一緒に濡れて帰ろう

翠はるか



 寂れた邸の軒先で、対照的に立派な衣服を纏った童が雨宿りをしていた。
 衣服は立派ではあったが、その童はまだ年若く、ほっそりとした小柄な体躯をしている。濡れた髪や服が雫を垂らしながら、身に張り付いている様は痛々しいほどだ。
 だが、その眼差しは鋭く、幼さは消えかかっていた。
 「まったく……」
 童―――深苑は、次第に激しくなってくる雨音を聞きながら、苛立たしげに呟いた。
 髪や肩は雨露を吸い、その鋭い眼を囲む睫毛もしっとりと濡れている。すぐに着替え、熱い茶でも飲みたいところだが、それはできない。
 深苑は小さくため息をついた。
 今日は、外出するときから曇っていた。だから、今の状況は予期していたことだ。だが、そんなことは、少しも不快感を和らげてはくれない。
 ―――早く帰らねば。家では心配しているだろう。もう少し雨が弱まれば、走って帰ってもよいのだが。
 しかし、降り出したばかりの雨は、衰える気配すらない。
 深苑は家で待つ少女たちのことを思い出した。
 心配性の妹。そして、3年前から彼の邸に住まっている少女。
 待っている…であろうな。まったく、ただでさえ、彼女には待ってもらっているというのに。
 「…っ」
 深苑は更に不快げに眉を寄せた。
 埒もない思考を。この、鬱陶しい雨のせいだ。
 「……きゃ〜。もうっ、なんでこんな急に激しく降るの〜〜」
 ―――え?
 深苑は目を瞬かせた。聞き覚えのある、だが、ここで聞くはずのない声を聞いた気がする。
 気のせいと思いたかったが、そう思うのは難しいほどはっきりした声だった。深苑は急いでその声の元を振り返る。
 水干を着た人物が、深苑の方へ走り寄ってきていた。
 「あっ、すいません。私も雨宿りさせてくださいっ」
 軒先にいる深苑に気付き、その下に飛び込んでくる。その姿と所作から男と勘違いしそうだったが、そうでないことを深苑は知っている。
 目眩が、した。
 「ふう、助かった。急に降り出して災難でしたよねえ」
 「―――供もつけずに、このような所で何をしておる」
 「え? …………ええっ、み、深苑くん!」
 花梨が深苑を見て、文字通り飛び上がる。それまでは雨を避けることだけに意識が行って、軒先の人物の顔など確かめなかったのだろう。
 「どっ、どうしてここにいるの?」
 「それは、私の質問だ。何をしておる」
 「ははは…、えっと〜」
 花梨が指先で頬をかきながら、へらへらと笑う。
 「ごまかすでない。少しは作法もわきまえてきたと思っていたが、見込み違いだったようだな」
 「そ、そんな冷たく言わなくても。久しぶりに、ちょっと市を覗いただけだよう」
 「供もなしでか」
 「うっ。…で、でも、深苑くんだって、貴族のお坊ちゃまが供もつけずに出かけるなんて、普通しないんじゃないの?」
 花梨は反撃を試みる。だが、深苑の鋭い舌鋒は、そんな程度では止まらなかった。
 「男子の一人歩きなど、さほど珍しいものではない。夜な夜な歩き回る者もいる」
 「それは……」
 花梨の胸にちくりと嫌な感覚が刺さる。
 この地の常識にも慣れてきて、深苑の言っていることが何を意味しているのか分かる。恐らく、何気なく言ったのだろうが、自分の前でそんな喩えを出さなくてもいいではないか。
 湧き上がるもやもや感と言い込められた悔しさで、花梨はぷいっと横を向いた。
 「そうだよね。深苑くんも大きくなったら、色んな人のところ渡り歩いたりするんだろうね」
 「は? 何を言っておる」
 「深苑くんも、もうすぐ元服だしっ。そしたら、きっともてるよねっ。フンだ」
 「…花梨」
 いくら深苑が幼く、いまだ艶事には縁がないとはいえ、こうあからさまに態度に出されれば嫌でも分かる。
