その日は、朝から何か様子が変だった。
妙に落ち着かない、はしゃいだ様子の人を、あちこちで見かける。昨日、コンクールが終わったばかりだからかと思ったけど、どうも違うみたい。だって、それはすべて女子で、しかも、いつもより私に突き刺さる視線が痛いんだもの。
変といえば、柚木先輩も。今朝も車で送ってもらったんだけど、いつもは降りたらさっさと別れるのに、今日に限って、「気分が悪いから、音楽科棟まで送れ」だって。おかげで、周囲の女の子の視線が痛くて…。普通科に戻ってきたら一息つけると思ったのに、こっちのほうがキツイ気すらするよ。なんでだろう…?
「おっはよー、香穂子!」
香穂子が首を傾げながら教室へ向かっていると、元気な挨拶と共に天羽菜美が軽くタックルをしてきた。
「きゃあっ」
軽く、とはいえ、考え事に熱中していた香穂子は、まともに菜美の攻撃を受け、手にしていたヴァイオリンケースを落としそうになってしまう。
「な、何っ?」
さすがに怒りを感じて振り返ると、対照的に、菜美が晴れやかな顔で立っていた。
「おっはよ」
「天羽ちゃん、おはようじゃないよ。びっくりしたじゃない」
「ごめんごめん。あんたの後ろ姿見たら、なんか飛びつきたくなってね」
「まったくもう」
悪びれた様子のない菜美に、香穂子は怒る気もなくしてしまった。
「で、何かあったの?」
菜美がこんなふうにタックルしてくる時は、興奮している時なのだ。
案の定、話を振られて、菜美は嬉しそうに笑う。
「うっふっふ。特ダネを仕入れたからね」
そう言って、ちらりと香穂子を見る。良かったね、と言おうとしていた香穂子は、ふと警戒の表情を浮かべて、菜美を見返した。菜美のこの表情、なんだか嫌な予感がする。
コンクール中に、そういう勘を鍛えられた彼女は、早目に話題転換することにした。
「そういえば、なんだか朝から女の子たちの様子が変なんだけど。天羽ちゃん、何か知らない?」
報道部なだけあって、菜美の情報網は侮れない。時々、その情報源にされてしまうのは困りものだが。
「ああ、そりゃあ、年に一度のビッグイベントだろうからね。落ち着かないのはあんただけじゃないって事よ」
「え???」
意味が分からなくて首を傾げると、菜美も怪訝そうに首を傾けた。
「今日、柚木さんの誕生日でしょ?」
「えっ、そうなの?」
香穂子は目を見開いた。
言われて初めて、柚木の誕生日を知らなかったことに気付く。コンクール前は、学科が違うためよく知らなかったし、コンクール中もそんな話題が出る雰囲気ではなかった。
でも、誕生日も知らなかったんだ…。
落ち込みを感じていると、菜美が追い打ちのように呆れ声で言う。
「やだ、あんた知らなかったの? 彼女のクセに」
ぎく、と香穂子の表情がこわばる。
「あっ、天羽ちゃん、どこからそれ…」
そうなったのは、つい昨日のことなのに。誰にも言ってないはずなのに。ま、まさか、親衛隊のみなさんにも伝わってるんじゃ…。
焦りまくっていると、菜美はあっさりと答えた。
「どこからって、毎日一緒に登下校してれば、みんな気付くでしょ」
「えっ、あ、ああ、それね…」
あれは、別にそんな関係じゃなかったのだけど。他人から見れば、そう見えるんだろう。
「それに、昨日、柚木さんとあんた、コンクールが終わった後、どこかに行っちゃったじゃない。これはそういう事なんだなーって、冬海ちゃんとも話してたのよ」
「うわあっ」
香穂子は慌てて人指し指を口元に当てる。やっぱり知られてたのか。
「なによ、いい事じゃない。仲良き事は美しきかな♪」
「それはいいんだけど。天羽ちゃん、お願いだから、記事にしたりしないでよ?」
「えー、駄目かな? すごく受けると思うんだけど」
「これ以上、敵を増やしたくないんだってば」
「あっはは、なるほどね。あんたも大変な人を好きになったもんよね」
「まあね」
香穂子はため息混じりに頷く。もっとも、菜美が思っている以上の大変さが彼にはあるのだが。
「……でも、そっか。みんな先輩にプレゼント渡そうとか思ってて、それで落ち着かないんだね」
納得して呟くと、菜美も頷いて、同意の意を示す。
