――あけ―― (前編)

               翠 はるか


 少し疲れていた。
 その時の私の心情を表わすなら、それだろうか。


 京の外れにある林を、一人の男が歩いていた。
 幅広の布を被っているため、顔は見えない。だが、かなりの長身で体格も良く、武人の類であろうと思われた。
 男はゆっくりと、ただ歩いていた。
 人影はなく、自然音しか聞こえてこないこの場所は、それだけで男の心を和ませてくれる。
 彼の名はイクティダール。
 京に住む人々から「鬼」と呼ばれ、忌まれる存在。
 それは、鬼が京の人々の生活を脅かすからだと言う。だが、彼自身は、決して争いを好んではいなかった。
 むしろ、彼は平穏な生活をこそ望んでいた。髪と瞳の色は違えど、生きた人間同士。京の者と並存できれば良いと。
 だが、事態はイクティダールの望みとは逆の方向へ流れていく。
 「…………」
 イクティダールはため息をついた。
 先ほどまで、彼は首領アクラムのもとで、鬼の一族の話し合いに参加していた。だが、一族といっても、もはや数えるほどしかいない。――――そうなってしまった。
 ほんの数日前までは、もう少し多くの鬼の一族がいた。その中には、イクティダールと同じように平和的共存を望む者もいた。
 彼らは、京の外れの一角にある隠れ里で、ひっそりと暮らしていた。畑を耕し、機を織り、子を産み、育てて。
 そこへ、都が編成した討伐隊がやってきた。一族の一人が用事で京中に行った時に見つかって、跡をつけられたらしかった。
 惨事が、起こった。
 京に起こる災禍は、鬼の一族のしわざと信じる彼らは、隠れ里にいた一族を皆殺しにした。男も女も、大人も子供も。知らせを聞いたイクティダールが里に駆けつけた時には、そこは焦土と成り果てていた。
 おそらく、これで京の者との共存は、ほぼ不可能だ。イクティダールは、それでも平和的解決を進言したが、首領であるアクラムは京の支配を望んでいる。まだ、はっきりとは口にしないが、それも時間の問題だろう。
 何か……、方法はないものだろうか。
 そう、ひとりごちた時だ。イクティダールは前方に人影を認めて、咄嗟に林の中に身を隠した。
 被衣をしているから、見られても大丈夫とは思うが、念の為だ。
 そうやって様子を窺ってみると、若い女が一人、林道の真ん中にしゃがみこんでいるのが見えた。そのまま動かないので、何をしているのだろうと思ったら、彼女の手元には一匹の小犬がいた。その小犬の足に、彼女は布を巻きつけている。
 おそらく、犬が怪我でもして、その手当てをしてやっているのだろう。
 そう理解すると、イクティダールの口元に自然と笑みが浮かんだ。
 小犬の手当てをする若い女という図は、なかなかに微笑ましかった。特に、沈んでいた心には優しく染み渡る。
 そのまま女が立ち去るまで待っていようと、木陰に身を隠したままでいると、しばらくして女が立ち上がった。が、次の瞬間、再び倒れこむように、その場にしゃがみこんでしまう。
 ……どうしたのだ?
 女は片手を地面につき、もう片方の手で顔を覆うようにしている。気分が悪そうに見える。
 イクティダールは迷ったが、林から出て、女のほうへ近づいていった。
 「娘、どうした?」
 声をかけて、女の側にかがみこむ。
 女は男のほうへ視線を向け、驚きの表情を浮かべた。突然、林の中から大男が出てくれば、当然のことではあるが。
 「どこか具合が悪いのか?」
 構わず、イクティダールは女に尋ねた。そうしながら、彼女の顔色がひどく悪い事に気付く。それに、遠くからでは分からなかったが、女はかなりやせていた。おそらく、病持ちなのだろう。
 「あ……。い、いえ。少し立ちくらみがしただけで……」
 女が、小さな声で答える。
 「そうか」
 それなら、とイクティダールは女を抱き上げ、近くの木陰に連れて行った。持っていた水筒の水で手拭いを濡らし、女の額に当ててやる。
 「……少しは落ち着いたか?」
 しばらくして尋ねると、女がこくりと頷く。
 「はい、ありがとうございました」
 先程よりだいぶしっかりした声だ。顔色も少し良くなっている。
 「礼などいい。それより、お前は……、病を持っているのではないのか?」
 「あ…、はい。そう、ひどくはないのですけど、昔から」
 「ふむ」
 その手の病は、ある意味重い病よりも厄介だ。徐々に、だが確実に、その者の生命力を削り取っていく。
 イクティダールは、懐から常に携帯している薬包を取り出した。
 「これを飲むといい。大抵の病に効く。楽になるだろう」
 女が不安そうな表情になる。
 「でも……」
 「別におかしな薬ではない。安心するといい」
 安心させるように、できるだけ優しい口調で言って、薬包を口元に運ぶと、女は素直に口を開けた。
 薬を口に含ませ、次に水を飲ませてやる。
 そうしてから、イクティダールはまた手拭いを濡らし、額を冷やしてやる。
 「……本当だわ。だいぶ楽になりました」
 しばらくして女が顔を上げ、彼に微笑みかけた。
 「そうか。ならば良かった。もう動けるか?」
 「ええ、多分。……あの、あなたは……、あら?」
 女はイクティダールに何事か尋ねかけ、不意に驚いたような声を上げた。
 見ると、いつの間にか、先ほどの小犬が女の足元に来ており、鼻で何度も彼女の足を突っついていた。
 「あら、お前……。もう、行ってしまったと思っていたのに」
 「お前を心配しているのだろう」
 イクティダールがそう言うと、女は嬉しそうに微笑んだ。
 「そうかしら。よしよし、優しい仔ね、お前は」
 女が小犬を抱き上げ、頬ずりする。
 一瞬、自分の状況を忘れてしまいそうなくらい、平穏な光景。
 だが、そんなささやかな時間でさえも、長続きはしない。
 女が抱いていた小犬がイクティダールのほうを向き、彼の顔を引っかくように前足を伸ばした。
 無論、届きはしなかったが、小さな爪がイクティダールの被衣に引っかかり、はらりとほどけ落ちる。
 「え……!?」
 女が目を見開く。
 「青い…瞳?」
 女の視線は、しっかりとイクティダールの両眼に注がれていた。

