藤の香り

          キョロさま


「どけ、神子!」

私は彼に思い切り突き飛ばされ、前に倒れた。
背後で、ズブリ、と肉を貫く嫌な音が聞こえ、私は振り返る。途端、真っ赤な熱湯が顔に降り注いだ。

「――……神子…。」

降り注ぐその熱く紅い飛沫は、彼の胸から溢れ出していた。

「…神子、あと少しだ…。頼む…京を…。」

「……やす…。」

グラリ、と彼の体が傾き地面に倒れると、地が紅く染まる。
私にはその残酷な全てがスローモーションのように、ゆっくりと感じられた。
息が出来なくなり、思考が止まる。

“好きだ、神子。”
私が駆け寄って手を取ると、彼は私に微笑みかけてそう言った。
正確には、彼の唇から声は出なかったのだけど、確かにその言葉をかたどっていた。
そして、一瞬彼の顔が苦痛に歪んだかと思うと、握っていた手から力が抜ける。
――…それが最期だった。

「…やす…あき、さん…。」

あと、少しだった。最後の最後だったのに。
あなたを信じて私は今までやってきた。
あなたがいたから、私は今までやって来る事が出来た。

「……ぃ…ゃ……。」

言葉が上手く出てこない。喉の奥に、大きな石でも詰まったように。
京を救いたかった。
あなたと一緒にいたかったから。
だから、こんな結末を私は望んでいない。

「…………!!!」

声が出ない。
私は彼を唐突に失った事で、我を忘れた状態だった。そのため私の力は暴走し、全てを飲み込む。
あなたを失ってまで、京の平和を取り戻そうなんて思っていなかった。
あなたを犠牲にしてまで、守りたいものなんてあるはずもないのに――……。
私は気を失うまで力を使いつづけた。
彼は、私の身代わりになったのだ。私を守ろうとして盾になった。

私が――…彼を殺した。

私が目を覚ますと、全ては終わっていて、京は平和を取り戻した後だった。
そして、私は彼がいない現実の中にいる――…。


******


「神子様…少しはお召し上がりになりませんと…神子様まで…。お願いです、少しでも…。」

藤姫が泣きながら私に何か言っている。
私の聴覚はどこもおかしくないはずだけど、どうしたわけか、私は誰の言葉にも反応出来なくなってしまった。
それだけではなく、私は声を出す事も出来なくなってしまったのだ。手も足も鉛のように重く、動かない。視界は虚ろにかすみ、何も喉を通らない。

「神子様……。」

あの日、京が平和を取り戻して以来。
泰明さんを失って、私も死んでしまったのかもしれない。
あれからどれだけ時間が経ったのか私はよく分からないけど、私は元の世界へも帰らず、藤姫のいる館で、私の部屋で、ただじっと泰明さんの事を考えて過している。
彼の最期を。苦痛に満ちた顔を。最期の言葉を。
そして、涙だけが頬を伝っていく。
それは私の顔に降り注いだ熱い彼の血を思い起こさせ、私は叫びたくなるのだった。

「……ゃ…ぅ…!!………っ!!!」

しかし叫びたくても、声が出ない私は、どうすることも出来ない苦痛を胸に感じながらその場にうずくまるしかなかった。
藤姫が、そのたびに私を抱き締めてくれる事だけは、わかった。それでも、もう私を取り巻く黒い哀しみの闇を振り払う事は出来ない。

私が――…彼を殺した。

その考えは、いっそう闇を濃く、暗くさせる。自分が怖くて、どうしようもない。
彼は、私のせいで死んでしまったのだ。
あの時、こうであったなら、ああでなかったら…。思っても仕方のない事が次々に心に浮かび、思い出す彼の顔は苦痛に満ちていて。
私は顔を両手で覆う。

“私、愛する人を殺してしまったんだ。”

それでも、夜だけはほんの少し私の心が落ち着いた。
静かな、果てしない暗闇の中では、彼の気配を感じる事が出来た。瞳を閉じても眠れるはずもない私は、瞼の裏に彼の姿を思い描く。彼の声を、思い出す。触れられた時のぬくもりを反芻する。

“泰明さん”

