遙かなる時空を越えて

               翠 はるか


 秋も深まった平安の都。その一角に、ある一組の夫婦が住んでおりました。
 旦那様の名前は源頼久。奥様の名前は元宮あかね。
 龍神の神子と彼女を守る八葉。そういう普通じゃない出会いをした二人は、はたで見ていられないほどらぶらぶな恋人同士になり、今では立派なばかっぷる夫婦になりました。
 そんなはた迷惑な二人は、今日も周囲のため息をよそに幸せに暮らしておりました。


 「では、これで退出させていただきます。失礼します」
 その日の昼。仕事を早めに切り上げた頼久は、藤姫に退出の挨拶をした後、離れの一角にある自邸へと向かっていた。
 今日は、この後あかねと約束がある。自然と頼久の歩く速度が速まっていく。だが、庭を少しぬけたところで、見知った二人の人影が彼の足を止めさせた。
 「おや頼久」
 「んー、お前か」
 向こうも頼久に気づいて、視線をこちらに向ける。
 「友雅殿、イノリ、お二人ですか?」
 珍しい組み合わせに、頼久が不思議そうな表情になる。それを見て、友雅がくすりと笑った。
 「今しがた、ここで会ってね、少し話をしていたのだよ。私は今宵の望月を共に愛でる約束があったので、少々早めに姫君のご機嫌伺いに参ったところだ」
 「オレは藤姫に届け物だよ。頼まれてた冠の補正ができたからさ。お前は見回りか?」
 「いや、私は」
 とたんに、頼久がとろけたような笑みを浮かべる。
 「午後から休みを頂いて、邸へ帰るところだ。今日はあかね殿と出かける約束があってな」
 「……あ、そ」
 幸せいっぱいの頼久の笑顔に、イノリが鼻白んだように口唇の端を引きつらせる。
 そんなことには気づかずに、頼久は更に言葉を続けた。
 「今日は私の誕生日でな。あかね殿がお祝いにどこかへ出かけようと仰ったのだ。気を遣うことはありませんと毎年申し上げているのだが、私が生まれた日は、ご自分にとっても大事な日だからとおっしゃって」
 にこにこと聞かれもしないことまでべらべら喋りだした頼久に、イノリは助けを求めるように、ちらっと友雅を見た。友雅がやれやれと口の中で呟く。
 「ところで頼久」
 「はい?」
 「君たちが結婚してから、もうどれくらい経ったかな?」
 皮肉をたっぷり含ませた口調だったのだが、もちろん、今の頼久にそんなものは通じない。
 彼は、満面の笑顔のまま答えた。
 「三年と少しです。それが何か?」
 「…………」
 友雅が、処置なしといったように肩をすくめる。
 「まだ秋になったばかりの頃でした。あかね殿が、これからは私の妻としてこの京で生きたいとおっしゃってくださって……。
 そういえば、友雅殿はまだご結婚なさらないのですか? そろそろ落ち着かれたほうがよろしいと思いますよ。ああ、イノリ。お前も結婚するときは、あかね殿のように心ばえの素晴らしい女人を選ぶのだぞ。一生のことなのだからな。
 ――――――あ、それでは私はそろそろ。あかね殿が待っていますので。失礼します」
 言うだけ言うと、頼久はいそいそと去っていった。彼の姿が見えなくなった後、イノリはがくっと肩を落とした。
 「…だめだ、ありゃ。ノーミソとけてやがる」
 友雅もため息をつきつつ、扇でぽんぽんと手のひらを叩いた。
 「そういえば、昔、天真が言っていたね。彼らみたいな『ばかっぷる』は、煮たり焼いたりしなくても勝手に燃え上がるから、関わらないほうがいい、と。その通りだったね」
 イノリが膝を抱えて、ため息をつく。
 「オレ…、あいつを最初に見たとき、無愛想で剣にしか興味なさそうな奴だと思ったんだよなあ……」


