目を避けて、訪ねて行った事はなかった。
…遠くから様子を見てみよう。そうすれば、きっと安心できる。
イクティダールは自分に言い聞かせる。だが、身体はそれを裏切るように、全速力で駆け出していた。「―――――!!」
セリの家から少し離れた茂み。そこからでも、何か異変があった事は、すぐに分かった。
入り口の襖は、二つに折れて破れ、壁のあちこちに穴が開き、木片や布切れが辺りに散乱している。
「セリ…っ!」
イクティダールは茂みから飛び出した。幸い、辺りに人影はない。
「セリ……」
駆け寄って、家の中を覗き込んだイクティダールは呆然と呟く。
ひどい有り様だった。
割れた食器や着物が床に散らばり、ところどころに血の跡のような赤い染みが見える。
信じられない思いで、土間を見回していたイクティダールは、ある一点を見てはっとする。
「萩……」
二人が出会った日に、セリに拾われた小犬が、布切れに混じって倒れていた。まん丸だった瞳は力なく閉じられ、いつもちぎれんばかりに振っていた尻尾は、ぐっしょりと朱に染まって床に落ちていた。
イクティダールは小犬の側に駆け寄って、その小さな身体を抱き上げた。
だいぶ硬直が進んでいたが、ほんの少し体温が残っている。
この惨状になったのは、そう前の事ではないらしい。
何故、こんな……とにかく、弔ってあげなくては。
イクティダールは、セリの家の裏庭に穴を掘り、萩の遺体を埋めた。手ごろな石を上に乗せて、簡単な墓を作りながら、彼は確信に近い不吉な予感に捕らわれていた。
墓に向かって合掌した後、彼は身を翻して駆け出す。
セリを…、セリを探さなければ。
★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★
イクティダールは、地面にところどころ残っていた血の跡を頼りに、セリの後を追った。
そして、鴨川の川辺で、岩陰に身を横たえているセリと、その様子を心配げに覗き込んでいる彼女の弟を見つける。
すぐにでも駆け寄っていきたかったが、弟が側にいる事がそれをためらわせた。
彼女の弟――イノリは、セリのように、鬼に対して寛容な心を持っていないと聞いていた。
仕方なく、イクティダールはそっと二人に近づいていった。会話が聞こえるところまで来て、足を止める。
「姉ちゃん、姉ちゃん、大丈夫かっ?」
「ああ…、大丈夫よ、イノリ。少し疲れただけ…、心配しないで」
セリの口調は弱々しかった。
「萩を…、置いてきちゃったわね。あの子…、私を守ってくれた、のに……」
「犬の事より、自分の事だろっ。どうするんだよ、姉ちゃん…、体弱いのに、行くところなんてないの、に……」
イノリが、不意に泣きそうな表情になる。
「……嘘、だろ? 姉ちゃん…。姉ちゃんが、鬼と通じてるなんて……。鬼と姉ちゃんが村の井戸を枯らしたなんて嘘だろっ!」
涙声で叫び、イノリがセリの胸にかきつく。その頭を、セリは微笑んで優しく撫でた。
イクティダールは苦しげな眼差しで、それを見つめていた。
やはり…、そうか。
イクティダールとセリの密会が、村人に知られたのだ。被衣を外したところを見られたのかもしれない。そして、裏切り者として村から追われた。
その様子が、自身の経験と相俟って、まざまざと思い浮かべられる。やはり、自分は甘かった。こうなる可能性がある事を知っていたのに。
だが、俯いて拳を握りしめるイクティダールの前で、セリは言った。
「嘘よ、イノリ」
イクティダールは、はっとしてセリを見た。セリは優しく微笑み、イノリが安心した表情で彼女を見ている。
「そ…、そうだよな。姉ちゃんがそんな事……」
「あの人が、そんな事するはずないもの」
「……姉ちゃん?」
「あの人は、優しい人だもの。いつも、私を…、いえ、鬼と人の争いに心を痛めていて……」
「ね、姉ちゃん。あの人、って……、まさか……」
イノリが表情を引きつらせて、おそるおそる尋ねる。
「…ごめんね、イノリ。私のせいで怪我をさせて。お前まで巻き込んで」
セリはそっと、イノリの額から頬を撫でる。イノリの額には、血がにじんだ布が巻かれていた。おそらく、石で打たれたか、それに近い事をされたのだろう。イクティダールが追ってきた血の跡も、彼のものかもしれない。
「ごめんね、って…、なんで謝るんだよ。嘘なんだろ。嘘だって言っただろ。姉ちゃん……!」
イノリがセリの肩を掴んで、がくがくと揺する。
「姉ちゃん、嘘だって……」
「……う…、…ごほっ」
「姉ちゃんっ」
揺すられたショックか、セリが激しく咳き込み出した。イノリは慌てて揺するのをやめたが、咳はなかなか止まらなかった。
「ご、ごめん…っ。姉ちゃん、しっかりしてくれっ」
「ごほ…っ。……だ、大丈夫よ。大丈夫……」
「姉ちゃん……」
イノリはそれ以上追及を続けることができず、肩を落とした。
「少し休めば良くなるから…ね?」
「……うん。オレ、果物かなんか取ってくるよ。喉渇いたろ?」
「そうね…。ありがとう、イノリ」
微笑んだセリに、イノリは小さく首を振り、土手を駆け上がっていった。残されたセリは、ほうっと息をついて目を閉じる。
それを見て、イクティダールはすぐにセリの元へと駆け寄っていった。その足音に、セリが目を開け、そのまま大きく見開く。
「イクティダール…!」
「セリ!」
イクティダールは駆け寄って、セリを抱き起こした。
その顔色は思っていた以上に悪く、身体は高い熱を帯びていた。
「セリ……」
言葉の出ないイクティダールの前で、セリは嬉しそうに微笑む。
「どうやってここを…、ううん、いいわ。ここで会えるなんて思わなかった」
