。。。

 「母さん、掃除終わった?」
 「終わったわよ。いい加減に落ち着きなさい」
 「落ち着いてるよ」
 母親のおざなりな口調に、香穂子が口を尖らせる。その横で、姉が高らかに笑った。
 「これだから、経験のない子はねえ。ま、可愛いけど」
 諸悪の根源が笑うのを、香穂子はじろりと睨みつける。
 後で、吠え面かいても知らないんだからね〜。

 ―――今日は土曜日。柚木が遊びに来る約束の日だ。
 約束の時間は、午後一時。もう間もなく来るはず。
 香穂子は、朝から落ち着かなかった。
 外でのデートならともかく、家に入れるという行為は、自分の内面を見られるようで、気恥ずかしさを感じる。
 …それに先輩だしなあ。弱味を見せないように気をつけないと。
 恋人に対するものとは思えない事を考えながら、香穂子が密かに拳を握りしめた時、窓の外に見覚えのある車が見えた。
 「あ、来たみたい」
 香穂子は小走りに玄関へ向かう。姉と母も「どれどれ」と呟きながらついてきた。
 ピンポーン。
 玄関に着くと同時に、タイミングよくチャイムがなる。
 「はーい」
 香穂子はすぐに扉を開け、―――目を見開いた。
 柚木が立っていた。いつもの私服よりフォーマルな感じのオフホワイトのジャケットを羽織り、髪は学校にいるときと同じく、結わずに背に流している。また、手には純白の花菖蒲と薄桃色のグラジオラスというしっとりした組み合わせの小ぶりな花束、それからケーキと思しき箱を持っていた。
 そして、柚木は優雅に微笑む。
 「初めまして、柚木梓馬です。ご招待ありがとうございます」
 …―――はまりすぎです、先輩。
 さながら外国映画(もちろん恋愛物)の主役、もしくはおとぎ話の王子様のような風情に、香穂子はめまいがした。ふと後方に目をやってみれば、姉と母がぽかんとした表情で柚木を見ている。
 は、恥ずかしい…。でも、ちょっといい気分かも。
 香穂子がそんな事を思ったとき、ようやく我に返った姉が気を取り直すように、柚木に微笑みかけた。
 「い、いらっしゃい。柚木くん」
 「はい。あ、良かったらどうぞ」
 柚木は再度微笑み、花束とケーキの箱を姉に差し出す。そのあまりにも優雅な動作に、さしもの姉も赤くなっていた。
 ふふんだ。人を笑ったりするからだよ。
 香穂子はすっかりいい気分になって、柚木を家の中へ導いた。