 そこから少し時間を遡って、その日の昼前。あかねは五条通りの辺りを、にこにこしながら歩いていた。
 今日は頼久の誕生日。どうしても何か贈り物をしたくて、あかねはイノリの知り合いの鍛冶屋に頼んで、刀の鍔(つば)を作ってもらっていた。それを受け取った帰りなのだ。
 出来上がった鍔は、期待していたよりもずっといい出来で、あまり装飾にこだわらない頼久も、きっと気に入ってくれるだろうと思われた。
 まあ、あの人は私がくれたってだけで、畏まって喜んでくれるだろうけどね。
 あかねは、未だに自分に敬語を使いつづける夫の顔を思い浮かべ、くすりと微笑んだ。
 「あかね殿ではありませんか?」
 「え?」
 不意に声をかけられて、あかねはきょろきょろと辺りを見回した。
 「ここですよ、後ろです」
 「あ、鷹通さん!」
 あかねの歩いている通りと、ちょうど交差するところ。そこに見覚えのある牛車が差しかかっており、そこの覗き窓から、鷹通が顔を覗かせていた。
 あかねがそちらに駆け寄っていくと、向こうもあかねの方に近づいてきて、隣に止まる。
 「やはり、あかね殿でしたか。このような所でお一人とは…、お散歩ですか?」
 鷹通がいつものように柔和な笑みを浮かべて、尋ねてくる。
 「こんにちは、鷹通さん。私は用事を済ませて、これから帰るところなんです。鷹通さんは、御所の帰りですか?」
 「ええ。退出して、これからまた出かけるところだったのですが。あかね殿、用事が済んだのでしたら、邸までお送りしましょうか?」
 「え? いいんですか? 行くところがあるんでしょう?」
 「いいんですよ、あかね殿」
 不意に、鷹通の後方から、別の声が割り込んできた。
 「あれ、永泉さん?」
 「はい、そうです」
 再び声がして、覗き窓から鷹通が引っ込み、代わりに永泉が顔を覗かせた。
 「え、どうしたんですか? 二人でお出かけですか?」
 あかねがきょとっとしていると、永泉がふふっと顔を綻ばせる。
 「どうぞ乗ってください。話は中でしましょう」
 「…そうですか。それじゃ」
 あかねは鷹通の従者に手を借りて、牛車の中に乗り込んだ。
 「お久しぶりですね、あかね殿」
 顔を合わせるなり、懐かしそうに微笑む永泉に、あかねも笑顔を返した。
 「そうですね。永泉さんとはずいぶん会ってませんでしたからね。お元気でした?」
 「ええ。あかね殿もお元気そうで何よりです」
 「そりゃあ、元気が取り柄ですもの。あ、そうそう、どうして永泉さんが鷹通さんの牛車に乗ってるんですか?」
 「ああ、その話ですね」
 永泉が、脇に置いてあった文箱を指し示す。
 「以前、泰明殿に頼まれていた書物が手に入りましたので、これからお届けしにいくのです。そのついでに安部晴明殿とお話したいと思いまして。あまり仰々しくしたくはなかったので、鷹通に頼んで連れてきてもらったのですよ」
 「私も、一度晴明殿と話してみたいと思ってましたので。永泉様の頼みは幸いでした」
 「あー…、難しい用事なんですねえ」
 あかねが、ぽりぽりと指で頬をかく。
 「…そういえば、泰明さんともしばらく会ってないなあ。元気にしてるんでしょうか?」
 鷹通がくすりと笑う。
 「相変わらずですよ。陰陽道の研究に励んでいらっしゃいます」
 「本当にあの方は研究熱心な方です。…ああ、久しく会っていませんが、頼久も相変わらず剣術の鍛錬に励んでいるのでしょうね」
 永泉が何気なく発した一言に、鷹通は慌てて彼を制そうとした。が、その時には、既にあかねの表情はおのろけモードに入っていた。
 「ええ。毎朝、続けてますよ。もう充分に強いと思うんですけど、少しでも、私が危険な目にあう可能性を減らしたいって言って。終わる頃に、いつも汗を拭く手拭いを持っていくんですけど…、やっぱり、鍛えぬいた身体って素敵ですよね。ええ、逞しいことは良く知ってるんですけど、太陽の下で見ると、また違うんですよ」
 うっとりと語りだしたあかねに、永泉はようやく自分の失言に気づいたが、もう遅い。
 どうしましょう、という目で鷹通を見ると、彼はそんな事言われても、という視線を返したが、真面目にあかねを止める方策を考え出した。
 えー、とりあえず、あかね殿の気をそらさなければ。何か他の話題を……。
 「…あ、そういえば、あかね殿のご用事とは何だったのですか? 何か包みを持ってらっしゃるようですが」
 最悪だ。
 とたんに輝きを増したあかねの瞳に、鷹通は自分の失言を瞬時に悟った。
 「これ、頼久さんの誕生日の贈り物なんですっ。前から頼んであったのを、取りに行ったところだったんですよ。頼久さんは気を遣わなくていいって言うんですけど、そういう事じゃないですよね。誕生日っていうのは、その人が生まれた大事な日だし。頼久さんが生まれてなかったら、出会うこともできなかったんだもの。頼久さんのおかげで、私は、今こんなに幸せなんだから、いくらでもお祝いしたいのに…、あの人ってば分かってないんだから、もう」
 結局、鷹通と永泉は、あかねの家につくまで、延々とノロケ話を聞かされる羽目になったのであった。