 しまった。

 とたんに、怯えた表情になった女を見て、イクティダールは眉根を寄せた。
 少し、気を抜きすぎたようだ。
 急いで立ち上がり、元来た道のほうへ身体を向ける。
 「……娘。驚かせてすまなかった。身体を大事にな」
 それだけ告げて、イクティダールは去っていった。
 後には、呆然とその背を見送る女が残された。


★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★


 それから数日後、イクティダールは再びその林を訪れた。
 今日も、一族の会合後である。
 一族の中で、ほぼ唯一の平和論者となったイクティダールの心労はつのるばかりだ。今すぐにでも京に襲撃を、と主張する他の一族の者を何とか抑えたものの、下手をすれば、先走って何かしでかしてしまうおそれもある。
 心を落ち着けて考えをまとめようと、ここへ来てみたのだが、なかなかうまくいかない。
 一族の者は、身内を京の者に虐殺された経験を持つ者がほとんどだ。確かに、それを恨みに思うなと言うのは難しい。難しい…が、そうしなければ、いつまでたっても悪循環は終わらない。
 思索にふけっていたイクティダールだったが、ある場所まで来て足を止めた。
 あの娘に会ったのは、この辺りだったか……。
 イクティダールは数日前に出会った娘の事を思い出す。
 正体を知られた以上、もうここには来られないかと思ったが、京中でも近くの村でも、ここに鬼が出るという話は広まっていなかった。どうやら、あの娘は自分に会った事を、口外しなかったらしい。
 ありがたい事だが、まあ、もう会う事もあるまい。
 そう思って再び歩き出したイクティダールだったが、すぐに驚きに歩みを止める事になった。
 道の少し先に、あの娘が木にもたれかかるようにして立っていた。その足元には、あの小犬がまとわりついている。
 彼は素早く身を隠し、様子を窺った。
 娘は特に何をするでもなく、ただぼんやりと空を見つめていた。時折、じゃれかかる小犬に視線を落とすくらいだ。手には、小さな包みを持っており、それ以外に荷物はないようだ。
 その様子は、まるで誰かを待っているように見えた。
 イクティダールはそっと身体を反転させた。彼女が何をしているにしろ、見つかると面倒な事になる。早々に立ち去ったほうがいい。
 だが……。
 イクティダールは気になって、もう一度彼女のほうを見た。
 彼女は、身体の具合が良くないはずだ。この間飲ませた薬も一時的な効果しかない。こんな薄暗いところに立ちっ放しでいて、大丈夫なのだろうか。
 様子を窺うが、この距離では表情さえ定かではない。
 そうしているうちに、イクティダールはその場から離れられなくなった。自分が去った後、彼女がまた倒れはしないかと思うと、離れる気にならない。
 そうやって、小半刻(三十分)も経った頃だろうか。彼女が小さくため息をついて、身を起こした。そして、イクティダールがいるほうとは反対の方向に去っていった。
 彼女の姿が見えなくなった後、イクティダールは林道に出た。
 結局、彼女が何をしていたのかは分からなかった。それに、何となく考え事をする気もなくなってしまった。
 イクティダールは、その日はもう自分のねぐらに戻る事にした。


★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★


 だが次の日、イクティダールはまたその林を訪れた。
 彼女がまた来ているのではないかという気がしたのだ。
 そして、その予感通り、彼女は昨日と同じ場所に立っていた。やはり、何をするでもない。
 一体、どうしたというのか。
 イクティダールが逡巡していると、今日も彼女の足元にじゃれついていた小犬が、彼に気づいたのかこちらを向き、きゃんっと吠えた。
 彼がはっとした時には、彼女の瞳は彼の姿を捉えていた。
