「ねえ、香穂子」
事件は、そんな姉の一言から始まった。
居間でテレビを見ていた香穂子は、仕事帰りの姉を、なんの警戒もなく振り返る。
「なに、お姉ちゃん?」
「さっき、ご近所さんから聞いたんだけどさ。あんた、このところ、派手な車で送り迎えしてもらってるって?」
「あ――……」
語尾がかすれて消える。
とうとう聞かれたか、という気分である。もう半月以上続いていることなのだから、むしろ遅すぎたくらいだが。
「本当なわけ?」
姉の目が鋭くなる。香穂子はその迫力に押されながらも、言葉を探した。
「えーっとね、学校の先輩に乗せてもらってるの」
だが、そんな言葉でごまかされる姉ではなかった。
「その先輩って、男?」
「う、うん……」
「まさか、彼氏?」
「ま、まあ…ね…」
「ふうん」
姉が納得したように頷く。そして、香穂子の隣にやってきて、腰を降ろした。
「どんな人?」
目が輝いている。姉はこういう話が大好きなのだ。
対して、香穂子は小さくため息をつく。これだから、言いたくなかったのだ。
昔から、香穂子に好きな人ができると、なんでも根掘り葉掘り聞いてくる。害はないが、疲れるのだ。
…でも、ま、いいか。少し前ならいざ知らず、今ではちゃんと紹介できる立場になったのだから。
香穂子は姉に向き直った。本音のところでは、彼を「彼氏」として話せることが嬉しかった。
―――数分後、日野家には高らかな笑い声が響き渡った。
「なんで、そんなに笑うのよ!」
香穂子が赤くなって抗議すると、姉は手をひらひらと振りながら、だって、と続けた。
「あんたにそんな出来た彼氏ができるわけないじゃないの。顔が良くて、全国で500位に入る成績で、人望もある学園のプリンスですって?」
そう言って、また笑い転げる。
「本当だってば!」
「だったら、私は本物の王様でもつかまえてないとおかしいじゃない」
そう言って、姉は髪をかきあげながらふふんと笑う。その仕草は、仕事用のスーツによく似合っていて、大人の色気も感じさせた。
確かに、姉は香穂子より美人だ。びしっと決めたスーツ姿は、女の目から見ても素敵だと思うし、今まで受けた告白の数ゆえか自信のある笑みが華やかさを添えている。
でも、その発言は許せない。
「本当に本当なんだから」
「あら、言い張るわね。ま、どうせ、ろくに恋愛したこともないあんたが言う事だもんね。空想が8割方ってところで、実際は大した事ないんでしょ」
実の姉なのに、なんという言い草だろうか。だが、それよりも香穂子が腹を立てたのは。
「大した事なくないよ! 先輩は本当にかっこいいし(性格はともかく)、人気者だし(騙されてるからなんだけど)、優しい(ごくまれに)んだから!」
カッコ内の言葉は胸に秘めつつ、香穂子は反論する。裏はあるが、言ったことは嘘ではないのだ。
「へーえ。じゃあ、一度、見せてみなさいよ」
「えっ?」
突然の成り行きに、香穂子は目を見開く。
「その彼氏を、一度うちに連れてきなさいよ。どんなものか批評してあげるから」
「ひ、批評って…」
「そうねー。本当だったら、あんたが欲しがってた、アクアマリンのピアスをあげてもいいわよ」
「ええ?」
「嘘だったら、この間あんたが買ったミュールをもらうからね」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
香穂子は焦る。どうして、こういう話の流れになったのだろう。
それに批評って…、あの柚木梓馬を批評しようだなんて、知らないとは言え、いい度胸というか、怖いからやめてほしい。
黙ってしまった香穂子を見て、姉は挑戦的に笑った。
「なんだ、やっぱりあんたの妄想なんだ」
「…っっっ! 分かった。今度、連れてくる!」
そして、姉の思うまま、香穂子は叫んだのだった。
一夜明けて午前8時、香穂子の家から少し離れたところに、いつもの車が止まった。
家の前に横付けするのは体裁が悪いから、という事でそうしている。だから、今まで姉の目をごまかせたのだが。
香穂子は小さくため息をつきながら、柚木の車へと急ぎ足で駆けていった。
「おはようございます、先輩」
「ああ、おはよう」
車に乗り込むと、柚木は優美な仕草で首を傾けた。
改めて見ても、やっぱり綺麗だなと思う。
「なんだ? 間抜けな顔して」
出てくる言葉はこんなだけど。
「こういう顔なんです」
「ああ、そうだったな」
さらりと返されて、香穂子はふくれる。もちろん、柚木を笑わせる意味しか持たなかったが。
まったくもう、いつもこうなんだから。
香穂子は柚木の涼しげな横顔を睨みつけた。
…それにしても、なんだって、まあ、こんな厄介な人を好きになっちゃったのかな。
過程を思い出していくと、なんだか信じられない気がする。期間にすれば、一ヶ月と少しの事だったのに、ずい分いろいろな事があった。