心の中で呼びかける。今にも返事が聞こえてきそうで、その時だけは、彼がそばにいるような気がした。


******


また時間が過ぎていく。時間だけが。
私はここに取り残されて、永久に彼を待つ。彼と会う時を待っている。
昼と夜の境目が、次第にわからなくなってくる。私の視界がいつも暗いからだ。

「…………。」

視覚も、聴覚も、なにもかも、私は失っていた。
いや、正確にはそれらを感じる心を無くしてしまったのだろう。
闇と静寂に包まれた私は、ただじっと動かずにいるのだ。
もう、私は生と死の境目もわからなくなっていた。
闇の殻に閉じこもり、静かにゆっくりと彼を待っている。
ただ、時折何かが殻の外を掠めていく感触があり、おそらくそれは藤姫や、他の八葉達なのだろうと思った。
私は生きているけれど死んでいる存在であり、死んでいるけれど生きている存在だった。
このまま、ずっとこうしていれば、彼に会える気がする。
そんな事を考えたら、少しだけ嬉しくなった。

“…子…。”

「!!!!」

私は、全身の産毛が逆立つのを感じた。
不意に静寂を破って聞こえてきた声。ずっと、ずっと待っていた。

「……ゃ…す……!!」

私は彼に向かって叫びたかったけれど、見えるのは闇ばかりで、声もかすれて思うように出ない。それでも必死で手足を動かした。

“…神子…。”

「やす…ぁ…!!」

手に。彼の手に触れた。
覚えのあるその感触。間違いなかった。私は夢中でその手を掴む。

“神子…。”

「や、すあきさん…!!泰明さん…っ!!」

彼に抱きつくと、凍っていた私の声帯が大きく震え、声が出た。闇ばかりだった視界が、うっすらと明るくなり瞳に若草色の何かが写った。
泰明さんの、髪の色だ。手で触れると、サラサラとした手触りが感じられる。

“神子…。会いたかった…。”

私は震える手で彼の頬辿り、薄緑色と、琥珀色の彼の瞳をしっかりと覗き込んだ。
本物だ。本物の、彼だ。目の前にいる。
ふと、何かが私達の周りをチラホラと舞っている。よく見ると、それはほのかに香る紫色の藤の花びら。
私と泰明さんは、闇の中に浮かぶ美しい藤棚の下で、再会した。
それは、奇妙に幻想的な光景だった。

「泰明さん!生きていたんですね…!!」

“…………。”

彼は、私の言葉に答えず、ただ優しく笑った。

「私、あなたを殺してしまったって思っていたわ…!!」

私が、あなたを殺した…。
無くした感覚が、一気に蘇る。痛みや、悲しみ。その衝撃が胸に迫り、涙が溢れた。

「ごめんなさい…!私…あなたを犠牲にしてしまって…!!」

“お前を苦しめるために私はお前を守ったのではない…。”

泰明さんが、私を抱き締めて言った。
暖かな腕や、少し低くて澄んだその声は、確かに、彼のものだった。

“私は、私の意志でお前を守ったのだ。お前を失いたくなかったから…。ただ、それがお前を苦しめる結果となってしまった。”

「ううん、泰明さん。そんな…私の方こそ…!」

“私は…お前を哀しませてしまった。今回の事も悪かったと思っている。だが、私はああするしかなかったのだ。”

「泰明さん、もういいの…。ね、帰ろう。藤姫とか、みんな待ってるもん。」

私は、そう言って彼の手を引っ張った。
そうしないと、彼が来てくれないようになぜか思えたから。

“神子…。残念だが、私は、もう帰れない。”

「……え…?」

“お前に、伝えるためだけに来たのだ。…神子、私の死は、お前のせいではない。私は、お前のために行動し、結果がこうなっただけだ。私は神子が好きだから、守りたかったのだ…。”

「…………。」

彼の目が、哀しげに伏せられる。
藤の香りが匂いたった。

「泰明さん!私と一緒に戻ろう!ね!?もう、いいから!ねえ、一緒に来てくれるでしょう?」

“神子…。早く、元気になってくれ。元のお前に戻ってくれ…。哀しそうに動かないお前を見ているのはつらい…。”

