水の流れは尽きず
翠 はるか
うきながら けぬるるあわと なりななむ 流れてとだに たのまれぬ身は
雪の降り積もる法輪寺近くの川べり。
川の水が少しずつ積もった雪を溶かし、共に流れ去っていく。
清閑とした空気に包まれた地。
そこに、泉水はいた。
表情を悲しみに染め、流れゆく水を無言で見つめている。水は清らかで、流れゆく水音は耳に心地良い。だが、今の泉水には美しいものに触れる事が辛く感じられる。
美しい自然を前にしては、人の黒い思惑は、異質さゆえにその姿をさらけ出さずにいられない。それを思い知らされるのが辛い。
だが、人に触れるのはそれ以上に辛く、その身を誰にも見られたくなかった。
先日、東宮彰紋から己の出生の秘密を聞かされて以来、日を追うごとに泉水の憂いは深くなっていく。迷いを断ち切りたいと、こうして何度も寺に訪れても、それを止めることができない。
泉水は深く息をついた。息は冷えた外気にさらされ、白くわだかまる。今の泉水の心のように。
だが、そのわだかまりはすぐに大気に溶け、消えてゆく。そんな些細なことが羨ましく感じた。
消したくても消せない、耳に残る声。幼い頃から、何度も繰り返し言い聞かされてきた母の言葉。
泉水はうなだれて、雪の塊が水面に落ちるのを目に映した。
母が自分を役立たぬ者だと言い聞かせたのは、愛ゆえだと思っていた。
確かに、自分は何の役にも立たぬ者で、それでも、そんな自分を母だけは必要としてくれて、そう言ったのだと信じていた。
だが、違った。そこには憎しみがあるだけだった。
皇位から遠ざけられた恨み。内大臣の妻という不自由のない地位を得ていても、なお諦めきれない強い執着。
母はその負の感情を、泉水にぶつけていただけだったのだ。
泉水は震える手で、自分を強く抱きしめた。そうしていないと、今すぐにでも消えてしまいそうだった。
愛されているのだと思いたかった。
必要とされているのだと思いたかった。
唯一、自分を必要としていると信じていた母が、自分を憎んでいたのならば、もう自分を必要としてくれる人はいない。
泉水は目を閉じて、口唇をきつく噛みしめた。
苦しかった。
今まで信じていた分、今までこらえていた分、その思いが全て深い憎しみへと変わっていきそうだった。
自我を壊された泉水の心は、自分の存在を否定した母を恨むことで、空いた穴を埋めようとしていた。そんな自分が浅ましくて嫌だった。
消したい…、この思いを。この業の深い心を泡沫のように、たやすく消せたなら。その方法を得るためならば、雪山童子(せっせんどうじ)のように羅刹に身を捧げても構わない。
「―――泉水さん!」
泉水ははっと顔を上げた。
自分の名を呼ぶ、よく聞き知った声。振り返ると、間違いなく花梨が泉水のほうへ駆け寄ってきていた。
いつも笑顔の絶えないその顔が、今はなぜか泣き出しそうな表情を浮かべている。
「神子…、どうして……」
呆然とする泉水の前で、花梨は足を止めた。よほど急いで駆けて来たらしく、彼女は耳まで赤くなっていて、ぜいぜいと荒い呼吸を何度もついている。
「…よっ、よか…った……」
まだ整わない呼吸の下で、ようやくそれだけを呟く。
「良かった? 神子、一体……」
「…って。泉水さんが…、ちゃんと…いたから。わ、私、泉水さんの歌を見て……」
泉水は首を傾げた。
今朝、確かに、彼女に歌を贈った。だが、それで彼女がこんなに慌てている理由が分からない。
「あの、神子……」
「泉水さん!」
花梨が急に大声を上げ、泉水の腕をぎゅっと掴んだ。
「だめです、消えちゃうなんて! そりゃあ、辛いと思いますけど、でも、泡のように消えたいなんて、そんなこと言わないでください!」
「神子……」
泉水は目を見開き、潤んだ目で自分を見上げている花梨を見つめ返した。
