白い紫陽花
翠はるか
「あー、くっそ〜」 天真は濡れた髪をかき上げながら、大きく舌打ちをした。憎々しげな視線は、雫を落とし始めた空に注がれている。 先日から徐々に雨の日が増え始め、ここ数日は連日雨が続いていた。どうやら本格的に梅雨入りしたようだった。日本の気候上仕方ないとはいえ、活動派の天真にとっては、つまらない日々だ。 「ちぇっ。珍しく雨がやんだと思ったのに」 今朝は久しぶりに雨がやんでいた。さっそく出かけようと支度をし、門まで行ったところで、また雨が降り出した。 こうなると、期待した分、余計に腹立たしい。 「…ま、いつまでもグチってても仕方ないか」 天真は空から視線を外し、邸内へと戻っていった。雨だからといって出かけられないわけではないが、気が削がれてしまった。活動的なことをしようという気すら、すっかり失せてしまう。 「どうすっかなあ。もう一回寝直すか、誰かの部屋でも行くか……」 天真はしばらく足の向くままに歩いていたが、離れまで戻ってきたところで足を止める。 「―――藤姫」 藤姫が彼女の部屋近くの廊下に立って、庭を見ていた。あまり部屋から出ない彼女にしては珍しいことだ。 「まあ、天真殿」 藤姫も天真に気付き、彼のほうを見る。 「よ。珍しいな、こんな所で」 「はい。神子様のお部屋をお訪ねするところでしたの」 「ああ、そっか」 言われてみれば、あかねの部屋の方向だ。 「今日は、神子様はお出かけにならないとの事でしたので、お慰めに絵巻物をお持ちしようと思いましたの」 藤姫はにっこり笑って、手にしていた巻物を天真に示した。途端に、天真はぷっと吹き出す。 「絵巻物〜? あいつに分かるのかよ」 天真に劣らず腕白なあかねには似合わない代物だ。むしろ、詩紋のほうが好きだろう。 遠慮なく笑う天真に、藤姫はむくれて口を尖らせた。 「失礼ですわ、天真殿。神子様は、とても聡明であらせられますのに」 珍しく本気で怒っているようだ。そういえば、彼女はあかねに過剰なほどの憧れを抱いているのだった。 天真は笑いを引っ込めて、藤姫の頭をぽんぽんと軽く叩いた。 「悪い悪い、言い過ぎた。でもよ、それなら、なんでここでぼーっとしてたんだ?」 「あ……」 藤姫が恥ずかしそうに頬を染める。 「お庭が綺麗でしたので、つい見とれてしまいましたの」 「庭?」 言われて、天真は庭に目を遣った。相変わらず雨が降り続いて重い雰囲気だった。とても、綺麗とは思えない。 「花が雨露を弾いて、光っておりますでしょう?」 藤姫が天真の心を読んだかのように付け加える。 「花あ?」 天真は改めて庭を見渡した。確かに雨露に濡れた葉や花びらがニスを塗ったようにつやつやと光っている。 「ふうん……」 天真は元来、花になど興味はなかったのだが、何せこちらは天真が現代にいたときのような娯楽はほとんどない。こっちの遊びやら風習やらに付き合っているうちに、いつしか花もそんなに悪くないと思うようになっていた。 「まあ、確かに…。お、紫陽花」 唯一、名前を知っている花を見つけ、天真が声を上げる。 「ええ。天真殿、お好きですの?」 藤姫は彼が良い反応を返してきたことを喜び、そう尋ねた。 「ん、まあ、好きってほどじゃないけど、馴染みのある花だしな。まだ、色は変わってないんだな」 紫陽花はまだその色を変えておらず、白いままだった。 「子どもの頃、妹と何色に変わるかで賭けしたこととかあってな。なんとなく気にかかるって程度」 「そうですの。でも、お気に止めてくれて嬉しいですわ。私も、あの紫陽花の色変わりを楽しみにしておりましょう」 そう言って、藤姫は嬉しそうに微笑む。その笑顔を見て、天真はふとあの紫陽花みたいだなと思った。 これから鮮やかに色づく花。何色に変わるかは、まだ分からない。 だからこそ、いつも見てしまう花。 そこまで考え、天真は我に返った。 な、何考えてんだ、俺は。友雅じゃあるまいしっ。 藤姫は急に頭をかきむしり出した天真を、不思議そうに見た。 「あの、天真殿?」 「ああ、悪い。何でもないから」 「でも……」 「何でもねえって。ほら、あかねの所に行くつもりだったんだろ。行けよ」 「そうですの……」 藤姫は物言いたげにしていたが、天真に追い払われるようにまくし立てられ、しぶしぶと歩き出した。 が、数歩進んだところで、天真を振り返る。 「あの、天真殿。色が変わります頃、眺めに来てくださいませね」 「ん? あ、ああ、そうだな…」 「では、失礼いたしますわ」 藤姫は会釈して去っていった。 天真はその後姿を見送り、ほっと息をつく。 「…ったく、ほんとうっとーしい雨」 あんな、らしくないことを考えたのも、きっとこの長雨のせい。 そんな言い訳を呟きながら、天真は自室へと戻っていった。
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