つゆくさ

          翠はるか


 五月雨の柔らかな雨粒が、京の緑を濡らす朝。
 湿り気を帯びた空気が肌にまとわりつき、この時季はいつも何とはなしに心が沈む。
 「よく降りますわねえ、藤姫様」
 そんな中の一人である女房が、庭に目を向け、降り注ぐ雫に鬱とした呟きを漏らす。
 奥の座にいる藤姫は、おっとりと微笑みながらその女房を見遣った。
 「そうですわね。けれど、恵みを約束してくださる雨ですもの。感謝して心静かに過ごしましょう」
 「ええ、姫様」
 女房が笑い返す。幼いながら、心優しい主人は沈んだ心を慰めてくれる。
 「ですが、今日はいっそう湿り気がすごいですわね。暑うございましょう? 几帳をずらして風を通しましょう」
 「ええ、お願いしますわ」
 女房が頷いて、部屋の入り口付近にあった几帳を力をこめて持ち上げた。だが、思ったよりも几帳の台が軽く、いきおいあまった拍子に几帳から手を放してしまった。
 几帳の台が文机の足に当たり、上に乗っていた花瓶が倒れる。そこへ更に几帳が倒れ込んだ。
 「あっ!」
 花瓶は床に落ち、几帳の下敷きになった花は、ばらばらになってしまっていた。
 一瞬の出来事に藤姫は呆然とし、だが、すぐにはっとして悲しげな声を漏らす。
 「ああ……」
 「も、申し訳ありません、姫様。すぐに片付けますので、お手を触れないで下さい」
 「だめです。捨ててしまわないで下さい」
 「え?」
 藤姫は女房を押しのけるようにして床にしゃがみ、散った花びらを拾い集めた。だが、美しかった面影はもうない。
 「あ……」
 藤姫の瞳が滲んで光を映す。この花は特別な花だった。
 一輪で咲く、まるで彼のような気高い孤独の匂いのする青い花。
 「ちょっと気を抜けよ」という言葉と共に渡された花。彼にとっては大した意味はなかったのだと思う。けれど、その気遣いが嬉しくて、この花を見ると、いつでも心がなごんだ。
 今では無残な姿に変わったそれを拾い集めていると、場に不釣合いな軽い足音が廊下に響いた。
 「藤姫、いるー?」
 五月雨の憂さを吹き飛ばすような明るい声とともに、彼女の主が入ってくる。何かあったのか楽しげだった表情が、藤姫の様子を見て戸惑いに変わる。
 「どうしたの? そんな所にしゃがみこんで…」
 言いさして、あかねは藤姫の手元の花に気付いた。
 「あれ? それって確か天真くんがあげた奴じゃあ…」
 「あ、あの、私……」
 藤姫がつぶれた花を前に俯く。状況を察して、あかねは困ったような顔になり、藤姫の隣にしゃがみこんだ。
 「私も拾うよ。とりあえず、懐紙かなにかの上に乗せよう?」
 「は、はい……」
 藤姫が懐紙を懐から取り出し、割れた花瓶と花を二人でのろのろと拾い出した。藤姫はずっと沈んだ表情だったが、ふと思い出したように、あかねの顔を見た。
 「あの、神子様。私にご用があったのではないのですか?」
 「あっ、そうだ。…あっ、そうだった、えと…、今日こんな天気だし、天真くんと……」
 渦中の名前が出て、藤姫がどきりとする。その時、また新たな足音が藤姫の部屋に向かってきた。
 「おい、あかね。いつまで待たせるんだよ」
 藤姫がびくりと震える。すぐに天真が藤姫の部屋に姿を見せ、藤姫は散った花弁をとっさに手で隠した。だが、小さな手では覆いきれなかった花弁と花瓶の欠片を天真は目に留め、眉を寄せた。
 「花瓶、割っちまったのか? 何やってんだよ、怪我するぜ」
 さっさと部屋に入って来ると、天真は藤姫の手を上げさせ、残りの破片を手早く懐紙の上に拾い上げた。
 その彼を見ながら、藤姫は口元をかすかに震わせる。
 「……すみませぬ」
 「あ? 別に構わねえよ、これくらい。それより、怪我してねえか?」
 「いえ、そうではなくて、このお花……」
 「え?」
 天真が顔を上げる。
 「すみませぬ。せっかく天真殿がくださったのに、このようにだめにしてしまって」
 言われて、天真は懐紙の上の花びらに目を落とした。
 「ああ、この間の…。なんだ、まだ持ってたのか?」
 藤姫の表情がぴくりと揺れ、あかねの眉がぴくりと跳ね上がった。
 「あの…、私……。少々、着物が濡れましたので、着替えてまいります…。あの……」
 藤姫は心の動揺のままに途切れがちに言葉を紡ぎ、逃げるように奥の部屋に引っ込んでいった。それを見届けると、あかねが不思議そうにしている天真の上着をつかみ、ぐいと立たせる。
 「え? なんだよ」
 「いいから、ちょっとこっちに来て!」
 乱暴な手つきで、あかねは天真を引っ立てていった。
 残された女房は困った顔で、あかねたちと藤姫の去った方向を代わる代わる見つめていた。