「誕生日にアタックしようとか考えてた子もいるだろうしね。あんたに一足先を越されちゃったってわけだ。決まった人ができちゃったら、プレゼントも渡しにくいしね」
う、うう〜。だから、そういう事を大声で言わないでほしい。正直、まだ実感が湧いてないんだから。
「でも、あんた、誕生日くらい知っときなさいよ」
「そ、そうだね」
「よし、親友のために一肌脱ぐか」
菜美はうきうきとした声で言って、鞄の中からファイルを取り出した。
「ええっと、柚木さんのは…。ああ、あった」
はい、これ、と紙を渡される。香穂子はそれに目を落とし…、悲鳴をあげた。
「なに、これっ…!」
それは柚木のプロフィール一覧だった。誕生日はもちろん、身長、体重、家族構成、その他もろもろがA4版の紙にびっしりとプリントしてある。
「それあげるから、読んどきなさいよ。でないと、親衛隊の子達に出し抜かれるわよ」
その好意は嬉しい気もする…が。
「なんで、こんなデータ持ってるの?」
「報道部だからね」
言い切った菜美に、一抹の不安が胸をよぎる。
「まさか、私のも調べてあるの?」
報道部は、全生徒のこんな情報を調べ上げているんだろうか。それはとても怖い。
おそるおそる尋ねた香穂子に、菜美はあっさりと首を横に振った。
「あんたのは商品価値がないからね」
「あ、そ…」
香穂子はがっくりと肩を落とす。
ま、それもそうか。学園で圧倒的な人気を誇る柚木先輩だから、ここまでしたんだろう。
がっかりしつつも、ほっとしていると、菜美がにっと笑いを浮かべた。
「なーんて、それは少し前までの話なんだけどね。今は、あんたの株も急上昇中なんだよ」
「へっ?」
香穂子が間の抜けた声をあげると、菜美はやおら腰に手を当てて胸を張った。
「普通科からの異例のコンクール出場! しかも、奇跡の逆転優勝! 『僕がぜひヴァイオリン・ロマンスの候補に』、という声が続々と!」
「や、やめてよ、そんな大声で」
慌てて止めると、菜美はからからと笑う。
「謙虚だなあ。もっと胸を張ればいいのに」
「恥ずかしいよ。それに、普通科から出たのは私だけじゃないでしょ」
「ああ、土浦くんね。彼はもともと一部の女子に人気だったからね」
…つまり、すでに調査済みってことだろうか。
「コンクールで、やっぱり彼のファンも増えたみたいよ」
「うん、まあ、そうだろうね」
彼の情熱的なピアノの音色は、人の心を揺さぶるに十分すぎるほどだったから。
「おや、さっそく浮気?」
「ち、違うよっ」
「あはは、冗談、冗談。じゃ、またね〜」
菜美は会った時と同じく、元気に走り去っていった。
残された香穂子はほっと息をつきつつ、手にした紙に目を向ける。
先輩のプロフィールか…。お昼休みにでもゆっくり見ようっと。
その時、ちょうど予鈴が廊下に鳴り渡った。
昼休み。香穂子は森の広場でお弁当を広げながら、例の紙を読んでいた。
菜美の情報には、香穂子が知ってるものから知らないものまで様々あり、なかなか楽しかった。
『趣味…花を活けること、音楽を聴くこと』
あ、これ私が調べた奴だ。
あの頃は、先輩が怖くて怖くて仕方なかったんだよね。頼んだ天羽ちゃんを恨んだものだよ。
どこか懐かしく思い出していた香穂子は、はたとある事に気付く。
そういえば、先輩、本当に好きなものは人に教えたくないって言ってたよね。とすると、この情報も大してあてにはできないのかも。いや、もちろん、すべてが嘘という事はないだろうけども。
香穂子はしばらく紙とにらめっこしていたが、やがて大きく息を吐いて、その紙を鞄にしまった。
それにしても困った。
昨日までに分かってれば、プレゼントも用意できたのに。
でも、先輩って何をあげたら喜ぶんだろ。
好きなものは漆器、って言ってたよね。でも、私のお小遣いで買える値段じゃないし。でも、それ以外のものにしても高級志向なんだろうな。
とすると…、うーん、先輩が好きで、私にあげられるものって何かなあ。
一生懸命考えるが、これといったものは浮かんでこない。更に、財布の中身とも相談しなくてはならないから、選択の幅はますます限られた。
