初夏の風が、さらさらと心地良い葉ずれの音を立てている。
鬱とした梅雨が明け、空は青々と輝き、その青天の下、六条宮もまた晴れやかな顔で客人を迎えた。
「和仁様、よくいらっしゃいました」
「叔母上」
迎えられた少年は嬉しそうに彼女に呼びかける。奥に秘めた醜い欲望とは裏腹に、二人の会見は双方の晴れやかな笑顔によって微笑ましいものに装われていた。
「また、お身大きくなられましたね。もう幾年もせぬ内に元服なのですから当然でございますが」
「ありがとうございます。あの、叔母上。めずらしいお菓子が手に入ったのです。持ってきましたから、召し上がってください」
和仁は言い、後ろに控えていた時朝に合図をした。時朝が心得顔に立ち上がり、手に持っていた包みを六条宮の女房に渡す。
「まあ、私に? 嬉しい事。和仁様はいつも私を気遣うてくださる」
にっこりと笑まれ、和仁は照れたように笑った。六条宮の笑顔が何より嬉しかった。
内裏に戻れば腫れ物のように扱われる彼だけれども、ここにいる間は尊い子、立派な子として優しく扱ってもらえる。彼にとって、六条宮は誰よりも――父である院よりも頼りとなる人物だった。
「よろこんでもらえて嬉しいです」
「ええ、この上ない喜びですよ。本当に泉水とは大違い」
「泉水は叔母上にやさしくないのですか?」
六条宮の綺麗に紅を塗られた口唇からため息が漏れる。
「和仁様を見習わせたいこと。あれは何もできなくて…、このように贈り物をして母を喜ばす事もできない」
その顔が悲しげなので、和仁は慌てて身を乗り出した。
「だいじょうぶです、叔母上。今度、私がまたおくり物をします。だから、悲しまないでください」
「まあ、和仁様」
六条宮がころころと笑う。その顔は満足げに見えた。それは彼女の大半を占める恨みをも塗りつぶし、このまま消えてしまうのではないかと期待させるほどに温かい。
だが、もう誰も彼女を止める事はできない。和仁も、彼女自身でさえも。
しばらく歓談が続いた後、六条宮はふと時朝に目を転じた。
「それにしても、恐れ多くも親王様の供がこの者一人など。以前にも申し上げたように、もっと随身をお増やしなさるべきですわ」
「ですが…」
和仁の顔が曇る。皇位継承から外れ、確たる後ろ盾もない親王の暮らしは、ともすれば困窮しがちである。和仁はまだ元服前で後宮にいるため、それなりの暮らしができるが、仕える者の数は、現帝、東宮に比べるべくもなかった。
「遠慮しておられるのか。ほんにお優しい方でいらっしゃる。ですが、そのような心配は無用というもの。和仁様は京の春となる尊いお方。それに相応しいお暮らしがございましょう」
その言葉を聞いた時朝がかすかに眉をひそめた。春は東を表す。六条宮はやはりまだ和仁を東宮とする夢を諦めていないのだ。
「私から院に申し上げましょう。いいえ、それより我が家から心有る者をお譲りしてもいい。和仁様のお為ですもの」
「本当ですか?」
「ええ、もちろん」
―――和仁様の御封では、今以上の家人を抱える事はできません。
時朝は言いかけて口をつぐむ。六条宮は知っているのだ。和仁が政界から無視されている事も、その侘しい暮らしぶりも。知った上で、決して認めようとしない。ならば、言葉を幾らつむごうと虚しいだけだ。
―――何故、こんな事になったのか。
時朝は深く瞑目した。
* * * * * * *
「私に臣下にくだれと言うの!」
梅壺の一室で、二の宮――後の六条宮――は色を失った口唇を震わせた。
その前で、一人の女房が頭をたれたまま、静かに言葉を返す。
「臣下とは申せ、中納言様は由緒正しき村上源氏の方。元は皇家の出でございます。次の除目で大納言となられる事が決まっておりますし、それに合わせてご結婚を…」
「それでも、臣下は臣下だわ。私は皇家の方以外に嫁ぐ気はない」
女房は密かにため息をついた。彼女は二の宮の母――先帝の女御に仕えていた女房だった。そのため、この皇女の気質はよく知っている。恐らく拒絶するだろうと思っていたが、案の定だ。
「そのような意地などお捨てなされませ。母君・梅壺の宮さまを亡くされた姫宮さまを案じ、帝自らが整えてくださった良縁でございますよ」
「なんですって…」
二の宮の形相が変わった。
あの男が私を降嫁させようとしている…?
