桜萌黄

            翠 はるか


 喧騒の絶えない賑々しい市の中、一人の女が歩いていた。
 食料や衣料を両手で抱え、ぶつぶつと何やら呟いている。
 「……うーん…、これで服はいいよね。食べ物も……。お兄ちゃん、今日の夕食どうするのかな。『分かんねえ』っていうのが、一番困るのに」
 女―――蘭は、出掛けの兄の顔を思い出しつつ、グチをこぼした。が、すぐに真顔に戻って、ひとつため息をつく。
 ……お兄ちゃん、そろそろ仕事が終わる頃かな。
 今日の天真の仕事は、午前中で済む簡単なものだ。だが、すぐには家に帰ってこない。その後、左大臣家に寄ることになっている。
 蘭は、もう一度ため息をついた。
 ……私、余計な事言ったかな。
 昨日、あかねが来た時に、「そういえば、明日の仕事は午前中までだったよね」と自分が言ったら、兄は一瞬嫌そうな顔をした。その後、左大臣家に行くことが決まった後は、口数が少なくなって、ずっと何か考え込んでいた。
 仕方ないけれど、と蘭は思う。
 自由平等を謳っていた私たちの世界でも、一介のサラリーマンと富豪の令嬢が結婚するとなったら大騒ぎなのに、ましてや、この身分社会では反対どころの騒ぎではない。
 兄と左大臣家の藤姫が恋人とまでは行かないが、その成り始めぐらいの関係にあることを、蘭はもちろん知っている。
 「会うと、余計に辛くなるっていうのかなあ…」
 ぽつりと呟いて、蘭は気合を入れなおすように、ふうっと強く息を吐いた。それから、手の中の荷物を抱え直す。
 今までも何度か考えてみて、結局答えが出なかった問題だ。ここで一人で悩んでいても仕方ない。とりあえず、今の彼女がやるべき事といったら、この荷物を家に運んでしまう事だ。
 「行こっと。……でも、少し買いすぎたかしら? ちょっと、重い……」
 「手伝ってやろうか?」
 「きゃっ!」
 突如、後ろから声をかけられて、蘭は飛び上がった。だが、すぐにその人物が誰か気付いて、破顔する。
 「イノリ!」
 「よっ」
 今は一人前の鍛冶師となっているイノリが、にっと笑って立っていた。
 「へへっ、偶然だな」
 嬉しそうに笑うイノリに、蘭も笑顔を返す。
 「うん。でも、おどかさないでよ。ほんとに、びっくりしたんだから」
 「わりい。おどかすつもりはなかったんだけど。それより、ほら、荷物よこせよ」
 イノリが蘭の手から、食料の入った包みを取り上げる。
 「あ、ありがと」
 「ずいぶん買ったなあ。で、まだ買うのか? もう帰るとこなのか?」
 「もう帰るところ。市もそろそろ閉まる頃だし」
 「そっか。じゃ、家まで持っていってやるよ」
 「え、いいの? イノリも用事があるんじゃない?」
 「いや、オレの用事はとっくに済んでるから……」
 言いかけて、イノリはちょっと照れくさそうな表情になる。
 「もう帰っても良かったんだけどさ。このへん歩いてたら、お前に会えるかもしれないなって思って、ぶらついてたとこなんだ」
 「あ、そうなの…?」
 二人がはにかんだ表情で、互いに顔を伏せる。かすかに赤くなった頬が、とても微笑ましい。
 「……じゃ、行こうぜ」
 黙ってるのに、すぐに耐えられなくなったイノリが、さっさと蘭の家の方角へ歩き出した。
 「あ、待って。イノリ」
 すぐに、蘭もその後を追っていった。

