道程
翠 はるか
「あんたも達者で暮らすんだよ」
別れ際、シリンがそう声をかけると、白龍の神子は一瞬驚いたような顔になり、だが、すぐに満面の笑みを浮かべて、シリンに向かって大きく手を振った。
人目を全く気にしない様子に、シリンは苦笑を浮かべる。
純粋な喜びの表情。以前だったら、きっと引き裂かずにはおれないほど、憎らしく感じたもの。
けれど、今、彼女の胸に湧き上がるのは、微笑ましさとほんの少しの寂しさだけ。心は驚くほどに穏やかだ。
シリンは既に変化している己の心を自覚した。
神子の姿が見えなくなると、彼女はそっと橋の欄干に手をかけ、宇治川のゆるやかな流れに視線を移す。
「この宇治橋の伝説も、まるっきりの迷信ではないかもしれないねえ」
ゆるやかな流れは、本当に何もかもを飲み込んでくれそうだ。清いものも、濁ったものも。ささいなすれ違いも、捨てずには生きていけないほど強い想いも。何もかもを。
シリンは、ちょうど足元にあった石を川に蹴り入れた。落ちた石は水面に波紋を立て、だが、すぐに水流に押し流されていく。
―――あの日、京に起こった百鬼夜行を、シリンはもちろん感じていた。そして、二つの龍の降臨も。全てが終わった後に現れた澄み切った青空に、シリンは唯一人の人を失ったのを知ったのだ。
その前から、恐らく彼が神子に勝てない事は察していた。何もかもが百年前と同じ。覚悟を決めていたが、その瞬間、シリンは息をする事ができなかった。
心から想っていた。例え、その冷たい眼差しが、ただの一度も自分を捉える事がなくとも、己の全ては彼のものだと思っていた。
だが、アクラムがいなくなった今になって思う。
自分が彼へ向けていた愛情は、自己愛に近いものではなかったかと。
生まれた時から、生きる場所は戦禍の中だった。一族は既に数えられるほどに減っていて、それはもう闘争と呼べるものではなく、一方的に他方を踏みつける狩りと言うべきものだった。無論、抵抗はした。過酷な環境の中で身についた呪術でもって、殺されただけ殺し返した。だが、その劣位が覆ったことは一度もなかった。
踏みつけられ、泥をすするような生活の中、胸にしみつく劣等感は何よりも深い傷となって、鬼の民の心を蝕んだ。それをアクラムの誇り高さが救った。
鬼である事に誇りを持て。今一度立ち上がり、京の民に我らの力を知らしめよ。
その言葉が傲慢と無知から出たものだとしても、それはどれほどにか鬼の民を救った。シリンもその一人だった。
彼が京征服の野心を語る時、自分の心も躍った。
彼の夢は、自分の夢だった。
彼の喜びは、自分の喜びだった。
彼は自分だった。だから、己の全ては彼のものだった。
つまりは、自分自身を丸ごと他人に委ね、それを誇りにして生きてきたのだ。
なんと愚かだったのだろうと思う。
この川に流してしまいたいのも、本当はそんな自分かもしれない。
今までは、ただ苦しみに追いつかれないように走り続けてきた。
その先にも破滅が待っていると分かっていても、そこへ向かう以外の方法を知らなかった。既に、考える事を放棄してしまっていたから。結局、龍神の神子に力ずくで止められるまで、足を止める事ができなかった。
戦いに敗れ、誇りも力も奪われたシリンからは、憎しみも消えていた。もう憎むことで自尊心を保つ必要がなくなっていた。
抜け殻になったシリンに残されたのは、神子と最後に戦った時にいた八葉が告げた言葉だけ。
「もう京にこだわる必要はないだろう。広い世界を求めていきなさい」
言われた時は、何を知った風なことをと思った。だが、その言葉は、次第にシリンの中で重くなっていった。
そして、アクラムを失っても、なお生き長らえた時、自分にもそういう人生が選べるのかもしれないと思い始めた。そうやって、一度、未来に目が行くと、もう前へ進む道から目がそらせなかった。
確かに、京にこだわる必要などなかったはずだ。生きる場所など、他にいくらでもある。他の地に落ち着く事も、大陸へ渡る事も、鬼の能力を使えば、不可能な事ではない。
「広い世界ね…」
その一言で、既に彼はシリンの世界を開いた。
どこにでも行けるのだと思うと、心が躍った。紅蓮の炎に消えた一族を思うと胸が痛むが、全てが消え失せた今となっては、もうシリンを引き止める力を持たない。