彼女はあの歌を誤解して…、私が己の存在を消そうとしていると思い込んで、それで駆けつけてくれたのか。こんなに慌てて、こんなに息を乱して。私のために。
苦しみで凍っていた泉水の心に、じわじわとあたたかいものが染みこんでくる。
「あの、神子…。私はそのようなつもりで、あの歌をお贈りしたわけではないのです」
「え…?」
今度は花梨がぽかんとした顔になった。その表情を見た泉水の口元に微笑が浮かぶ。数日振りの笑みだった。
「申し訳ありません、ご心配をおかけして。私があの歌に込めたのは…、私が消したいと思ったのは、この心を占める迷いなのです」
「迷い…?」
泉水は頷きつつ、花梨の瞳を見つめた。
その身にまとう清浄さを凝り固めたような曇りのない瞳。彼女にあの歌を贈ったのは、無意識の内に、その清浄さに触れ迷いが昇華されればという祈りをこめたのかもしれないと、ふと思った。
「…彰紋様のお話を伺ってから、私はどう振る舞えばよいのか分からなくなったのです。私が決して許されない罪の結果、ここに在るという事。罪を犯さずにいられなかった母の気持ち。その犠牲となってしまった和仁様。せめて、人のご迷惑にならないように生きたいと思っていたのに、私は存在するだけで人を苦しめてしまう……」
「そんな! あの事は、泉水さんのせいじゃないでしょう!?」
「そうですね。けれど、やはり私が事の原因であることは確かで…。いえ、何より、私は自分が母の苦しみとなっている事、母にうとまれていた事が辛いのです」
皇位を望んだりはしていない。だから、親王たる己を失ったことは構わない。だが、それによって歪められた人の関係が悲しい。こんな事がなければ、和仁親王も今のようにはならなかっただろう。
そして、この入れ違いの関係が続いたために、母の執着は消えなかった。和仁親王を見るたびに皇位への夢を、自分を見るたびにそれを阻んだ者たちへの恨みを思い出し、その心が癒されることは決してなかった。
たまらずに目を閉じると、ふと小さなすすり泣きが耳に届いた。
驚いて顔を上げると、花梨が両手で口元を覆って涙をこぼしている。
「み、神子。あの……」
「…ご、ごめんなさい。でも、泉水さんがあんまり優しいから」
「え?」
泉水は戸惑った。そんな彼を、花梨は涙を拭いながら見上げる。
「だって、きっと泉水さんが一番傷ついてるのに。泉水さんは被害者なんだから、もっと責めたり恨んだりするのが普通なのに、そういうの全部自分に振り向けて、皆許しちゃうんだもん。どうして、そんなに優しくていられるんですか?」
「…そんな。そんな、違うのです、神子」
泉水は苦しくなって、強く首を振った。
彼女の澄んだ涙も、この景色と同じ。心の汚い部分をごまかしようもなく映してしまう。
「私は優しくなどありません。…許すことが難しいからこそ、こうして迷っているのです。本当は誰でも良いから責めたい。私を憎んだ母を恨みたい。私は……」
泉水は花梨に背を向けた。
「すみません、神子。私を見ないでください。このように、みっともない姿をあなたには見られたくありません」
「そんな。泉水さん……」
「いえ、どうか。…ああ、それでも私はあなたにすがってしまう。あなたのように強くあれたら。母を許す勇気が私は欲しい。何の役にも立てぬ数ならぬ身が、我がままを言っていると分かっています。ですが……」
泉水の言葉が途切れた。花梨が急に泉水の背中に抱きついたのだ。
「み、神子?」
「役立たずなんかじゃありません。泉水さんは強いです。とっても優しいです。辛い事実も正面から受け止めて、私もいつも助けてもらって。私は泉水さんを必要としてます。前からずっと好きだったんです」
「神子……」
泉水は呆然と呟いた。
一瞬、幻聴ではないかと思った。それは、あまりにも心地良い、夢のような言葉で。けれど、触れた部分から伝わる彼女の体温と震えが、確かに現実だと知らせる。
本当に? 神子、あなたは本当に私を…?