それに何より今日中にあげたいから、買いに行く時間すらない。
うーんと頭を抱え、香穂子はふと顔を上げた。
そう…か。
あった。
喜んでもらえるかは分からないけど。
香穂子の顔がぱっと輝く。
そして、勢いよく立ち上がると、図書館に向かって駆け出していった。
そして、放課後。香穂子は柚木を探していた。探した、と言っても、なんとなく今日はいそうな場所が分かっていたけれど。
屋上の扉を開けると、やはりそこに彼はいた。
「柚木先輩」
「――ああ、お前か」
正門のほうを見下ろしていた柚木が、振り返って唇の端に微笑を浮かべる。
その微笑はどことなく疲れたもので、今日は親衛隊のお姉さま方に捕まりっぱなしだったのかな〜と香穂子は思った。
だとしたら間が悪いかも、と思うが、ここまで来ておいて、それじゃさようならというのは、もっとまずいだろう。
そう判断し、柚木のとなりに駆け寄る。
「先輩、誕生日、おめでとうございます」
満面の笑みを浮かべながらお祝いの言葉をかける。対して、柚木はちらりと香穂子を見下ろし、シニカルな笑みを浮かべた。
「ああ、誰かから聞いたの?」
暗に、今朝まで知らなかった事を指摘されたようで、香穂子はびくりと身を震わせる。
「は、はい、私、知らなくて…」
「だろうね。今朝はずっと中間考査の話ばかりだったしな。赤点がいくつ取れそうなんだっけ?」
「す、すいません」
香穂子は俯いてしまった。やっぱり呆れてるのかなと思っていると、頭上からくすくすと笑い声が聞こえた。
顔を上げると、柚木が楽しそうに笑い声を上げている。
「真に受けるな。そもそも、誕生日なんて、取り立てて騒ぐほどのものでもないしな」
「え、そ、そうですか? おめでたい日じゃないですか。それに、先輩だったら、いろんな人からお祝いしてもらえるんじゃないですか?」
どうやら呆れられてはいないようだとほっとしつつも、彼の言った内容が気になってそう尋ねる。すると、柚木の顔からそれまでの機嫌よさそうな笑いが引っ込み、再びシニカルな笑みが浮かんだ。
「そうだな。お祝いを口実に近寄ってくるヤツらとかな」
「………」
香穂子が息を飲む。それに気付いて、柚木はふっと表情を緩めた。
「ちょっと喋りすぎたか、適当に忘れろよ」
「は、はあ…」
そう言われても、今の柚木の言葉は紛れもなく彼の本心で、しかも重くて、はいそうですかと簡単に言えない。
とはいえ、柚木の横顔はその話題に触れる事を拒否していたので、香穂子もそう振る舞う事にする。
「そういえば、今朝、気分が悪いって言ってたのは治ったんですか?」
話題を変えるために言うと、柚木にもそれが分かったのか、シニカルな表情を消して香穂子を見返した。
「ああ、あれは女よけ。一人でいると、女の子たちに囲まれそうだったからね。朝から疲れることはしたくない」
香穂子がぐぐっと口の中で呻き声を上げる。
以前――確か第二セレクションが終わった後、にもそんな事を言われた。あれから相変わらず、自分のポジションは虫除けなのか。第一、自分で引き寄せているくせに。
その思いが思いっきり顔に出ていたのだろう。柚木はくすりと笑うと、香穂子の耳元に口唇を寄せた。
「何を怒ってるんだ? ”彼女”が側にいれば、他の女の子も堂々と近寄れないだろうって意味なのに」
「せ、先輩っ」
香穂子が赤くなって顔を上げると、柚木は機嫌よさそうに笑っていた。絶対、からかってるんだ。
でも、からかいでも『彼女』と言ってくれた事が嬉しくて、怒る気にはならなかった。
「―――さて、じゃあ、話を戻そうか」
「えっ?」
香穂子が目をぱちくりさせる。
「さっきも言った通り、俺は誕生日なんてどうでもいいけど、お前が何をくれるつもりなのかは興味があるな」
「あ、ああ。それは、あのう…」
「まさか、おめでとうで終わりなのか?」
「あ、いえっ、あの…」
あたふたと、体の前で両手を振る香穂子に、柚木が小さく吹きだす。
「冗談だよ。今朝まで知らなかったんだ、期待はしてない」
相変わらず楽しい反応を返してくれるから、それが贈り物ということで構わない。
そう思っていたら、香穂子はそれまで以上に激しく手を振って、その言葉を否定した。