 しまったと思ったが、案に相違して、彼女はこちらに近づいてきた。よく見ると、口元には笑みさえ浮かんでいる。
 その様子に、イクティダールは立ち去るのをやめて、その場で彼女が来るのを待った。
 「あの……、先日の方ですよね?」
 イクティダールの目の前に立った彼女は、おずおずとそう尋ねた。
 「ああ」
 答えを返しながら、イクティダールはひとつの考えに行き当たる。
 「……もしかして、私を待っていたのか?」
 「……はい」
 彼女が頷く。
 イクティダールのほうは、やはりと思いつつも驚きを隠せなかった。
 「何故?」
 鬼と分っている者を。
 「あの……、きちんとお礼を言ってませんでしたから」
 「礼?」
 「はい、介抱していただいたお礼を。それから、これを。あなたが、この間落としていかれた被衣です。この仔が引っかけて少し破れてしまったから、繕っておきました」
 そう言って、彼女は手にしていた小さな包みを差し出した。
 イクティダールは、その包みを戸惑いながら見つめる。
 「……変わった娘だな」
 「え?」
 イクティダールは頭に手をやり、新しく着けていた被衣を取り去った。その下からは、鬼の一族の証である青い瞳が現れる。
 「お前は、私が恐ろしくはないのか?」
 彼自身は、京の人間と争うつもりも、危害を加えるつもりもない。だが、京の者たちが見れば、彼も鬼の一族。追われ、石つぶてを投げられた事も一度や二度ではない。
 京の者たちは、鬼の一族は自分たちを害するとして忌む。
 鬼の一族は、京の者たちは自分たちを迫害するとして憎んでいる。
 どちらも、全くの間違いとは言えないだろう。どちらが先なのかは、彼には分からないが。
 そんな複雑な彼の胸中など知らぬげに、彼女は柔らかく微笑んだ。
 「あなたは、とても親切に私を介抱してくれましたから。それに、あなたが飲ませてくれた薬。あれのおかげで、しばらくの間息苦しさが嘘みたいに消えて……。私、あんなに気分が良かったのは久し振りで。だから……」
 「……私は見ての通り鬼だが。危害を加えるとは思わないのか?」
 そう言うと、初めて彼女の表情がくもった。
 「加えるんですか?」
 その反応に、イクティダールは思わず微苦笑を漏らす。
 彼女は、本当にイクティダールに対して、敵愾心を持っていないらしい。
 それに、彼女はどう見ても、彼より一回りは年下だ。そんな女性に怯えた顔をされると、何やらいじめてしまったような気分になる。
 イクティダールは微笑んで、首を横に振った。
 「いや、私はお前に危害を加えるつもりはない。すまなかった」
 言いながら、彼は心が和んでいくのを感じていた。
 彼女も、ほっとしたように表情をやわらげる。
 「良かった。本当は少し不安だったんですけど、あなたは悪い人に見えませんでしたから。……それで、あの、何かお礼をしようと思ったんですけど、私は何も持ってなくて」
 「礼などいいと、この前も言っただろう。だが…、そうだな、そう言ってくれるのなら、少し私と話をしてくれないか? 私は京に住む者たちと、もっと話がしたい。害するのではなく、話を」
 「話ですか? ええ、大しておもしろい話もできないと思いますけど」
 「いや、とてもありがたい。では、とりあえず場所を移そうか。もっと明るくて、落ち着ける場所へ」
 「はい」
 二人は並んで歩き出した。その後を、小犬がちょこちょことついて来る。
 「この犬、お前が飼っているのか?」
 「ええ。あの日以来、私から離れなくなってしまって。あ、『萩』って名付けたんですよ」
 「ふうむ。……そういえば、お前の名をまだ聞いていなかったな」
 「あ、本当だわ」
 やだ、と笑いつつ、彼女は答えた。
 「セリです。あなたは?」
 「イクティダールだ、…セリ」
 得たばかりのその名に、イクティダールは優しい響きを感じた。
 さて…、彼女とまずどんな話をしようか。


