両手を広げて |
うららかな日差しの中。 あかねは、目の前に座る少女ににっこりと笑いかけた。 「ねえ、藤姫」 「はい? 何でしょう」 藤姫は持っていた暦を置くと、あかねに向き直った。さらりと長い髪が揺れる。幾重にも重ねた着物は重い筈だが、藤姫は全くそんなそぶりも見せずにあかねを見返してくる。優しさと、意思の強さを兼ね備えた瞳で。 でも、どこかあどけないほほ笑み。 「神子様、今日はご機嫌がよろしいのですね」 毎日見ているからだろう。藤姫には、あかねの機嫌が手にとるようにわかる。それを素直に云うと、あかねは「あれ? わかっちゃった?」と不思議そうに小首をかしげる。 「毎日神子様のことを見ていますもの。わかりますわ」 ばさりと暦を広げながら、藤姫は云う。 不思議な御方だ、と思う。 龍神の神子として選ばれた、京を救う少女。 だからといって辛さを見せるわけでもなく、弱気になるわけでもなく、しっかりと前を向いている。 何度も大変な目に遭っているのに、それをはねのけるだけの勇気を持っている。 しなやかさを、強さを。 「しばらく物忌みって、ないの?」 藤姫の開いた暦を、あかねが覗き込む。誰にも気さくで、気にかけてくれる。 「明後日が、方忌みですわ」 暦を指でなぞる。藤姫が占ったものを、あかねにも分かるように書き込んであるのだ。いつもこれを見て、一日何をするかを決める。この暦は、日記も書く具注暦とは別に藤姫が自ら作っている。 しばらくそれを見て確認すると、あかねは藤姫に「今日は、話に付き合ってくれるかな」と云った。 勿論、藤姫に異存があるはずがなく。 「勿論ですわ、神子様」 居住まいを正して、藤姫が笑った。 日差しが静かに傾いていくのを感じて、藤姫は庭を見つめた。整えられた庭木に光が反射し、その場を鮮やかに演出している。時折鳥の鳴く声と、風で木々が揺れる音。ゆったりとした時間が、確かに過ぎていく。 「……綺麗だね」 云われ、藤姫は視線を戻した。同じように庭を見たあかねがそこにいて。 照らされた額の下に、影がゆるく落ちる。 藤姫は、あかねがとても綺麗な顔をしているのを見て取る。 「何?」 藤姫があんまり見つめるので、あかねは困ったように聞いた。藤姫はふわりと笑むと、「神子様があまりにお綺麗ですから」と答える。 「は? 私が綺麗……? そんなこと云われたの、はじめてだ」 照れたようにあかねが髪をかきあげる。 その仕草ひとつですら。藤姫には眩しい。 「……神子様をお綺麗にされたのは……」 云いかけて、藤姫は口をつぐんだ。 誰よりも、あかねを見ているから。 彼が……八葉の誰もがあかねを大切にしているのは知っている。 彼もまた。 そして、あかねも。 その心がどこにあるのか、知っている。 「……ごめんね、藤姫」 「え?」 急にあかねに謝られ、藤姫はその言葉の意味を取りかねる。 何故、謝るのですか……? その問いかけをする前に、あかねが口を開いた。 「ちゃんと、京を救うことを考えなくちゃならないのに。私……」 ぽたりと、あかねの瞳から涙が落ちる。透明に光りながら、静かに吸い込まれていく。 あかねが、誰かに好意を持つことは自然だろう。たとえ最初は神子と八葉として見ていても、それは段々と形を変える。環境は人を振り回す。自分たちが気づかないうちに、心までも動かしていくのだ。 藤姫にはまだそういう経験がない為、詳しいことはわからない。 それでも、あかねが誰かを想うことによって綺麗になってゆくのはわかる。 「いいえ、神子様」 藤姫が、強く云う。 「京を守ることは、大切なお役目です。ですが、神子様は人間で、女の方です。ですから、誰かを大切に想う気持ちがおありになるのは、普通ですわ」 それが普通だと、藤姫には確信がない。だが、あかねを見ていればわかる。 それを否定したくない。 藤姫はそう思って、たどたどしい言葉をつないだ。 「神子様は、間違っておりません」 「……でも、私は神子だから」 神子である限り。 自分のことよりも、京の人々の事を考えなくてはならない。 救うことが、龍神の神子の使命なのだから。 声を殺して泣くあかねの頬に触れ、藤姫は「関係ありません」と云い切った。 「誰かを大切に想う気持ちは、きっと京を救います。ですから、泣かないで下さい」 夕日が落ちるまで、あかねは涙を零した。 「また、迷惑かけちゃったね」 ようやく落ち着いたのか、あかねがそっと云って藤姫にほほ笑みかけた。 「私は、もう大丈夫だから」 涙の跡を振り払い、あかねは前に進もうとしている。 振り切るのではなく。 迷うのではなく。 ……守る為に。 心配そうに見る藤姫を、あかねはとても身近に感じる。 弱みを見せても、藤姫は受け入れてくれる。自分も辛いのに。 まだ、十歳の少女が闘っている。 だから、自分は負けちゃいけない。 気合を入れて、あかねは立ち上がる。 「神子様?」 慌てて立ち上がりかけた藤姫に手を貸して、あかねは「庭に出ようか」と云う。 沈みかけた太陽が、夕日となって庭にふりそそぐ。 その大きな光が、なくなる前に。 藤姫は「わたくしがお教えした香を、明日はたいて下さいね」と云ってそろりと庭に足を下ろした。 「わかってる。その香、あの人が好きだから」 真っ赤に燃える太陽を見て、あかねが目を細めた。 あなたを守ること。 京を救うこと。 それが…… |
<了>
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