「セリ…、お前は村を……」
「……村。そう、私、萩を村に置いて来ちゃったの。あの仔、石から私を守って…、それなのに……」
「あの小犬なら、私が葬っておいた。簡易な墓だが……」
「本当? ああ、ありがとう。やっぱり優しい人ね、イクティダール。ほっとしたわ……」
笑って言うセリの身体から力が抜け、イクティダールの胸に倒れかかった。
「良かった……。私、今日行けなくて…、村も出たから、あなたともう会えなくなるかもって……」
「セリ……!」
たまらず、イクティダールはセリの身体をきつく抱きしめた。
「すまない。私のせいでお前をひどい目にあわせて」
「……謝らないで、イクティダール」
高熱のため震える手を、セリはゆっくりと上げ、イクティダールの頬に添えた。
「もう村には戻れない。私…、辛いわ。とても悲しいわ。あなたと同じように……」
同じく震える口唇が、イクティダールの口唇に、かすかに触れる。
「私…、あなたが好き」
口唇から直接、セリの言葉の響きが伝わる。
「あなたの事が…、好き。だから、謝らないで。もう会わないなんて言わないで」
「セリ……」
イクティダールがきつく目を閉じて、口唇を噛みしめる。
もっと強く、彼女を抱きしめたかった。強く抱きしめて、抱き壊して、このままどこかへ行ってしまいたかった。
激しい感情が渦巻く。だが、それはセリのうめき声によって遮られた。
見ると、セリが胸を押さえて、苦しげに息をついている。
「セリ…、苦しいのか?」
尋ねながら額に手を当ててみて、イクティダールは目を見開いた。
飛び上がるように熱い。着物越しに感じていたよりも、ずっと。
「セリ…!」
もともと病弱な上に、この騒ぎで、一気に病状が悪化したのだろう。この熱が続けば…、頼る医師どころか、家すらも失った彼女は、きっと耐えられない。
イクティダールは、彼女を元のように横たわらせて、立ち上がった。不安そうに彼を見るセリに、笑みを投げかける。
「薬を持ってくる。大丈夫だ、私は必ずお前の元へ戻ってくる。……私も、お前が好きだ」
「イクティダール……」
セリが笑みを浮かべて、安心したように目を閉じた。それを見届けて、イクティダールは首領の住む館へと向かった。
そこの宝物庫には、首領のみ服用を許された特別な薬がある。
イクティダールに分け与えられる薬では、病状を軽くするくらいしかできない。しかし、その薬ならば、完全にとはいかないまでも、普通に暮らせるくらいにはセリの身体を癒してくれるだろう。
イクティダールは、これからやろうとしている事に対して、恐怖は感じていなかった。
彼がやろうとしている事は、一族に対する裏切り行為。首領は、鬼の一族を迫害から守るため必要とされる存在。それを害する行為。
許される事ではない。特に、一族の数が減り続けている昨今の情勢のもとでは、通常より厳しい罰―――おそらく、死―――が下されるだろう。
だが、その薬によってセリが癒されれば、もう自分が薬を持っていかなくても、きっと彼女は生きてゆける。
それで、充分だった。
★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★
「―――イクティダール。まさか、お前がこんな行為に及ぶとはな」
一族の者がずらりと居並ぶ中、イクティダールはアクラムの前に跪いていた。
彼の行為はすぐにアクラムに知れ、彼は裁きの場へと身を置かれていた。
だが、イクティダールの心は穏やかだった。目的は達した。それで構わない。
口々に彼を責め立てる皆の声も、静かに受け止める。
アクラムは、一言の弁解もしないイクティダールを、冷笑をもって見下ろした。
「それでお前は満足したか、イクティダール? 所詮、無駄だというに……」
「―――!?」
イクティダールは、はっとアクラムを見た。何か…知っているのだろうか、彼は。彼女の事を。
息を呑む彼に、アクラムは追い打ちをかけるように告げた。
「この者は―――許す」
その一言に、場はざわめき、イクティダールは目を見開いた。
「お館様、それは―――!!」
「静まれ。近々、朝廷への侵攻を行う」
ざわめいた場が、シンと静まり返る。
「まこと…ですか? お館様」
「ああ。その為に手駒は多いほうがいい。この者には、私の副官を勤めてもらう」
アクラムはくっと口元をゆがめて、イクティダールを見た。
「役に立ってもらうぞ、イクティダール」
イクティダールは顔を伏せて、他の一族がアクラムを賛美する声を聞いていた。
やはり、残酷な方だ。
一番酷い罰を自分に与えてくる。
もし、ここで生き延びてしまったなら、自分はきっと生に執着するだろう。
彼女と共にいられる生に、きっと執着してしまう。
そして、京への侵攻に手を貸すのだ。
「…だが、もちろん、無条件に許すわけにはいかぬ。イクティダール、お前の右目をもらう事にしよう」
アクラムが手を伸ばす。それに従って、イクティダールは顔を上げた。
眼窩を抉り取られる痛みを声もなく耐えながら、彼は愛しい女性の顔を思い浮かべた。
……すまない、セリ。
私は京を、お前の信頼を裏切る。
それでも、お前は変わらず私に微笑むだろうか。
既に、生への執着を示し始めた自分の心を苦々しく思いつつ、イクティダールは血の涙を流した。
その後、二人の逢瀬は翳りを負う事になる。
龍神の神子により、アクラムの呪縛が解かれる日はまだ遠い――――。
<了>
もう極めるところまで極めてしまおうと、イクティダール×イノリ姉です(笑)。
鬼と京人の恋愛ってのに、ちょいと萌えまして。