 二階の香穂子の部屋へ通されると、柚木はちらりと中を一瞥した。
 そう広くない部屋だが、きれいに整頓されているため、すっきりして見える。
 目につくのは、女の子らしい幾つかの小物とヴァイオリン関係の本。
 「割と片付いてるじゃないか」
 本音モードに戻ってそう評すると、香穂子は小さく口唇を尖らせた。
 「どんな部屋、想像してたんですか?」
 「何も想像なんかしてないさ。ただの感想」
 柚木は再びあたりを見回し、机の上にきれいな筒があるのに気付く。
 それは15センチくらいの和装の筒と、ビーズやスパンコールが入ったガラスの筒がT字型に組み合わさったものだった。
 「あ、それ万華鏡ですよ」
 香穂子が柚木の視線に気付き、どこか弾んだ声で言う。
 「それは見れば分かるが。変わった形だな」
 「そうでしょう? 先輩も覗いてみますか?」
 香穂子がいそいそとその万華鏡を取り上げ、柚木に渡す。
 手に取ってみると、ガラスの中のビーズたちがゆっくりと重力に従って落ちてくる。なるほど、この動きが万華鏡の鏡板に映って模様になるらしい。
 ためしに覗いてみると、普通の万華鏡よりずっときらきらした動きのある模様が、筒の中には広がっていた。
 「ふうん」
 「そういうの初めてで、私も見たときびっくりしたんですよ。ちょっと高かったけど、きれいだと思ったから、その場で買っちゃいました」
 柚木は軽く頷いて、それを香穂子に返した。
 「お前に似合うな」
 くるくると色合いを変えるそれは、香穂子に似ている気がした。
 だが、香穂子は軽く眉をひそめて、首を傾げる。
 「…こどもっぽい、とか?」
 柚木は苦笑する。どうも、柚木の言葉を疑ってかかるクセがついているらしい。その割に、肝心な所ではいつも抜けているのだが。
 「お前が美しいと感じたなら、そばに置く価値があるものなんだろうさ」
 そう言うと、香穂子はふと表情をゆるめ、笑う。
 「先輩は、そう言うと思いました」
 「うん?」
 「前に、美しいと思うものを側に置くようにしたらいいって言ってましたもんね」
 「……ああ」
 そういえば、以前、一緒に出かけた時に、そんな事を言った気がする。
 あの言葉を覚えていて、思い切って買う気になったということか。
 「ふうん。少しは俺の言う事が分かったのかな」
 柚木が意地悪っぽく言いながらも、口元を緩める。
 離れたところでも、香穂子が自分の言葉で動いているのは、なんとなくいい気分だ。
 小さく笑うと、肩が揺れてさらりとした髪が肩から落ちる。
 それを見た香穂子が、思い出したように言った。
 「そういえば、先輩。今日は髪を結ってないんですね」
 「ああ。そのほうが合うだろう」
 確かに、今日の服に、さらさらとした髪はよく映えている。結っていても似合うとは思うけれど。
 それにしてもさっきは可笑しかったなあ。
 香穂子が姉の表情を思い出し、くすりと笑う。
 すると、その笑いが聞こえたかのように、階段を上がる音が二人の耳に届いた。
 足音は、すぐに香穂子の部屋の前に来て止まる。
 「香穂子、入るわよ」
 姉の声だ。香穂子が立ち上がると同時にドアが開いて、姉がお盆を持って入ってきた。お盆の上には、紅茶とおしゃれなケーキ、それからクッキーがのっている。
 「お邪魔するわね。お茶持ってきたから、どうぞ」
 「ありがとうございます。気を使っていただいてすみません」
 柚木が瞬時に表情を変え、如才なく微笑む。この辺りの切り替えは、何度見ても感心(?)してしまう。
 しかも、その効果は絶大で、姉もいつになくはにかむような表情で笑った。
 「とんでもない。こちらこそ、おいしそうなケーキをありがとう」
 そう言ったということは、お盆の上のお菓子は、柚木が持ってきた箱の中身なのだろう。
 「いいえ。僕にも持ってきてくださったんですか? 皆さんで召し上がっていただければ良かったのに」
 「もちろん、いただくわ。お茶だけごちそうさせてね」
 そう言って、柚木と香穂子の間にお盆を置く。
 「あ、それから香穂子。これ」
 「なに?」
 姉はウィンクして、左手にこっそり持っていたものを香穂子の膝元に置いた。
 アクアマリンのピアスが鈍く光り、香穂子ははっとする。
 「それじゃ、ごゆっくり」
 姉は機嫌よく笑って、部屋を出て行った。
 お姉ちゃんー、こんな時に渡さなくてもいいでしょうに。
 姉が出ていった扉を睨みながら、姉とした賭けの内容を思い出す。これをくれたという事は負けを認めたという事で、それは気分がいいけれども。
 「なんだ? お前、ピアスつけるのか?」
 案の定、柚木がそう聞いてくる。
 「いえ。そうじゃないんですけど、デザインが気に入ってて…。前からお姉ちゃんに欲しいって言ってたんです」
 「つけないのに、欲しがってどうするんだ」
 「ホルダーに飾っておくんです。もしかして、先輩、ピアス嫌いですか?」
 「嫌いじゃないが、お前はつけるなよ。勝手にお前の身体に傷をつけるな」
 香穂子がつまる。要するに、それは言外に『お前は俺のものだから』と言っているようなもので。…嬉しいような、怖いような。
 思わず顔が赤らんでしまう。
 「本当に、お前の顔は百面相だな」
 「か、からかったんですかっ」
 「いいや、本気。いいね?」
 笑いを消した顔で見つめられ、香穂子は思わず頷いてしまった。
 「よし。じゃ、食べろよ。お前のために、わざわざ用意したんだぜ?」
 「あ、はい」
 目線でケーキを示され、香穂子はフォークを取った。
 実は、さっきから気になっていたのだ。見るからに安物ではなく、おいしそうで。
 フルーツタルトを選んで、ひとくち口に運んでみると、予想通り、極上においしい。
 「おいしー。これ、どこで買ったんですか?」
 「出入りの菓子屋に頼んだ。この辺では店舗は構えてないな」
 さらっと言われて、香穂子はフォークをくわえたまま密かにため息をつく。
 また「出入りの商人」か。ほんと、おぼっちゃんなんだから。
 「ところで、香穂子」
 「はい、何ですか?」
 「なんで、さっき、『しまった』って顔したんだ?」
 香穂子がぐっとフォークを噛む。
 慌てて柚木を見返すと、彼は顔をかすかに傾けた格好で香穂子を見つめていた。その様子は非常に絵になっているが、香穂子には悪魔の微笑みに見えた。
 「な、なんの事ですか?」
 「そのピアスを渡された時、お前が表情を変えて、ちらっと俺を見たときの事だよ」
 「…………」
 まずい。ばれてる。
 「ええと…」
 「気付いてるか? お前が『ええと…』と言い出すときは、言い訳を考えてる時なんだよな」
 逃げ道も、先回りしてふさがれる。香穂子は咄嗟に反応できなくて、うろたえた顔で柚木を見返した。
 これでは、何かあると白状したようなものである。
 「あの……」
 「まだ何か言う気か? 素直に言えば、お仕置きも軽くてすむぜ?」
 それでも、お仕置きすることは決定なんですね……。
 香穂子は恋人のはずの人の前で怯えなくてはならない不条理さをかみしめながら、おそるおそる口を開いた。