そういうことか、と二の宮は口唇を噛みしめた。
あの男はどこまで私のものを奪えば気が済むのか。兄を出家させ、母上を死に追いやり、この上私からも皇族の身分を奪うのか――!
「…認めないわ。そんな話すぐに断りなさい」
「ですが、梅壺の宮さまは既に薨去なされ、兄君も出家なされております。後ろ盾のない皇女は寂しいもの。その例を姫宮様もご存知でいらっしゃいますでしょう」
「く…っ」
「ご降嫁なされれば、源中納言様は姫宮様の血筋を尊ばれ、正妻として重んじてくださるでしょう。何不自由ない暮らしが保障されます」
握りしめた二の宮の拳がぶるぶると震えた。生活の保障のために、臣下に身を落とす。それは皇女である事を拠り所にしてきた二の宮にとって、この上ない屈辱であった。
「……どうか、よくお考えになられますように」
そう言い残し、女房は部屋を出ていった。一人残されると、二の宮は支えを失ったように床に崩れ落ちた。床に散った衣を握りしめ、美しい紋様にしわを作る。
「くやしい…、くやしいいっ!」
あの男、あの男、あの男!
許さない…、許すものか。この苦しみ、必ずあの男に返してやる。必ず…!
二の宮の心に暗い情熱が生まれた。
* * * * * * *
和仁を見送った後、くつろいでいた六条宮は、庭の向こうから響く歓声に気付き、柳眉をひそめた。
「あちらは泉水の室ではないの。うるさいこと…」
そのまま知らぬ振りをしようかと思ったが、それが歓声だったのが気になって、六条宮は立ち上がる。
暗い情熱がじわじわと甦るのを感じながら。
六条宮が泉水の室に続く廊下を渡っていると、歓声に交じって笛の音が聞こえてきた。彼女の足がいったん止まるが、すぐに元のように歩き出す。
庭には、幾人かの女房が集まっていた。皆楽しげに笑いあっている。更に進んでいくと、庭の端にいた女房がはっと顔を上げた。
「これは奥方様―――」
「一体、何事です。大きな声が対屋中に響き渡っておりますよ」
「申し訳ありませぬ。その、若君が笛を奏でなさっておりまして」
六条宮の眉が跳ね上がる。
「それしきの事で騒いでいたの」
「いえ、それが若君が笛を奏でられると、近くにいた鳥が皆、その音に誘われるように舞い降りてきたのです」
「何ですって」
庭に目を転じると、確かに対屋の屋根の至る所に種々の鳥が止まっていた。更に見ると、鳴いているものや身体を揺らしているものがある。そのどれもが、聞こえ来る笛の音に調和していた。
「お気付きになられましたか。鳥が若君の笛に音を合わせ、舞いを踊っているのでございます。ほんに若君は不思議な力をお持ちですわ」
―――許さない。
「あのような気色の悪い光景のどこが良いの」
六条宮は冷たく言い放ち、驚く女房を尻目に廊下を進んだ。
「泉水」
一心に笛を吹いていた泉水が驚いて振り向く。音がやみ、鳥たちは一斉にどこかへと飛び立っていった。
「母上」
「何をしているの」
「あの、笛の練習を…」
泉水はかぼそい声で答える。六条宮の表情から、彼女が怒っているのが分かった。
「周りを御覧なさい、泉水」
「はい…」
「このように大勢の女房を集めて。彼女たちには仕事があるのです。お前の用事で邪魔をするのではありません」
「あの、奥方様。これは私たちが勝手に…」
「お黙り」
六条宮はぴしゃりと言い放つ。
「家人の失態は、それを使う者の失態。いいですね、泉水」
「…はい。ごめんなさい、母上」
泉水は俯いて、謝罪の言葉を述べた。六条宮はいくぶん溜飲を下げたが、まだ苛立ちは納まらなかった。