まるでドラマみたいな恋愛だと思う。ヴァイオリン・ロマンスなんて、聞いたときは本当に夢の話だと思った。それが現実になって、でも、今でも夢のような気がするときもあって。でも、そんな時、柚木の悪口(あっこう)を聞くと、ああ、現実なんだなと妙に安心する。本人には絶対に言わないけれど。
そうだなあ、それに、負けず嫌いのところも嫌いじゃない。最初、「潰してやらないと気がすまない」と言ったときは、ものすごく引いたけど。ちゃんと努力してる人だもんね。
香穂子の口元に、知らずの内に微笑みが浮かぶ。
が、それはすぐに曇ってしまった。
ああ…、どうすればいいのかな。
浮かんでくるのは、姉の言葉。別に家に呼ぶのは、少し緊張するけど構わない。だけど、姉が柚木に余計な事を言いやしないか、それが心配だ。姉なら、少しは気を使ってくれてもいいのに。私が少しでも邪魔をしたら怒るくせに。
…まあ、とりあえず、今日中になんとか作戦を練ろう。
そう決めて、香穂子はふうっと息をついた。そして、柚木がごく近くで自分の顔を覗き込んでいるのに気付き、飛び上がった。
「な、何見てるんですかっ!?」
彼の顔は、心の準備なしに見るには刺激が強すぎる。
真っ赤になった香穂子に、柚木は意地悪く笑いながら身体を起こした。
「いや、お前の百面相が面白かったから」
「百面相って……」
香穂子は思わず、両手で顔を押さえた。何か顔に出してただろうか。
「何を考えてたんだ?」
「別に…、大した事じゃないですよ」
「ふうん。俺のことを考えるのは、大した事じゃないわけだ」
「えっ」
なんで分かるんだろう。
「分かるさ。顔に書いてあるからな」
「かっ、勝手に読まないでください」
柚木がにこりと笑う。
「それじゃ、ちゃんと口に出して言ってごらん?」
口調が丁寧になっている。こうなったら駄目だ、話すまで許してもらえない。しかも、自分は嘘がつけない性格で、相手は嘘を見抜く天才なのだ。
「ええと……」
香穂子が忙しく視線を動かしていると、それまで静かに走っていた車にブレーキがかかった。
はっとして窓の外を見ると、いつの間にか車は学園の正門に着いていた。
「あっ、先輩。学校に着きましたよ」
あからさまにほっとして言うと、柚木は小さく頷き、事もなげに呟いた。
「じゃあ、帰りにね」
香穂子が固まる。この場を逃げ出せると喜んだものの、帰りという難関があるのを忘れていた。しかも、今の言葉は、暗に逃げたら許さないと言っている。
ううう。やっぱりこうなるのか。
「分かりました。あのですね」
「今でいいのか?」
柚木が軽く眉を上げるのに、香穂子は頷く。
同じ事なら、早く楽になりたい。
香穂子は取調べを受けている容疑者のような気持ちで、柚木を見返した。
「昨日、お姉ちゃんから先輩のこと聞かれたんですよ」
「お前の姉? なんて聞かれたんだ」
「先輩に送り迎えしてもらってるって知って、どういう人なのって」
「へえ?」
どう答えたんだと暗に聞かれて、香穂子は続ける。
「だから、頭が良くて、人気があって…て答えてたんですよ」
「ふうん」
「……そうしたら、信じられないから、一度見てみたいって」
香穂子はそこで言葉を切り、柚木の様子を窺うように彼を見上げた。
「なるほどね」
柚木は頷くと、くすりと笑って香穂子を見た。香穂子が警戒して体を固くするが、それも計算のうち。
「それで?」
「え…、それで、って……」
「今の話じゃ、具体的にどうしてほしいというのはなかったからな」
分かってるくせに、と香穂子の眉がひそめられる。そういう顔が見たくて言ったのだから、柚木としては満足だが。
「一度、私の家に来てほしいんです」
「そう。いいよ」
すんなりと答えが返ってくる。もう少し何かあるかと思っていた香穂子は拍子抜けしたが、それよりもほっとした。彼に何か頼むというのは、多大な気力を要するのだ。
が、甘かった。
「ところで、香穂子。俺は優しい先輩として行けばいいわけか?」
「え?」
「毎日、送り迎えしてくれる優しい先輩、って紹介するつもりか?」
「…………」
香穂子が恨みがましい視線を、柚木に送る。
「恋人って紹介しますよ。いいんでしょ?」
「へえ。誰が、誰の?」
「先輩が、私のですよっ」
香穂子は半ばヤケになって叫ぶ。
彼はいつもそういう事を言わせたがる。それを見て面白がるから、恥ずかしくてたまらない。
だが、我慢の甲斐あって、柚木は機嫌よく笑った。
「OK。それじゃ、次の土曜日は空けておいてやるよ」
「え? いえ、別に学校帰りにちょっと寄ってもらうくらいでいいんですけど」
あまり長く、あの姉と会って欲しくはないし。
だが、柚木はさらっと答えた。
「どうせなら、ちゃんとしたほうがいいだろう」
へ? ちゃんとする? ちゃんとするって…、何をするんだろう。
首を傾げる香穂子の前で、柚木は腕時計の盤面に目を落とした。
「さて、そろそろ行かないと、遅刻だぞ」
「あっ、いけない。忘れてた!」
慌てて車から出ると、ちょうど予鈴が学園内に鳴り響くところだった。
<続>