「いえっ、ちゃんと考えてきたんです。聞いてもらえますか?」
「なんだ?」
「考えたんですけど、やっぱりこれしかないかなと思って」
「うん?」
「私にできることで、一番はこれかなって思ったから」
答えになっているようでなっていない答えを返し、香穂子は近くのベンチに駆け寄ると、ヴァイオリンケースを広げて、楽器の準備をした。
その様子を、柚木は黙って見つめた。
彼女が何をするつもりかは一目瞭然だ。単純な、と思うものの、彼女は9割の予想通りの反応と1割の意外な反応をいつも返してくるから、今回も何かあるかもしれない。
そう思うと、少し楽しみな気分になってきた。彼女が楽器を準備する時間を待ち遠しく感じるくらいには。
やがて、準備を終えた香穂子がヴァイオリンを構える。
香穂子はヴァイオリンを構えると雰囲気が変わる。張りつめた弓のような、ぴんと筋の通った雰囲気。その雰囲気が柚木は嫌いではない。
香穂子の腕が、動く。弓が弦を擦り、音色があふれ出す。
流れてくる調べは、『誕生日の歌』。
意外な選曲だが、彼女らしいかもしれない。単純で、でも懐かしい。
そういえば、よく耳にする歌だが、自分に向けられるのは幼稚園以来くらいかもしれない。家ではそういう洋式、というよりホームドラマみたいな事はしない。
いつもより贅をつくした食事に、祖母のおありがたい訓辞がつくだけだ。
もしくは、どこかの家を招いて、魂胆が見え見えのパーティが開かれる。今夜のように。
―――馬鹿馬鹿しいな。それよりは、こうして香穂子の色気のない演奏でも聞いているほうがいい。
柚木は目を閉じて、香穂子の音に耳を傾けた。
曲はもともとが短いものだったので、すぐに終わってしまったが、それでも柚木は満足した。目を開けて、お辞儀をする香穂子に拍手をしようと思ったら、彼女は再びヴァイオリンを構えた。
まだあるのか、と思った柚木をヴァイオリンの調べが包む。
あ―――…。
『愛のあいさつ』
昨日、香穂子が聞かせてくれた曲だ。
コンクールで恋が実るなんて、あれほど馬鹿にしていたジンクスを実現してしまった。
柚木は再び目を閉じる。
音に集中すると、旋律の温かさがより感じられて、心が満ちる思いがする。
ああ…。これがお前が贈ろうとしたものか。
香穂子の音はとても素直で、聞いていると、ついこちらも素直な気分になってしまう。
その素直な気分で心に浮かぶのは、やはり彼女のこと。
香穂子は、今朝からずっと戸惑ったような様子をしていた。俺の言葉にもいつもより反応して。
昨日の出来事が現実だったか実感が湧かない、というところだろう。―――実感が湧いてないのは、俺も同じなんだけどな。
自分でも笑えるよ。さっき、”恋人”だと言って、お前が否定せずに照れた表情をしたとき、俺が安心したこと、知ってるか?
知らないだろうな。知らないくせに、俺が無意識に望んだ事を、いつもしてみせるんだよな、お前は。
やがて、優しくて温かな時間が終わる。香穂子はヴァイオリンを降ろし、どきどきしながら柚木を見た。同時に、柚木も目を開け、香穂子を見る。
「――音色が贈り物とは、お前らしいな」
「は、はい。これしかないと思って。音色と、…音に込めた気持ちです」
言って、香穂子はかすかに頬を染める。相変わらずストレートにものを言うやつだと、柚木は思う。思わずつられそうなほどに。
「なるほど。俺を満足させた自信があるわけだ」
「えっ、よ、喜んでもらえませんでした?」
香穂子の顔色が一転して青くなる。それを見遣って、柚木は小さく笑うと彼女のほうへ歩み寄る。
からかうのはやめた、今日くらいはな。
「香穂子、人の話は最後まで聞け。誰も、満足してないなんて言ってないだろう?」
「え、それじゃ…」
柚木は微笑を浮かべ、偽りのない優しい声で囁く。
「したよ。ありがとう、香穂子」
「先輩……」
香穂子が嬉しそうに笑う。
単純に、柚木が喜んでくれたことが嬉しい。それ以外の意味などない笑顔。
飾らない、心からの笑顔。彼女の笑顔にはいやらしさがない。
…本当にかわいいな、お前は。