「さあ、お前たちは早く仕事にお戻り」
女房を追いやって、庭にいる泉水と二人、対峙する。
「今朝、少納言から文が届きましたよ」
泉水がはっと顔を上げる。その瞳に喜色が湧き上がるのを認め、六条宮は密かに表情を歪めた。
少納言とは、泉水の乳母を務めた女性であった。内大臣が正妻に男児が生まれた事を喜び、人格・教養ともに優れた人物を選んで泉水につけた。
彼女は課せられた役目を十二分に果たした。教養豊かになるように、皆の尊敬を受けるようにと愛情深く泉水を育てた。―――そして、その故に六条宮に疎まれ、邸を追われた。
六条宮は口唇の端を吊り上げ、次の言葉を待つ泉水を見据えた。
「お役目から解放されて、ようやく気が楽になったと書いてありましたよ。お前ときたら、少納言があれほど熱心に教えても、何ひとつ身につけられなかったのだもの。愛想を尽かされるのも仕方のない事ですよ」
「少納言がそのような事を…?」
泉水の顔がみるみる沈む。それを胸のすく思いで見ながら、六条宮は更に言葉を続けた。
「これ以上お前につき合わせては、彼女の才が惜しい。できれば復職をと思うていましたが、それも申し訳ないこと。少納言は他家から誘いもあるそうだから、そちらへ行ってもよいと伝えましょう。良いわね?」
「―――……はい」
長い沈黙の後、泉水は頷いた。乳を授け、成長してからも常に側にいてくれる乳母は、実の母以上の母といえる。それと引き離される事は、身を切られるように痛かった。
…でも、僕のわがままで少納言を困らせてはいけない。少納言には幸せになってほしいもの。
涙をこらえる泉水を六条宮は侮蔑を込めた眼差しで見遣った。――少納言の話は無論、嘘である。文が届いた事は事実だが、その中身は泉水を案じ、再度召し抱えてほしいと願うものだった。
―――あんな者を側には置けない。
「良いですか、泉水。お前のような役に立たぬ者は、何もせずにいるのが一番良いのですよ。何かしようとすればかえって迷惑になる。それをわきまえて、常に人より下がった所にいなさい」
「はい、母上」
「よろしい。では、今後このような事がないように」
「はい、気をつけます」
「では、私は部屋に戻ります。お前も今日は部屋に戻り、反省をなさい」
言い捨て、六条宮は足音も荒く、自室へ戻って行った。
―――許さない。
自室へ戻る途中、いったん納まっていた苛立ちが、再び彼女の中に湧き上がっていた。その苛立ちは怒りのためと言うより、焦燥のため。
六条宮の脳裏に、先ほどの光景が浮かぶ。
泉水の笛によって呼び寄せられ、歌い舞う鳥たち。仏の御業か、神の奇跡か、そうとしか思えない。泉水の周囲では、よくそういう事があった。
―――認めない。私を屈従させたあの男の息子が神の加護を受けるなど許さない。
焦燥はじわじわと彼女を侵食する。あんな奇跡、和仁の周りで起こった事は一度もない。
―――あれが教養を学び、才が認められるなどあってはならない。
恨みが恨みを呼び、苦しみが苦しみを呼び、彼女の心は闇に染まっていた。その闇は深くて、時折差し込む光すら拒絶してしまう。その歪みは、院の息子――彼女から全てを奪った男の分身である泉水を虐げる事によってわずかずつ発散され、かろうじて彼女の均衡を保っている。
―――私の息子より、あの男の息子が優れるなどあってはならない。必ず私は皇位を取り戻す。
彼女の中に宿った、果てなく暗い深淵。諦め、絶望する事もできぬ魂は、底を知らず、深淵に堕ちていく。
<了>