京を救うために、空から舞い降りた天女。
その清らかな身を守る事ができるだけで、幸せだと思っていた。その彼女が、自分を想ってくれていると言う。そして、泣いてくれている。自分だけのために。
「神子……」
泉水の瞳が潤み、涙がひとしずくこぼれ落ちた。
幼い頃から望んだのは、御仏に仕え、静かに暮らすことだった。それくらいしか人を不快にさせない方法が分からなかったから。
心の奥底では、必要とされない自分が寂しかったけれど、仕方のない事だと思っていた。
けれど、誰かに…、大切な人に必要とされる事が、こんなにも心を満たしてくれるものだなんて知らなかった。こんな感情は初めてで、涙があふれて止まらない。
泉水が、自分の胸に回っていた花梨の手に自分の手を重ねた。確かにそこにある感触が愛しくて、その手を強く握りしめる。
「…泉水さん?」
急に、痛いほどの力で手を掴まれ、花梨は泉水の肩越しに彼を覗き込んだ。そして、振り返った彼の笑顔と出会う。
「ありがとうございます。…あの、急な事でどう言ってよいのか分からないのですが…、嬉しいです。神子、私もあなたを想っていいでしょうか?」
「泉水さん……。は、はいっ、もちろんです。いえ、嬉しいですっ」
花梨は、今さらながらに自分のした告白に顔を赤らめながら、何度も頷いた。
こんな状況にならなかったならば、口に出せなかったかもしれない言葉。彼の優しさが好きだったけれど、他の人にも与えられる優しさや出家を望む彼の態度が、口に出すことをためらわせていた。
嬉しくて、花梨はぎゅうっと泉水の背に頬を当てた。
だが、そこでようやく、大胆にも泉水にぴったりと抱きついている自分に気付き、慌てて腕を離した。
「神子?」
泉水が不思議そうに振り返る。花梨は真っ赤になって俯いた。
「あ、あの、ごめんなさいっ。私、勝手に抱きついたりして…。あの、はしたないですよね?」
泉水は少し驚いたようにした後、彼女に柔らかく微笑みかけた。
「いえ。あなたの暖かさは、私の心の闇を溶かしてくれました」
そして、そっと花梨の頬に手を添える。
「きっと、清らかなあなたを想うことは、私の醜い心を消してくれるでしょう。…いえ、私はただあなたのお側にいられれば、それで良いのです」
「泉水さん……」
花梨が頬を赤く染めたまま、泉水を見上げる。恥じらうその様子がたまらなく愛しくて、泉水は衝動的に彼女を抱きしめた。
「…あっ」
「すみません、神子。しばらくこのままで……」
抱きしめた彼女の身体はやはり暖かく、包み込まれるように柔らかで、離したくなかった。
こんなにも愛しく想っていたのかと、湧き上がる感情に驚きながら耳元で囁く。
「あなたが私の神子で良かった。心からそう思います」
「泉水さん…。私も、泉水さんが八葉で良かった。一緒に戦う人があなたで本当に良かった」
「神子…、嬉しいです。そう言ってくださるあなたの期待に、必ず応えたいと思います。……母を許せるかどうかは、まだ分かりません。ですが、もう少し心の整理がついたら、話をしてみようと思います。その時には、ご報告に上がりますから。心配しないでいてください」
「泉水さん…。はい、私、応援してますから」
花梨も泉水の背に腕を回し、彼を抱きしめる。
雪のちらつく清閑な地で、二人はしばらくそうして寄り添っていた。
不意に、二人の近くの木から雪の塊がすべり落ちた。重い音が響き、その音で二人ははっと顔を上げる。
「…あ、雪か。驚いちゃった」
「ええ…」
それをきっかけに、二人は離れた。我に返ると、感情のままにとった行動が気恥ずかしかった。
かすかに赤らんだ頬で、しばらくお互いを見つめ、やがてくすりと笑いあう。
「…来てくださって、ありがとうございました。明日はきっとあなたの元へ参上します」
「はい…、待ってますから」
泉水は微笑んだ。
待ってくれる者のある事は、こんなにも心を強くする。皆のために何もなさないのではなく、たった一人のために何かをなしたいと初めて願った。
「では、今日は帰りましょうか。邸までお送りします」
「あ、はい。ありがとうございます」
二人は並んで歩き出した。先ほどの気恥ずかしさがまだ残っていて、会話は少ない。だが、とても満ち足りた心地だった。
途中、泉水はふと水流に目を向けた。さらさらとした流れが、今は妙なる楽の音に聞こえ、己の心の現金さに呆れてしまう。だが、それ以上に強く湧き上がる想いがある。
―――この清流のように尽きせぬ想いで、この方をお守りする。この身をかけて。
やがて、泉水と花梨の姿がその場から消える。人の気配の絶えた川べりでは、ただ水流だけが清しい音を立て、泉水の願いを乗せて流れていった。
<了>
四段階イベントを、泉水くんの心理なんかを交えつつ、お話にしてみました(^^。
このイベント好きなんです。特に「母を許す勇気が欲しい」と言うところ。
泉水って強いなあと感心しました。
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