彼はそう言って、私を抱き締める腕に一瞬力を込め、その腕をはずした。そしてゆっくりと私から離れていく。
当然、私は慌てて彼を追った。

「泰明さん…?どこにいくの!?ねえ、ずっと一緒にいるって約束したじゃない!」

“神子…。”

彼が立ち止まって、私に振り返る。
私はホッとして彼の手を握ろうと、手を伸ばした。
しかし突然、藤の花びらが嵐のように舞い上がり、泰明さんと私を引き離す。

「だめ!!行かないで!!」

“…私は永久にお前のものだ…。”

舞い上がった花びらは、泰明さんの体を優しく覆っていった。
そして、その紫色の花びらがほのかに光を発し、うっすらとぼやけて消えていくのと一緒に、泰明さんの姿も少しずつ消えてゆく。
一枚、一枚、花びらが散るように、彼の体が散ってゆく。
驚いてそれを見詰める私に、泰明さんは笑って言った。

“……神子…。愛している……。”

「泰明さんっっ!!!」

最期の一枚が散り、彼の姿が完全に消えてしまった。それと同時に、暗闇に浮かぶ藤棚も掻き消える。
シンとした暗闇に私は取り残され、呆然とした。
そして次の瞬間、私を包む闇がパリンと音を立てて割れ、目の前が急激に明るくなった。
ふいに感じた暖かな感覚に、私の体が反応する。

「神子様!!」

誰かが、私を抱き締めている。

「神子様!!神子様!!」

「………藤…ひ、め…?」

暖かな感覚は、彼女の腕だった。小さな体で、守るように私を抱き締めている。

「良かった…神子様…!!」

藤姫が涙を流していた。
まわりを見ると、泰明さんを除いた八葉の人たちが私を心配そうに見守っている。

「神子様が突然息をしなくなって…!!私は…神子様が死んでしまったかと…!!」

耐え切れなくなったのか、藤姫はその年齢に相応しく、ワアッと声を上げて泣き出す。
私はその光景をボンヤリと眺めながら、藤姫の嗚咽が鼓膜を打つのを感じていた。
視覚が、聴覚が…私に戻っている。私を取り巻いていた闇の殻はなくなっていた。

「……わたし…。さっき、綺麗な藤棚の下で、泰明さんに会ったわ…。」

「……神子様…?」

そう、彼に出会った。
彼は、本物だった。ただ、彼はもう一緒には戻れないのだと言った。
一緒にはいられない。でも…。

「泰明さんは…私を…心配して、会いにきてくれたの…。」


******


私は、日に日に回復していった。
何も飲まず、何も口にせず、ずっと動かさなかった体を、私は少しずつ元に戻してゆく。
そうして、また穏やかな生活が始まった。
私は、京に残り、京の平和を見守っていく事に決めた。
元いた世界に、天真君たちと帰ろうとは思わなかった。私はここにどうしても残りたかった。

「泰明さん…。」

いまだに慣れない京の世界。
あなたがいなくなってからの生活は、やっぱり私を哀しくさせる。
それでも、ここはあなたと出会った場所だから。
そして二人でともに過した世界だから。
「私、少し元気になってきましたよ…。」

私がここに残る事を決意してから、いつの間にかついた習慣がある。
今日も私はその習慣に従って、ここに座っていた。
一日の終わりに心地良く疲労した体を藤棚の下で休める。
舞い散る藤の花びらをじっと眺め、柔らかな香りに包まれる。その香りは私を励ますように、癒すように体に染み渡ってゆく。
そんな一時は、私が泰明さんに後ろから優しく抱き締められているように感じられた。

「……ありがとう…。」

私を守ってくれて。
私を愛してくれて。
舞い落ちる紫が、私の頬や唇に柔らかく触れる。
私も、あなたを…。

「…愛してるよ…。」

私は知らず微笑む口元からその言葉をつむぎ、ゆっくりと瞳を閉じた。
藤の香りに、彼を思い出しながら。

“……神子、愛している……。”


おしまい


*管理人から

ふにゃ〜、切ないけど、切ない〜。
って、何言ってるんでしょう(^^;。つまり、切なくて良いお話だ、ということです。
あかねちゃんは、今でも泰明の側にいるんですねえ。

こんな素敵なお話を書いてくださったキョロさん、本当にありがとうございました。
二万ヒット万歳!

 

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