★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★


 それ以来、二人は度々会うようになった。
 待ち合わせ場所を決め、会って色々な話をする。真面目な話から、他愛もない話まで。
 家族の事、村の事、京中の事。
 それらをセリは嬉しそうに、時に、悲しそうに話してくれた。
 イクティダールも、少しずつ自分の事を彼女に話した。さすがに、鬼の一族の動向などといった話はできないが。
 そんな日々を送るうちに、セリの存在はイクティダールの中で、どんどん大きな地位を占めていった。
 彼女は、彼を心から信頼している。いつも優しい笑顔を見せてくれる。
 それだけで、イクティダールの心は癒されるようだった。
 先日話してくれたのだが、セリの両親の死には、鬼が多少なりとも関わっているらしい。だが、彼女はその事と彼とは関係ないと言ってくれた。
 京の者であり、なおかつそういう経験を持つ彼女が自分を信頼してくれているという事は、イクティダールを勇気づけた。彼女と会っている時は、平穏な未来を信じられる。
 彼女との時間は、何物にも換えがたいものになっていた。その頃から、イクティダールは彼女のために、一族に伝わる調合薬を持ってくるようになった。彼女の家は決して裕福ではないため、簡単に薬が手に入らない。そのため、病もなかなか治らない。動き回れるくらいだから、それほど病状は重くないとはいえ、そのままでは長生きは出来ないだろう。
 薬は鬼の一族にとっても大事なものだったが、彼は自分に当てられた分を割いて、彼女に渡していた。
 すると、彼女も心苦しくなったのか、イクティダールと会う時に、色々な物を持ってくるようになった。
 彼女が作った料理だとか、山で見つけた美しい花だとか、ささやかなものではあったが、彼女の心尽くしが伝わってくる。
 幸せとは、こういう事を言うのだろうな。
 彼女と会う度、イクティダールはそう思った。


<続>


 

 

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