闘争以外にも、自由に生きる道があるのだと知った。一族にも伝えたいけれど、それは叶わぬこと。
もう、何もかも終わってしまったのだ。
「……っ?」
その瞬間、頬に感じる熱い流れにシリンは驚いた。慌てて頬を拭うと、指先に透明な雫がついている。
「…はっ。未だに、こんな甘っちょろい感傷が残っていたとは知らなかったよ」
シリンは指を振り、その雫も宇治川の流れに投げ入れた。勢いをつけて欄干から身を起こし、歩き出す。心なしか身体が軽くなった気がした。
「うん?」
宇治橋を渡り終えようとしたところで、シリンは思わず声を上げた。
少し前から、渦中の海賊が人の流れの中を悠々と歩いてくる。人を探しているのか、時折、辺りを窺うように顔を左右に向ける。その内に、彼もシリンに気付き、微笑を浮かべた。
「やあ、シリン。奇遇だね」
「なんだい、あんた。まだ京にいたのかい?」
挨拶より先にそんな事を言う彼女に、翡翠は小さく笑う。
「つれない事を言うねえ。ここで会ったのも、何かの縁だろうに」
「はん。縁切り橋で、縁なんてある訳ないだろう」
「ああ。そういえば、ここにはそんな話もあったね」
翡翠が呟きつつ、宇治川の流れに目を向ける。シリンは余計な事を言ったと内心で舌打ちしながら、話をそらすように、殊更大きめの声を出した。
「で? あんたは何を…」
言いかけて、ふと思いつく。
「お嬢ちゃんなら、さっき帰ったよ」
言ってやると、翡翠は意外そうな顔で、シリンに向き直った。
「神子殿が? ふうん、ここへ来ていたのか」
「なんだ、追いかけて来たのかと思ったよ。違ったのかい」
「それは、どうも……」
翡翠が愉快そうな表情になる。
「なんだい?」
「いや、君からそんな親切な言葉が出るとは思っていなかったんでね」
そのままくすくすと笑う彼に、シリンはかすかに頬を赤らめる。
失言をごまかそうとして、更に余計なことを言ってしまった。まったく嫌な男だと思う。
「ああ。少々、笑いすぎたかな。なに、実は部下たちが私を伊予へ連れ帰ろうと探していてね。見つかると面倒だから逃げている内に、ここまで来てしまったんだよ」
「別に帰ってやればいいじゃないか。あんたも、もう京には用がないんだろ?」
「今は、伊予よりこの地にいるほうが楽しい事が多くてね。見届けておきたい事も幾つかあることだし」
「ふうん。まあ、あたしには関係のない事だ」
シリンはそう言い放って、会話を打ち切った。それ以上の会話に意味があるとは思えない。
「それじゃ、あんたも達者でね」
「行くのかい?」
「ああ。別に行きたい場所がある訳じゃないけどね。とりあえずは、足の向くままにでも歩いてみるよ」
「そう。では、旅の無事を祈っているよ」
「そりゃどうも。まあ、二度と会う事もないだろうね。借りを残すのも嫌だから、ここで礼を言っておくよ。世話になったね」
そのまま踵を返そうとすると、翡翠がその背に声をかけてきた。
「ああ、シリン。私は瀬戸内から大宰府のほうには顔がきく。幸か不幸か、部下たちがこちらへ来ているしね。君がそちらに用があるなら、送らせるよ」
「冗談だろう。あんたなんかに借りを作るのは、一度で充分だよ」
そう言って、シリンはあでやかな笑みをひとつ残し、去っていった。翡翠も微笑みながら、彼女を見送る。
もう、彼女は己の作る泥沼に溺れていた女ではない。これから先は、誰の手を借りずとも、いつか身にまとう衣のような赤い大輪の花を咲かせるだろう。
「さて、私も行くとするか」
「…あっ! お頭、見つけましたぜ!」
翡翠が呟いた途端、何とも良い間で声がかかる。肩をすくめながら振り返ると、部下の一人が人を掻き分けながら、こちらへ駆けて来るのが見えた。
「やれやれ。別れを惜しむ間もないね」
そう言いつつ、翡翠は小さく笑み、人ごみの中にもぐり込む。
二人のいた空間はすぐに人で埋まり、宇治川の流れのように全てを押し流していった。
<了>02.1.27 up
おまけイベント「京の小正月」を見て、触発されてしまった翡翠×シリン(未満ですが…)です。
シリンちゃんは新しい世界に行こうとしてるし、翡翠は伊予に帰れってせがまれてるし、二人で
伊予に帰れば問題なしじゃないかとか思いまして。いや、この話はそうなってないけど(^^;。
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