 「…馬鹿者。誰がそんなことを言っておる」
 「だって!」
 「それを言うなら、そなたこそ、度々、一人で男に会いに行っているようだがな」
 「ええっ!? …ま、待って、もしかして、八葉の皆のこと? あれは違うでしょう」
 「分かっておる。もののたとえだ」
 深苑はかすかに照れたように微笑んだ。
 「きつい物言いをしたな。私は、ついそなたを心配しすぎてしまうのだ。すまない」
 「え……」
 思いがけない反応に、花梨は言葉を詰まらせる。
 次第に、頬が熱くなってきた。
 ちょっと、ちょっと! いつも仏頂面なくせに、そのはにかんだ顔は反則だって!
 花梨がぺちぺちと自分の頬を叩く。
 「何をしておるのだ」
 「ちょ、ちょっと熱さまし」
 「なに?」
 深苑は首を傾げたが、それ以上は尋ねなかった。彼女の行動が理解できないことなどいつもの事だ。
 「それより花梨、そんな端近にいては濡れるぞ。もっと、こちらへ来るといい」
 「あ、うん…」
 花梨は手招きされるまま深苑の隣に立ち、横目で彼を見た。思ったより近くに彼の顔があって驚く。初めて会ったときは、頭ひとつ分も彼女のほうが大きかったのに、もう少しで追いつかれそうだ。
 花梨は深苑から視線をそらして、雨空を見上げた。妙に落ち着かなかった。
 「雨、やまないね」
 気分を変えようと、花梨が話題を振ると、深苑も微笑を消して頷いた。
 「そうだな。…これはもう明日までやむまい」
 「えっ、それは困るよ」
 すっかり気まずさも忘れて叫ぶ。
 「ああ、紫も心配しているであろう」
 「うん…。ね、もう走って帰っちゃおうか」
 深苑がぎょっとして花梨を見る。
 「何を言う。この雨脚では、すぐにずぶ濡れだ。風邪を引くぞ」
 「このまま、ここで夜明かししたら、どっちにしろ風邪引いちゃうよ。邸までそんなに遠くないし、着いたらすぐ温まれば大丈夫だよ」
 「待たぬか。そう短絡的に結論を出すでない。私がどこぞで傘を贖って来るから、そなたはここで待っていろ」
 「それじゃ、どっちにしろ深苑くんは濡れるじゃない。だめだめ、そんなの。一緒に行こうよ。たまには雨の中を走るのも楽しいかもよ」
 花梨がにこにこと笑いながら言う。自分の思いつきに満足しているのか、声まで弾んでいた。
 「……まったく」
 深苑はため息をつくが、花梨の屈託のない笑顔を見るうちに、いつしか自分も笑ってしまった。
 「では、そうしよう。確かに、このままでは埒があかぬからな」
 そう言うと、深苑はするりと帯をほどいて表着を脱ぎ、それを花梨に渡した。
 「これを被るといい。大して役立たぬとは思うが、直接雨に打たれるよりはましであろう」
 「え、でも……」
 花梨がためらい顔でその表着を見る。彼女もまた深苑の身を案じているのだろう。だが、彼女の気遣いは、この場合、深苑には恥と思える。
 「よいから、これくらいさせよ」
 「…分かった、ありがと」
 花梨が笑って表着を受け取ると、深苑も微笑して、そっと花梨の手を取った。そして、二人は雨の中へ飛び出した。
 二人はたちまちびしょ濡れになる。だが、つないだ手が温かく、雨もさほど冷たく感じなかった。
 「花梨、大丈夫か」
 「うん、平気。気持ちいいよ!」
 本気なのか強がりなのか、花梨はそんなことを言う。おそらく前者なのだろう。
 彼女のこんなところに惹かれているのだと思う。
 深苑は小さく呟いた。
 「……まったく、どうしようもない馬鹿者だな」


<了>
                                            


 

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