 元八葉の四人を撃沈させた二人は、ちょうど邸の玄関で一緒になった。
 「あ、頼久さん!」
 一歩先に中に入っていたあかねが、すぐ後から頼久が入ってきたのに気づき、くるりと振り返る。
 「お帰りなさーいっ!」
 そのまま頼久の首筋にしがみつき、ほっぺに音を立てて口接ける。
 「お仕事終わったんですよね? 思ったより早かったですね」
 「ええ。藤姫様が早めに退出してよいとおっしゃって下さって…。あかね殿は? どちらかお出かけだったのですか?」
 「はい、ちょっと用事があって。それより頼久さん、今日は何事も起こりませんでした? 怪我とかしてませんよね?」
 職種上、頼久は怪我と仲がよい。この点に関しては、あかねはいつも気苦労が絶えない。
 あかねの表情がかすかに曇ったのを見て、頼久は微笑み、そっとあかねの髪を撫でた。
 「大丈夫です。どこも何ともありません。あかね殿こそ、私の留守中、何もありませんでしたか?」
 「ええ、平気です」
 そうやって抱き合ったまま、互いの無事を確かめ合っていると、家人が申し訳なさそうに声をかけてきた。
 「あの…、お手水の用意ができましたが…。この後、お出かけになるのですし、お早く済ませられたほうが……」
 「あ、そうだ」
 あかねが腕をほどき、ぽんと手を打つ。
 「早くしないと日が暮れちゃうもんね。行きましょう、頼久さん」
 「はい、あかね殿」
 二人が談笑しながら自室へと戻っていくのを、家人たちはやれやれとため息をつきながら、だが微笑ましげに見送った。
 この時代、あかねのとったような行動は、はしたない事なのだが、さすがに結婚して以来、三年間毎日見せつけられ続ければ慣れるというものである。
 今では、二人の、この帰宅の挨拶は、半ば武士寮の名物となっていた。