 「……なあ、蘭」
 しばらく歩いたところで、イノリが雑談をやめて切り出した。
 「ん? 何?」
 「……まだ、決心つかないのか?」
 「あ………」
 蘭が笑みを消して、うつむく。
 「……うん」
 イノリが、ため息をついた。
 「まだ、待ってないとダメなのか?」
 「…………」
 「…昨日さ、結構、大口の鍛冶の注文が入ったんだ。最近はずっと仕事も安定してる。そりゃあ、師匠ほど立派な鍛冶屋になるにはまだまだだけど、お前が嫁に来たって、充分暮らしていけるくらいには――――」
 「ちがうの、イノリ」
 蘭が辛そうな顔で、イノリの言葉をさえぎる。
 「そういう事を心配しているんじゃないの。イノリが求婚してくれた事は、私はとても嬉しかったもの」
 「だったら……」
 イノリは言いかけて、そのまま目を伏せた。
 「……天真のこと、気にしてるのか?」
 蘭は無言だ。
 「お前、前から天真と藤姫の事気にしてたよな。二人がどうなるのか分からないと安心できないって。それが原因か?」
 蘭はやはり無言だった。けれど、更に暗くなった表情が、イノリの言葉を肯定していた。
 「…やっぱり、そうかよ。でも、それとこれとは関係ないだろ」
 「……そうなんだけど」
 蘭が、ようやく口を開く。
 「そりゃ、お前は天真が落ち込んでるのなんて嫌だろうけど。でも、天真はそんなに心配しないといけないほど、弱くないだろ」
 「うん……、そう思うよ。でも、私がイノリの家に移ったら、お兄ちゃん一人で悩むのかなって思うと、思い切れないの。無茶してないかなって心配になると思うし」
 「…………」
 イノリはしばらく蘭の横顔を見つめた後、盛大にため息をついた。
 「分かったよ、蘭の気持ちは。もうしばらく待ってることにする」
 「…ありがと。ごめんね」
 蘭の表情に、笑顔が戻る。それを見ながら、イノリはふんと鼻を鳴らした。
 「お前が謝る事ねえよ。全部、天真のカイショウナシが悪いんだ」
 むすっとした顔で言い切るイノリに、蘭はさすがに肩をすくめた。
 「それはないよ。お兄ちゃんだって、色々考えているんだし。やっぱり、相手が相手だから難しいのよ」
 「何が難しいもんか。相手が誰かじゃなくて、お互いに好きかどうかだろ」
 「最終的にはそうだけど……。でも、私たちの世界でも、富豪のお嬢様と――――」
 「関係ねえって」
 イノリは蘭の言葉をさえぎって、彼女の肩をつかみ、自分のほうを向かせた。
 「オレたちなんか、世界が違ってたじゃんか! 本当なら、出会う事もなかったはずだったんだ。でも、出会えただろ。それに、出会った時、オレは八葉で、お前は鬼の仲間にされてた。敵同士だったんだ。それでも、大丈夫だったじゃんか。こうして、今、一緒に歩いてるだろ。…だから、大丈夫だよ」
 「イノリ……」
 蘭は、イノリの瞳をしばらく見つめた後、にっこり笑って頷いた。
 彼の言葉が、彼が昔操っていた炎の力そのものの瞳が、蘭を迷いの中から連れ出してくれる。昔も、今も。
 「そうだね。きっと、いい方向にいくための方法があるよね」
 そして、蘭は自分の肩に置かれたイノリの手に、自分の手を重ねた。
 「でも、イノリ。世界が違ったのは、お兄ちゃんと藤姫も一緒よ」
 「え? あ、そーいや、そーだな……。ま、何でもいいよ。とにかく、問題ないってこと。いざって時は、かっさらってくればいいし」
 「…ずいぶん、乱暴ね」
 「何、言ってんだよ。オレだって、天真があんまりぐずぐずしてるようなら、お前の事かっさらうからな」
 「……イノリ」
 まっすぐに向けられる言葉が、蘭の胸に暖かいものを満たす。
 蘭は、ゆっくりと微笑んだ。
 「ふふ、お兄ちゃんに伝えとく」
 「ん。じゃ、行くか」
 「うん」
 二人は、再び歩き出した。

 二人が、同じ家路をたどる事になるのは、それからしばらく経ってからのことだった。

<了>

01.04.02 up .


 うおう、イノリ×蘭だー(^^。
 いやあ、青春してるよね(笑)。書いてて恥ずかしかったよ。

 

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