 自分の部屋の前あたりまで来て、あかねは足を止め、きっと天真を睨みつけた。
 「何だよ、怖い顔して……」
 「もうっ、天真くんて、ほんっと鈍感なんだから!」
 あかねは怒っていた。藤姫があんなにも落ち込んでいる理由を、彼女は知っている。
 「藤姫はねえ、あの花をとっても大事に世話してたんだよ。天真くんの気遣いが嬉しいって言ってさ。あの花を見ると、心が和んで頑張る気になるって言ってたんだから」
 その言葉に天真が眉を寄せる。
 「それがつぶれちゃったって言うのに、天真くんてば〜〜〜」
 あかねが軽く天真の胸をぱこぱこと叩く。その手首をつかんで、天真は難しい顔であかねの顔を見返した。
 「そういう問題じゃないだろ。俺があの花をやったのは、ただ何気なくだったんだ。問題はそんな事が救いになるくらい、あいつの心が張りつめてたって事だろ?」
 あかねが心底呆れ果てたように、天真を睨む。
 「そうだよ。それくらい藤姫はいつも緊張してるんだよ。だったら、天真くんのさっきの一言がどれだけ藤姫の心を傷つけたかは分からないの? そこまで分かってるくせに、どうしてそう鈍感なのよ!?」
 「あ、いや……」
 天真は口ごもった。そう言われると反論できない。
 「まったくもう! いーい? 天真くんが傷つけたんだから、天真くんが責任持って何とかしてよ。今日中にね!」
 そう言い捨てて、あかねはくるりと天真に背を向けた。
 「…………」
 あかねがぷりぷりしながら去った後、天真はきまり悪そうな表情で視線を泳がせた。その視線が庭のある一点で止まる。
 天真はしばらくそちらを見つめた後、強い雨の中へ飛び出していった。


 藤姫はふと顔を上げた。
 何だか、名前を呼ばれたような気がする。
 気のせいかと思いつつ、耳を澄ませてみると、やはり廊下のほうから藤姫の名を呼ぶ声が聞こえた。
 「誰かそこにいるのですか?」
 藤姫は御簾の向こうに呼びかける。すると、今度はもっとはっきりした声が返ってきた。
 「俺だ、藤姫」
 「…天真殿?」
 藤姫は驚いて、読んでいた書を床に置いた。長雨で湿った紙は音もなく床に重なり落ちる。
 「どうなさったのですか」
 「今、庭に降りてるんだ。ちょっと汚れちまってるから、悪いけどこっちに来てくれないか?」
 「は、はい……」
 戸惑いつつも、藤姫は御簾から出た。そこに天真の姿を認め、驚く。
 「天真殿? そのように濡れて…、どうなさったのです?」
 藤姫の言葉通り、天真は全身ずぶ濡れになっていた。靴や腕には泥もついており、部屋に上がってこなかった理由も納得できた。
 「とにかく、何かお体を拭くものを……」
 「いいよ。それより、ほら。これ」
 天真がさっと藤姫の前に何かを掲げた。とっさに蒼い色だけが目に入り、その鮮色に藤姫はかすかに目を細めた。
 「これは……」
 「そのへんで摘んだやつで悪いけど、結構きれいだろ? 今度はこれを飾っておけよ」
 そう言って、天真は手にしていた花を藤姫に差し出した。
 小さな藍色の花弁。鬱とした五月雨に美しく彩りを添える花。―――露草。
 「…私のために、わざわざ摘んできてくださったのですか?」
 藤姫が驚いたように天真を見返すと、天真はきまり悪げに髪に手をやった。
 「悪かったよ、せっかくお前が大事にしてくれてたのに、無神経なこと言って」
 「天真殿……」
 藤姫はしばらく渡された花と天真の汚れた着物を見比べると、しゅんと顔を伏せた。
 「すみませぬ。私のわがままで、天真殿にこのような……」
 「ばか。これくらいなんて事ねえよ。それがつぶれたり枯れそうになったら、今度はすぐに俺に言えよ。また新しいのを摘んでくるから。こんな事でお前が元気になれるって言うなら、いくらでも摘んできてやる。遠慮する必要なんかねえよ」
 「…天真殿。ありがとうございます」
 藤姫がやっと微笑みを浮かべた。天真も笑い返しながら頷く。
 「それに、また落ち込むようなら……」
 言いかけて、天真は不意に口ごもった。あまりにも唐突だったので、藤姫は首を傾げる。
 「天真殿? 何を言いかけたんですの?」
 「あ、…いや、何でもねえ。それより何してたんだ、今まで?」
 さすがに「側にいてやるよ」と続けるのは恥ずかしい気がして、天真は強引に話を変えた。藤姫は不思議そうな表情をしつつも律儀に彼の質問に答える。
 「一族の残した文献を見ておりました。四神の力について調べていたんですの」
 「ふうん、お前もとことん真面目だな。ま、頑張れよ」
 「はい、頑張ります」
 藤姫が元気よく答えると、天真が慌てたように手を振った。
 「あ、いやっ、やっぱり頑張り過ぎないようにな」
 藤姫は花がほころぶように柔らかく笑った。
 嬉しい。
 彼の優しい心が。支えようとしてくれる人が側にいてくれる事が。
 大丈夫。きっと、もっと頑張れる。
 藤姫は露草を持つ指に、そっと力をこめた。


 その時、二人がいる廊下の曲がり角から、あかねと詩紋がこっそりと顔を出した。
 「んー、もう天真くんてば。どうして、そこで口ごもっちゃうのよ。言っちゃえ、言っちゃえ。いっそ、そのまま押し倒しちゃえ!」
 「あかねちゃん、それって犯罪だよ……」
 じれったそうに身じろぎするあかねを、詩紋は深いため息をつきながら見下ろした。
 しかし、当の二人はそんな事は知らぬ気に、いつまでも楽しげな笑い声を響かせていたのだった――――。


<了>

01.10.28up.


つくづく、うちのあかねちゃんって漢だなあ(笑)

 

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