 それからしばらくして、着替えを済ませた頼久とあかねは神泉苑に来ていた。
 特別な日を過ごす場所に、あかねは迷わずここを選んだ。
 ここは、二人が初めて出会った場所。
 全てが始まり、そして終わった場所。
 その清冷とした空気は、三年以上経った今でも、変わらず二人の心に感情の波を立てる。
 「……いつ来ても、ここはきれいですよね」
 池のほとりをのんびり歩きながら、あかねがぽつりと呟く。
 「そうですね。あのような恐ろしい戦いがあったとは信じられない程です」
 「うん……」
 あかねは、ぼんやりとその時のことを思い出す。
 黒龍の瘴気に包まれて。龍神を呼ばなければならない状況になって。彼は「必ず助ける」と言ってくれたけど、彼が死んでしまうかもしれないと思うと、のんきに頼ってなんかいられなかった。
 だから、白龍を呼んだ。人外のものを身に招いたことで、しばらくの間床に伏せることになってしまったけど。
 そう、ここにこうやって立って……。
 あかねが、三年前、龍神を召喚した場所に立って、空を見上げた。とたんに、頼久が顔色を変える。
 「あかね殿っ!」
 突然そう叫び、痛いくらいの力であかねの腕をつかみ、引き寄せる。あかねは驚いて、頼久を見上げた。
 「ど、どうしたんですか、頼久さん?」
 戸惑った声に、頼久は、はっとしてあかねの腕を放す。
 「あ、も、申し訳ありません。つい…」
 「つい?」
 「…また、私の手の届かないところへ行ってしまわれるのではないかと……」
 「ああ」
 あかねが納得して頷くと、頼久はふっとあかねから視線をそらした。
 「あの肝心の時に、私は何もできなかった。今でも思い出すと悔しさがこみあげて…、いえ、それ以上に怖いのです。龍神があなたをお召しになることは、もうありませんが……、ここは、あなたの世界に通じる場所。あなたはここへ残ることを選んでくださった。それは分かっているのですが、やはりここへ来ると…、不安になってしまうのです。いつか、あなたが私の前から……。いえ、すみません、つまらない事を言いました」
 目を伏せてしまった頼久に、あかねは優しく微笑みかけた。
 「私も…そうですよ」
 「え?」
 「頼久さんが守ってくれて、とても心強かった。でも、頼久さんが強くなるの…ほんとは、ちょっとイヤなんです。強くなればなるほど、また無茶をするんじゃないかって。今の私は、神子だったころのように一緒に戦えないし、何かあってもすぐには駆けつけられない…」
 「あかね殿……」
 「でも」
 あかねはぴんと背を張って、つとめて明るい声で言った。
 「そういう不安って、悩んでもどうしようもないんですよね。頼久さんが私の大切な人である限り消えないものだから。頼久さんの不安も、同じ理由ですよね?」
 あかねがかすかに頬を染める。それを見て、頼久も小さく微笑む。
 「はい。もし、あなたに何かあれば…、きっと生きてはいられません。ですから、これからもずっと傍に置いてください。私の手の届くところヘ居てください」
 「もちろんです」
 あかねはにっこりと笑った後、少しつまらなさそうな表情になった。
 「…? どうかなさいましたか?」
 「やっぱり、もうちょっと人の居ない所を選べば良かったかなあと思って。せっかくいい雰囲気になったのに、さすがにここじゃ抱きつけないし」
 一般に開放されている神泉苑には、そう多くは無いが人がいる。さすがのあかねも、見知らぬ人々の前でべたべたするのは控えることにしていた。
 「あ、ああ、そうですね……」
 あかねのストレートな物言いに、頼久はかすかに頬を赤らめた後、咳払いをした。
 「そういえば、友雅殿が仰っていたのですが、今夜は望月だそうです」
 「はい?」
 突然の話題展開に、あかねがきょとんとしていると、頼久は更に顔を赤らめて続けた。
 「今夜、あかね殿の部屋に伺いますから、一緒に月を愛でませんか? 今の続きはその時にということで……」
 あかねはしばらく頼久の言葉を反芻した後、ぷっと吹き出して、頼久の腕に自分の腕を絡めた。
 「はい。そうしましょう、頼久さんっ♪」
 頼久が、揺れるあかねの髪を愛おしげに見つめる。
 「…では、もう少し、このへんを歩きましょうか」
 「はいっ」
 二人は、どこでも変わらない幸せな笑みを浮かべて、神泉苑を静かに歩いていった。


<了>


えー…、頼久くん、誕生日おめでとう(^^;。
なんなんでしょうねえ。とりあえず、コンセプトは「倦怠期知らずの二人」ということで。

 

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