 「…なるほど。お前、このピアスのために俺を売ったわけだ」
 話を聞き終えた後、柚木は口唇の端を吊り上げ、見事な悪役面で微笑んだ。
 「ちっ、違いますよ。向こうが勝手に言い出したことです」
 「でも、お前も話に乗ったんだろ? だったら同じ事だ。俺も安く見られたな」
 こんな石ころのためにね、と呟く柚木に、香穂子は慌てて弁明する。
 「待ってください。別にピアスが欲しくて、賭けに乗ったわけじゃないですよ」
 「じゃあ、なんでだ?」
 「それは……、だから」
 「だから?」
 「お姉ちゃんが、先輩の事、『本当は大した事ないんでしょ』とか言うから、腹が立って」
 香穂子が拗ねたように口を尖らせて言う。
 軽い気持ちでも、柚木の悪口を言われて我慢できなかったのだと。
 「…………」
 柚木は思わず黙ってしまう。
 数瞬で怒る気持ちは失せてしまった。いや、もともと本気で怒っていたわけではない。
 その代わり、別の気持ちが湧き上がる。
 「…ま、なんにせよ、お前は俺のおかげで利益を得たわけだからな。俺にも分配があってしかるべきだよな?」
 香穂子がぎくりと身を竦ませる。
 「な、なんでしょう?」
 「ちょっと目を閉じてろ」
 「何するんですか?」
 「お前に質問権や拒否権があるとでも思ってるのか?」
 「…ううう。はい」
 香穂子が緊張した面持ちで目を閉じる。柚木は、俯き加減の彼女の頬を両手で包んで上げさせ、軽く額にキスをする。
 そして、ぴくりと震えるまぶたにもう一度。
 「…もういいぞ」
 柚木の言葉に、香穂子はそっと目を開けた。
 その顔には、戸惑いの表情が浮かんでいる。
 「今日は気分がいいからな。これで勘弁してやる」
 「え…、あ、そうですか」
 香穂子が拍子抜けしたようなほっとしたような顔になる。そんな顔を見ていると、またいじめたくなった。
 「なんだ。足りなかったか?」
 「いえっ、結構ですっ」
 予想通り、香穂子が赤くなって後ずさる。面白くて―――、可愛い。
 「もう、そんな賭けするなよ。二度目の忠告はないからな」
 「はい。ごめんなさい」
 しゅんとうなだれる香穂子は、本当に反省しているようだ。
 「いい返事だな。素直な奴にはご褒美をやるよ」
 「え?」
 「口開けて」
 柚木が、彼の分のケーキを、一片フォークにすくって香穂子の前に差し出す。香穂子はみるみる赤くなった。
 「先輩、やっぱりまだ根に持ってるんですねっ」
 「いやだな。ご褒美だって言ってるじゃないか」
 ―――俺を楽しませてくれる、ね。
 香穂子が楽しそうな柚木を思いっきり睨む。
 「お仕置きの間違いでしょっ!」


 その頃、階下では、母と姉が柚木のケーキを食べながら、話に花を咲かせていた。
 「はあー、しかし驚いたわ。あんな優雅な高校生がいるのねえ」
 「いい育ちなんでしょうね。このケーキがまた美味しいもの」
 「後で、香穂子から、どうやってあんな子をゲットしたか聞き出さないとね」
 姉が目を輝かせてそう宣言した事を、幸いにも香穂子はまだ知らなかった。


<了>

 

[前編]

[戻る]

 

後書き

この話を書くとき、早川に「柚木様が持ってくる花束ってどんなだと思う?」
とメールしたら、即座に「ドクダミとトリカブト」と返事が返ってきました。
さすが、私の相方(笑)。