こんな風に過ごせるなら誕生日も悪くない、と思った。
「……香穂子」
「はい?」
見上げる香穂子の前に、柚木の顔が近付いてくる。
「え…」
口唇が、触れる。
その瞬間、時間が止まった。
「……な、何するんですかっ」
我に返った香穂子が真っ赤になって飛びすさる。それに柚木はしれっと答えた。
「お礼」
「お、お礼って……」
香穂子は目を白黒させている。柚木は微苦笑しながら、風見鶏のほうに視線を向けた。
今のは柚木にしては珍しく衝動的な行動で、実のところ彼自身も驚いていた。
行動に移すまで、そうしようなんて考えていなかったのに。
だが、それが顔に出ないのが、彼の彼たるゆえんだろう。
やがて、香穂子が諦めたようにため息をつく。
「せめて、先に何か言ってください…」
ため息混じりの声には、柚木のやる事だから仕方ない、という雰囲気がありありと窺えた。
これまで散々いじめてきたせいかと思うと、柚木も苦笑を禁じえない。
「――ところで、お前の誕生日、10月だろう?」
「えっ、どうして知ってるんですか?」
ふと思いついて言うと、香穂子が拗ねた表情を消し、弾かれたように顔を上げる。
「ああ、やっぱり? 穂が香る頃に生まれたんだろうと思ったから」
ああ、と香穂子が納得したように頷く。
「びっくりしました。そうなんですよ、私が生まれた頃、母がススキ野原を見て感動したとかで、名前にどうしても『穂』を入れたかったんだそうです。でも、ススキなんて、小さい頃は嫌だったなあ」
「どうして?」
柚木が不思議そうに問う。
「だって…、なんとなく枯れたイメージがありません? きれいな花じゃないですし」
「そうか? 薄野原が風に揺れる様は、金色の海のようじゃないか。あの美しさは、残念だが花器に活けた花には出せない、雄大なものだ。見たことないのか?」
「ススキは見たことありますけど…、そんな海というほど綺麗とは思えなかったですよ?」
「どうせ土手とかで見たんだろ。あれは10本や20本じゃ、さっぱり映えないものだからな。それじゃ、その内、見せてやるよ。いい場所、知ってるから」
「ほんとですか、やった♪」
香穂子が小さくガッツポーズを作って、喜びの意を示す。普段なら特に気にも止めない事だが、今回は優しい気持ちになった。
「その頃はお前の誕生日だな。覚えてたら、何か用意するさ」
「ええ、ほんとですか?」
「覚えてたら、だぜ」
「いいです、それでも」
柚木がそういうことを言ってくれるのが嬉しい。そっけない口調だけれど、優しさが伝わってくるから。
音と同じく、言葉でも。
……あ。
ふと香穂子は思いつく。
「…あの、柚木先輩。それじゃ、リクエストとか、していいですか?」
「なんだ、ずうずうしいヤツだな」
「うっ、だめですか…?」
「ま、聞くだけ聞いてやるよ。なにが欲しいの?」
彼女が何をリクエストするか興味もあり、柚木は先を促す。すると、香穂子はとびきりの笑顔で答えた。
「昨日の曲、聞かせてほしいです」
―――セレナード。
最終セレクションで柚木が演奏した曲。そこには、彼の特別な思いがこもっていた。それは確かに香穂子に届いた。
「……ふうん」
柚木は短い沈黙の後、呟く。
やはり彼女だと思う。十分、予測の範囲内に入りそうなのに、何故か予測できない。
彼女が望んだのは、たった1分半ほどの時間。望めば、学生には手に余るような高価なものだって揃えてやれるのに。
けれど、控えめなようでいて、実は一番贅沢なものを望んでいるのかもしれない。
柚木の心、という。
「…覚えてたら、な」
香穂子は嬉しそうに笑った。
「嬉しいな。先輩の誕生日なのに、なんだか私にもいい日になっちゃいましたね」
その言葉に、柚木がふと意地の悪い笑みを浮かべる。
「気になるか? それじゃ、気を遣わせても悪いから、俺もリクエストすることにしようか」
「えっ?」
「さっきの曲、もう一度」
「…はいっ」
香穂子が楽しそうに演奏の準備を始める。やがて広がる温かな空間に、柚木は浸る。
―――俺以外の奴のために弾くなよ、これから先も。
小さく口の中で呟く。
「俺も、あの曲はお前のためにしか吹かないんだからさ」
<了>